9月のペルソナ(結)


 天使の母親は、ただの風邪だった。


 夜の空に赤いランプはよく映える。

 ご近所さんがわらわらと集まってきて大事にしてしまった。

 結局、救急車は空っぽのまま帰っていく。


 齢三十にして、初めて救急車の乗組員に叱られてしまった。


 その事実はかなりショックで、おれはずっと部屋でしょんぼりとしていた。

 ちなみに母親のほうはクリスマスと大家さんが看病をしてくれている。

 というか、着替えさせるからと追い出されてそのままなのだ。


 まあ、大家さんがいるから心配はしていない。

 しかし、とてつもなく手持無沙汰だった。

 テレビも特に面白い番組はない。

 仕方ないから、天使のために借りてきたアニメを並んで観ていた。


「なあ、おっちゃん。元気だしい。べつに悪気があったわけやないやろ」

「……うん」


 小学生に慰められてしまった。

 仕事で大ポカをやらかしたときだって、こんな惨めな気持ちになることはなかった。

 テレビではピンク髪のヒロインが、悪党どもを不思議な魔法で倒していた。


『わたしたちは勝った! でも、みんなはもう戻ってこない……』


 おうおう。よくわからんが、仲間たちは自分を犠牲にしたらしい。

 子ども向けにしては、なかなかヘビーな設定だ。

 悪党を倒してお終いでいいじゃないか。


「……で、なんでお父ちゃんが浮気してたなんて嘘ついたんだ?」


 天使が、ぐったりとテーブルに突っ伏した。


「やっぱ聞くんかあ」

「そりゃなあ。おまえ、言ってることめちゃくちゃだぞ」

「あんま聞いても楽しくないで?」

「楽しい楽しくないじゃないだろ。あんまりお母ちゃんに心配かけるなって」

「でもなあ。お母ちゃん、ずっとうちに嘘ついとるんやもん」

「なにが?」

「うちのお父ちゃん。もう死んどんねん」


 テレビの女の子が泣きながら空に向かって叫んだ。


『どうして!? みんな、どうしてわたしのために……』


 テーブルに広げたプリッツをつまんだ。

 天使は文句を言わずに、じっとテレビを眺めている。


「……そうなのか?」

「おっと、りあくしょん普通やねえ」

「生憎、おれは芸人じゃないんでな」


 なんと言うべきか。

 いや、こんなときに気の利いた言葉を選べるような人間じゃない。

 それに、そんな薄っぺらい同情など、この賢しい少女に通じるわけがない。


「いつから知ってたんだ?」

「そやねえ。あれは幼稚園のころやなあ。いつもはお母ちゃんが鍵かけとる箪笥の中に、遺影とか入っとったんな。あっちゃあ、って思たわ」


 あっちゃあ、だったのか。


「ふうん。それ、お母ちゃんは知ってるのか?」

「知らんちゃうかなあ。うち、お母ちゃんに心配かけんと思て普通にしとったし」


 ……じゃあ、この性格は元からということか。

 なんだか、そっちのほうが驚きだ。


「じゃあ、お母ちゃんの嘘を真に受けたふりしとけばいいじゃねえか。どうして喧嘩の種をばらまくようなことするんだ?」

「最初はそう思てたんやけどな、どうもお母ちゃんが不憫でなあ」

「なにが?」

「いつもお父ちゃんの命日にな、おめかしして出ていくやん。あのひとの中では、お父ちゃんはまだ生きとんねん。でも、夜になって泣きながら帰ってくるやん。あんな若くて可愛いのに、もう人生のどん詰まりやで」

「…………」

「うちのこと考えてくれとんのはわかるんやけど、そんなお母ちゃんなんて見たくないやん。いっそ、うちのことなんか捨てて、別の男と駆け落ちでもしてくれたら清々するわ」

「どうして?」

「うちに縛られとるうちは、お父ちゃん忘れようにも忘れられんやん。娘としては、次の人生を見つめてほしいと思うんは変かなあ。おっちゃん、どう思う?」

「……さあな」


 プリッツの二本めに手を伸ばした。


「なにが幸せかなんて、誰にもわからねえさ」

「模範解答やねえ。大人はつまらんなあ」

「そりゃそうさ。人間は大人になるほどつまらん生き物になるもんだ。だからお母ちゃんだって悩んでんだろ」

「……む。そやね」


 天使もプリッツをカリカリし始めた。


「まあ、人生はなるようにしかならん。おまえにできることは、そうだな……」

「うん?」

「せめてお母ちゃんを支えてくれる優しいやつが現れるまで、あんまり心配かけないようにしてやるんだな」


 その頭をわしわしなでると、天使はむすっとした顔で睨んできた。


「……うぅー。おっちゃん、ほんとそういうとこずるいわ」

「大人はつまらん生き物だからな」


 とてつもなく拙い嘘と嘘。


 母を思うがためにつけた仮面と、娘を思うがためにつけた仮面。

 そのどちらに価値の重きがあるかなど、とてもじゃないがおれに判定を下すことはできない。

 ただ確かなことは、このふたりはきっと、これからも互いを思い続けられるのだろうということだ。


「しかし、あれな」

「なんや?」

「おまえ、けっこう可愛いとこあるのな」

「当たり前やで! こんなぷりちーな幼女つかまえてなに言っとん!」


 だから幼女言うな。


 天使の母親は、朝には熱が下がったようだった。

 それから数日は天使はうちで預かっていたが、やがて下の部屋に戻っていった。


 戻っていく日に、自分のリュックを背負った天使が振り返った。


「あ、おっちゃん」

「なんだ?」

「うちのお母ちゃん、欲しけりゃやるで。おっちゃんなら、まあ合格かなあ」

「…………」

「でもうちはあれやから。成長してもおっちゃん趣味はないからな。そこは堪忍してや」


 そう言って階段を下りていった。

 そこへクリスマスが、部屋から顔を出す。


「オジサン、どうしたの?」

「……なんでもねえ」


 まったく、敵わねえなあ。


 階段の下では、天使と母親が仲よさげに抱き合っていた。


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