9月のペルソナ(3)
ピンポーン。
「…………」
ピンポーン。
「なんだ?」
客の予定などなかったはずだが。
ソファから起き上がり、のろのろと玄関へ向かった。
「はい」
ドアを開けると、爽やかな笑顔の青年が立っていた。
街でよく見かける運送会社の制服を着ている。
「どうもー。お荷物、お持ちしましたー。こちらにサインお願いしまーす」
はて。
荷物の配送など頼んだ覚えはない。
通販もした覚えがなかった。
しかし伝票を見ると、確かにうちの住所とおれの名前だ。
……しかし、この丸文字は。
「あ、オジサン! それ、わたしの!」
そう言って、慌てて部屋から出てきたのはクリスマスだ。
やっぱりそうか。
「どうぞ」
「あ、はい……」
と、なぜか青年がじろじろとクリスマスを見ている。
彼女は残暑の厳しい今日この頃、薄手のタンクトップと短パンという非常にラフな――また目のやり場に困る感じの格好だった。
そしておれに向ける視線もまた、なかなか突き刺さるようなものだった。
彼の視線を遮るように立つと、クリスマスに言った。
「なあ、妹よ。家だからってそんな格好してちゃいかんだろ」
「え。オジサンなに言って……」
きゅっと二の腕をつねった。
するとクリスマスがびくっと跳ねた。
「そ、そうだね。ちょっと着替えてこよーっと」
涙目でそう言って、いそいそと奥に行ってしまった。
ため息をついて、青年に伝票を渡した。
「で、荷物は?」
見ると、肝心の『もの』がない。
「あ、はい。下に置いてますので」
「下ですか?」
廊下の柵から階下を覗き込んだ。
まだ所々を梱包材に包まれた、ぴかぴかの自転車が置いてあった。
「では、失礼しまーす」
まだどこか疑わし気なまなざしを向けながら行ってしまった。
……まったく、危なっかしいったらありゃしない。
あいつ、自分でつくった設定すら忘れてるからな。
「つーか、なんで自転車?」
寝室を覗くと、クリスマスがブラジャー姿のまま服を広げていた。
チェックのシャツとプリントのシャツを広げているから、どちらを着るかで悩んでいるのだろう。
目が合うと、彼女は平然とした様子で首を傾げた。
「どうしたの?」
「……おまえ。もっとこう、隠したりしろよ」
「えー。いまさらあ? 昨日もいっしょにお風呂入ったじゃん」
「…………」
「冗談、冗談。オジサン、顔が恐いって。そのうち血管切れちゃうよ」
やかましい。
だいたいあれは……。
あぁ、くそ。もういい。
と、ふとクリスマスがこちらをじっと見つめてきた。
唐突に腰をくねらせると、きゅっと唇を突き出す。
「うふん」
「張っ倒すぞ」
「ひどくない!?」
どっと疲れた身体を引きずるようにしてソファに戻る。
テレビのチャンネルをいじりながら、そういえばと聞いてみる。
「あの自転車どうした?」
「商店街の自転車屋さんで買った」
「へえ。まあ、あれば便利かもなあ」
まあ、おれは使わないが。
「なに言ってんの」
「は?」
襖を開けて出てきたクリスマスは、なぜか上下ともジャージ姿だった。
「オジサンも練習に付き合うんだよ!」
「はあ!?」
―*―
「だあああああああああ。くそ、もう日が暮れちまうぞ!」
近くの河川敷で、おれたちは自転車に乗る練習をしていた。
いや、実際はクリスマスが漕ぐのを、おれが後ろから支えているだけなのだが。
まさか現代社会において、自転車に乗れない高校生が存在するなど思わなかった。
新品だった自転車も、あまたの転倒を経て泥だらけになっている。
「……というか、いまさらどうした?」
これまで自転車など、話題にすら上がったことはなかった。
スーパーへは歩いて十分。
コンビニは五分もかからない。
そもそも自転車など必要ないのだ。
それに、うちのアパートに専用の駐輪場はない。
だから道路わきか、裏の中庭に置くことになる。
どちらにせよ公共の場だから、そういうものは置かないのが暗黙の了解だったのだが。
クリスマスは自転車を起こしながら、拗ねたように言った。
「だって、なんか欲しくなっちゃったんだもーん」
「…………」
「あ。いまの台詞、えっちっぽくない? オジサンが隠してたあのやらしいDVDのパッケージに同じような言葉があだだだだ……!」
途中で頭を掴み上げると、クリスマスが「ギブギブ」と言いながら腕を叩いた。
くそ。まさか見つかっているとは思わなかった。
帰ったら、別のところに隠しておかなければ。
……まさかこいつ、観てねえよな。
「ほら。次で最後だぞ」
「えー!」
「勘弁しろ。もう腹が減ったんだよ」
昼前に軽く食ってから、なにも食べてなかった。
クリスマスは自転車にまたがると、せーので漕ぎ出そうとした。
と、そのときだった。
「ありゃ。おっちゃんやん。また、けったいなことしとるねえ」
河川敷の上の道から、知った声がした。
見上げると、天使がぽてぽてと歩いていた。
「おー。おまえこそ、こんなところでどうした?」
「今日は日曜保育の日やねん」
「へえ。お母ちゃんは?」
「いつも帰りはうちひとりやで」
そりゃまた。
よそさまのことに口を出すのはどうかと思うが、それはまずいのではないだろうか。
「ていうか、おっちゃん。前を見とらんと危ないで」
「ぎゃああああああああ。オジサン、ストップ、ストップ!」
前を見ると、いつの間にかおれたちの進路は川へと向かっていた。
まずい!
思ったときには、すでに遅かった。
前の車輪は水の中に落ちて、そのままおれたちは片足を突っ込んだ。
クリスマスがキッと睨んだ。
「もう、オジサン!」
「す、すまん」
さすがに謝るしかなかった。
見ると、天使がけらけら笑っている。
アパートまでの帰り道。
「オジサン。今日はお詫びにコンビニの高いほうのプリンを所望します」
「はいはい。わかったよ」
おれは水に濡れた自転車を押しながら、隣を歩く天使を見た。
「そういえば、あれからお母ちゃんの様子はどうだ?」
「……あー。いつも通りかなあ」
なんだ。
その様子に、なぜか違和感を覚えた。
天使はどこか、ぼんやりと遠くを見ているようだ。
いつも大人びてはいるが、こんな顔は初めて見る。
なにかあったのか。
しかし、本人が言わない家庭の事情をあれこれ詮索するのも気が引ける。
……まあ、こいつがいつも通りと言うなら、そうなのだろう。
大人でも顔負けなくらいにしっかりしているやつだ。
「オジサン! はやく! わたしお腹すいたー!」
「わかった、わかった」
見ると、天使はいつも通りのにやにや顔で言った。
「ほんま、お姉ちゃんに尻に敷かれとるなー」
やかましいわ。
そうしながら、おれたちはアパートの前で別れた。
そして天使の行方が知れなくなったのは、その三日後のことだった。
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