11月のプロミス(2)
「ただいまー」
玄関のドアが開くと、クリスマスがのろのろとリビングに入ってきた。
時計を見ると、午後の八時すぎ。
どうやら、今日はバイトの日だったらしい。
料理の匂いにつられて、手元をのぞき込んでくる。
「わ、いい匂い。今日なに?」
「……すき焼き。昨日、スーパーで肉が安かったからな」
「うわ、なにこれ。ちょー豪華じゃん。ねえねえ、ちょっと味見してあげよーか?」
「すぐできるから待っとけ。あ、風呂、沸いてんぞ」
「え、ほんとー? やった! じゃあ、先にもらいまーす」
寝室に入って、パジャマを抱えて脱衣所に取って返していった。
すぐにそっちのほうから、やつがいまハマっているアニメの鼻歌が聞こえてくる。
フライパンの割下に豆腐を切り入れながら、その様子をうかがっていた。
……いつもと違うようには見えないが。
残りの具材をフライパンに放り込むと、タイマーをセットして蓋を閉めた。
「……ふうっ」
ソファに座って、先にビールを開ける。
テレビでは、クリスマスも好きなバラエティ番組が流れていた。
いま流行りの若手芸人が、下品なネタで出演者から総ツッコミを食らっている。
「…………」
――今夜は、親戚のところに戻ります。
昨日の昼ごろ、携帯に入ったメール。
それにおれは、『わかった』とだけ返信した。
それ以外の言葉など、思いつかなかった。
いや、嘘だ。本当は、他にも文字を打っていた。
『どうした?』
『なにかあったのか?』
『ひとりで大丈夫か?』
いま考えると、お節介の極みだった。
結局、それは消した。
消して、『わかった』とだけ告げた。
……当然だ。
おれはただ、寝泊まりする場所を提供するだけの他人だ。
これまでもそうだし、これからもそのつもりだ。
やつにとっては、ここは止まり木。
おれにとっては、やつは渡り鳥。
気がつけばそんな柄にもないことを考えて、馬鹿馬鹿しいと苦笑した。
帰るときに、スーパーに寄った。
牛肉が安かったから、すき焼きを作ろうと思った。
でも、手に取ったのは特売の海外産の牛肉ではなく、少しお高い国産のやつを選んでいた。
卵を買うときに、下の段から、消費期限が一日、遠いものをカゴに入れた。
クリスマスがいつも飲んでいたコーヒー牛乳がなくなっていたのを思い出して、カゴに入れた。
帰ったら、なぜかひょっこり戻ってきているのを想像した。
しかし結局、おれを迎えたのは無人のリビングだった。
暗かった。当然だ。誰もいないのだから、電気が点いていては困る。
ただ、それがなぜか、ものすごく寒々しい空間のように思えて仕方なかった。
朝、干していった洗濯物が目に入った。
おれの服といっしょに、クリスマスの学校のブラウスやら部屋着やらが干してあった。
前の日に、あいつが着ていたものだった。
それなのに、なぜかもう何年も、そこに干しっぱなしにしているもののように感じた。
結局、ビールとつまみで済ませた。
テレビを観ながら、玄関の鍵が開けっぱなしなのに気づいた。
まあ、いいか。あいつが戻ってきたとき、閉まっていたら可哀想だ。
そんな言い訳をしながら、ずっとテレビを観ていた。
……なにを、あんなに恐れていたのだろうか。
それは言葉にすると、やけにしっくりとくる感情だった。
自分は恐れていた。
なにを、と言われれば、それを形にすることはできなかった。
最後にひとりで夜を過ごしたのは、いつだったか。
あの夜――クリスマスがやってきて以来、初めてのことだった。
「はあー。オジサン、おさきー」
冬用のもこもこパジャマを着たクリスマスが、髪をタオルで拭きながら戻ってきた。すると、途端に目をつり上げる。
「オジサン、お皿とか出してないじゃん!」
テレビでは、その若手芸人がプールへと飛び込もうとしていた。
今日び、こういう企画、減ったよなあ。
「あー、いま、ちょっといいところ」
「もう、わたし学校のあと働いてきたんですけどー」
「おれだって働いてきたぞ」
「あ、テレビ! 録画は!?」
「してねえ」
「うわ、ひど! もう、ちゃんとしててよー」
パタパタと走ってきて、慌ててリモコンを奪っていった。
録画ボタンを押しながら、クリスマスが拗ねたように唇を尖らせる。
「ていうか、もう飲んでるじゃん。夕食の前に飲むのやめてって言ってるでしょー」
「別に今日くらい、いいだろ」
「……ハア。もう、オジサン。ほんと、わたしいないとダメだよねえ」
言いながら、夕食の準備に立ち上がる。
キッチンに向かおうとした彼女の背中を見たとき、ふと身体が動いていた。
「おい、雅子」
「んー?」
彼女が振り返ったとき、なぜかその手を掴んでいた。
「…………」
「…………」
一瞬、テレビの音が、やけに遠くに感じた。
クリスマスが、目を丸くしていた。
「お、おう。どうしたの?」
「あ、いや……」
とっさにそれを放して、どう答えたものか考えた結果――。
「お、おまえの手、あれだな。すべすべだな」
ずささささ、とクリスマスがあとずさった。
「お、おお、オジサン。どうしたの!? すごい変態っぽいんだけど!!」
しくじった。
泥沼に足を突っ込んだ気分だった。
おれはどう言い訳したものかと考えて、結局、なにも思い浮かばなかった。
「……すまん。忘れて」
「う、うん」
なおも警戒しながら、クリスマスがキッチンで支度を始める。
「オジサンも、疲れてるんだねえ」
「…………」
その気遣いが、やけに胸に刺さった。
やがて食事の準備が整うと、おれたちは手を合わせる。
「いただきまーす」
「まーす」
卵をといているとき、ふと口をついた。
「き……」
昨日は、どうしたんだ?
その言葉が、やけに喉につっかえた。
おれが言い渋っていると、クリスマスがなんでもないように言った。
「昨日、三者面談だったんだけどさあ。いまお世話になってる家の叔母さんが呼ばれて、そのまま向こうの家に戻ることになったんだよ。あー、面倒臭かったなあ」
「そ、そうか。大変だな」
「うーん。なんか、進路指導の先生まで出てきて、ほんと疲れたよう」
進路指導?
「……里村のことか?」
「あれ。オジサン、さとちん先生、知ってるの?」
「高校の同級生。この前、文化祭で会った」
「うええええええ。ほんとに!?」
しげしげとおれの顔を見回してきた。
「世間、狭いねえ」
「そうだなあ」
あの正義感の強い里村が出張ったとあったら、さぞ気苦労も多いだろうに。
その点においては、素直にクリスマスに同情する。
「そういえば、おまえ、進路とか考えてるのか?」
すると、肉に箸を伸ばそうとするクリスマスの手が止まった。
「……どうかなあ」
その横顔が、なぜか寂しげに見えた。
……だから、それ以上は聞けなかった。
「あー。でも、案外、あれかもねえ」
「なに?」
「卒業しても、わたし、ここにいるかもねえ」
「…………」
なぜか、言葉に詰まった。
そんなおれを横目に見ながら、クリスマスがぷっと吹き出す。
「冗談だよ。オジサン、ほんと真面目だよねえ」
「……そうか」
おれはため息をつくと、卓上のカレンダーに目を移す。
――気がつけば、もうすぐ一年が経とうとしていた。
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