9月のペルソナ(5)
「あ、おっちゃん。ケチャップとって」
「オジサン、わたしマヨネーズと醤油」
「こら。そんなにかけちゃダメでしょ」
「うっさいねん。おばちゃんは黙っとって」
「なんてこと言うの!」
「ナァ」
「あ、オジサン! マヨネーズないじゃん! 昨日、帰りに買ってくるって言ってたよね!」
「そもそも、ちゃんとお塩を振ってるのよ。あんまり濃いものを食べ慣れると、大人になって……」
「あー、あー。うちなんも聞こえんわ。あ、おっちゃん。ぷりきゅあの時間や。りもこんちょーだい」
「ナァナァ」
「だいたい、おっちゃんなんて失礼でしょ。ちゃんと名前で呼びなさい」
「おっちゃんはおっちゃんやろ。なー、おっちゃん」
無言でリモコンを渡すと、ずずずっとみそ汁をすすった。
おれの手にじゃれついてくる黒猫のバレンタインにも、そっと米粒を食わせるのを忘れない。
なんてことのない朝の食卓。
テーブルに並ぶ色鮮やかな食事。
目玉焼きとウインナー。
プチトマトつきのサラダ。
インスタントじゃない豆腐のみそ汁。
あとは納豆と、自家製のぬか漬けか。
あー、白米がうまい。
最高の朝飯だな。
いつも仕事ぎりぎりに起きてパンを口に詰め込んで出勤。
休みの日も面倒でほとんどいっしょ。
朝からこんなちゃんとしたものを食べるなんて、盆と正月に実家に帰ったときくらいだ。
とはいっても、今年はクリスマスのせいでそれもなかった。
五臓六腑に染みるとは、まさにこのこと。
うんうんとうなずきながら、このダイニングの状態を確認した。
テーブルを挟んで、おれの正面にはいつものようにクリスマス。
右手にはテレビアニメに夢中な天使。
そして左には天使の母親。
どうしてこうなった。
どうして、こうなった。
「お味のほう、いかがですか」
「あ、はい。とてもおいしいです」
「よかった。おかわりありますからね」
「ど、どうも」
天使の母親の笑顔に、おれはぎこちなく笑い返した。
「はん。お父ちゃんがいないと、今度はおっちゃんに色目とかほんま情けないわ」
天使の母親が、ギンッと睨みつける。
「いい加減にしないと、怒りますよ!」
「やってみい! 必殺おっちゃんばりあや!」
「あ、こら、この子! 背中に隠れるんじゃありません!」
「あー。おっちゃん。助けてえ。鬼ばばあがうちのこと食おうとするんや」
「あなた、またそんな言葉を覚えてきて!」
「オジサン、マヨネーズないってば!」
うるせえよ。
マーガリンでも塗って食っとけ。
小さくため息をついた。
いや、飯がうまいのはありがたいのだが、毎朝のようにこれでは疲れしまう。
天使がうちに居座って一週間。
なぜかこうやって、天使の母親が食事をつくってくれるようになった。
最初は「うちの子がご迷惑をおかけしているので……」ということだったが、いまではキッチンは彼女の領域と化してしまっている。
我が子の安全を確認するのも大切だからと了解したが、いまでは掃除も洗濯もやってくれていた。
いまさら断るのも決まりが悪く、こうしてだらだらと通い妻状態が続いてしまっている。
……いや、こんな美女に世話してもらうのは男冥利に尽きるのだが。
食器を洗う彼女のエプロン姿を、ぼんやりと眺めていた。
エプロンにジーンズ、雑な感じのポニーテールのうしろ姿。
……悪くないな。
「オジサン。鼻の下、伸びてるんですけどー」
「の、伸びてねえよ」
「まったく、ちょっと自分に優しいひとにはすぐデレデレしちゃうんだからさ」
「おまえ、ひとを色欲魔みたいに言うんじゃねえ」
「そうでしょー。あのね、あのひとはまいえんじぇるを心配してるの。オジサンに気があるわけじゃないだからね」
「知ってるっつーの。なんでおまえ、そんな機嫌が悪いんだよ」
「オジサンがデレデレしてるからじゃん!」
だから、してねえって。
まったく、この年頃は男女が話していればすぐ色恋沙汰につなげようとするのが悪い癖だ。
しかし、このままというのはよくない。
あまり他人の家庭事情に首を突っ込むのは気が進まないが、すでに腰までどっぷり浸かった状態じゃ説得力もなかった。
「あの、ちょっといいですか?」
「はい?」
仕事だからと自分の部屋に戻ろうとする彼女に、そっと耳打ちした。
「ちょっと、お話したいことがあるので。仕事帰りに、そちらのお宅にお伺いしてもいいですか」
「……わかりました」
彼女はあまり気が進まない様子だったが、素直にうなずいてくれた。
きっと、おれがどんな話をしようとしているのかわかっているのだろう。
……さて、と。おれも会社に行くか。
「あ、そうだ」
大事なことを忘れてた。
おれは窓を開けると、いつものようにバレンタインを裏庭に放った。
―*―
そして午後八時を回ったころに、おれは天使の部屋を訪れた。
天使はいまごろ、クリスマスに寝かしつけられているだろうか。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
出されたお茶に口をつける。
天使の母親は顔色が優れない。
おれだってそうだが、やはりこのような話はしたくないのだろう。
「……あの、娘さんから聞きました。なんか、親子喧嘩をなさったようで」
「は、はい。お恥ずかしい限りですが……」
「話では、あいつの誕生日を忘れていたと……」
「え?」
しかし、なぜか彼女は驚いていた。
「い、いえ。あの子の誕生日は、一月ですけど」
「え?」
首をかしげると、彼女は事情を説明した。
「あのときは、その、あの子の父親のことで口論になって……」
「お父さんの?」
「ええ。父親は海外出張をしているんですけど、最近、そのことについてしつこく問い詰められて……」
なに?
「……いや、それは変ですね」
「え?」
「あいつは、父親はあなたを捨てて別の女に乗り換えたと……」
「そ、そんな……」
おれの記憶では、父親が女ったらしで不倫をしていたと言っていたはずだ。
「あ、えっと……」
と、天使の母親の様子がおかしい。
彼女は頭を押さえると、ふらりとその場に倒れてしまった。
「ちょ……!?」
彼女を抱きかかえると、その身体はとても熱かった。
ポケットから携帯を出すと、慌てて救急車を呼んだ。
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