9月のペルソナ(2)


「粗茶ですが」

「は、はあ」


 おれはテーブルに出されたコップを見た。

 お茶と言ったが、中には真っ白な液体が満ちている。


 牛乳だな。


 目の前の金髪碧眼の小学生――通称、天使が自分の牛乳をくぴくぴと飲んでいる。

 それを飲み干すと、ぷはあっとおっさんみたいな声を上げた。


「いやあ、やっぱ牛乳は無調整生乳100%に限るわあ。おっちゃんもそう思うやろー?」


 知らんがな。

 おれはうんざりしながら部屋を見回した。

 こいつの母親をうちで寝かせていることを伝えに来ただけなのに、なぜだかほいほいと連れ込まれてしまった。


 あぁ、腹が減った。

 そういえば飯も食っていないな。

 さっさと帰って飯の支度をしたいとも思うが、ひとり取り残されているこいつを考えると、どうにも後ろ髪を引かれた。


 まあ、せっかくだしもらうか。

 腹も多少は満たされるだろうしな。


「お、おっちゃん。いい飲みっぷりやねえ」

「そりゃどうも」

「もう一杯と言いたいところやけどなあ、お母ちゃんがお腹ごろごろになるから一杯までって言われとんねん。ごめんなあ」


 いや、そこまで牛乳には固執しちゃいない。


 しかし、きれいにしてるもんだな。

 このくらいの子どもがいる部屋は、もっと散らかっているかと思っていた。

 記憶も曖昧だが、うちの姉貴が小学生のころは、もっとこう、漫画とか人形やらが散らかっていた気がする。


 テーブルの上には算数のドリルが広げてあった。

 中を覗くと、すべて赤い〇で囲ってある。


「へえ。ちゃんとやってるんだな」

「そらそうやで。おっちゃん、やらないかんことはきっちりやらんと、社会に出てから困るのは自分やで。勉強はいつでもできるけど、なまけ癖だけは治らんからなあ」


 こいつと話してると、なんか自分が情けなくなってくるな。


「というか、お母ちゃんを迎えに行かなくていいのか」

「ええよ、ええよ。どうせうちが行っても運べんしなあ」


 いや、そういう問題かよ。


「それにおっちゃんのところやったら安心やわ」

「いや、おまえな。仮にも男の部屋に……」

「大丈夫やって。おっちゃん、いいひとやし。あ、いまのは都合のいいひとって意味やで?」

「…………」


 こいつの教育、ほんとにどうなってんだよ。

 天使はにやにや笑っている。


「それに悪いことしようとしたら、見張ってくれるひともおるしなあ


 まったく、小学生のくせに敵わねえな。


「しかし、ずいぶん落ち着いてるな。もしかして、こういうこと多いのか?」


 OLさんを思い浮かべた。

 あまり、そういうひとには見えないが。


「うーん。多いってほどやないけどな。今日はまあ、たぶんあるやろうなあって」

「どうして?」

「えー。おっちゃん、それはぷらいべーとなことやから、そんなほいほい言えんわあ」

「そうかい」

「実はなあ。今日はあれや。お母ちゃんがお父ちゃんに会う日やってん」


 いや、言うのかよ。


「え、お父ちゃんって……」

「そや。別れた元旦那」

「へ、へえ。どうしてまた?」


 深入りするのもどうかと思ったが、つい聞いてしまっていた。

 天使は特に渋る様子もなく答える。


「あれや。お父ちゃんが仕事でこっちに来るときは会うことになってんねん」

「別れたんだろ?」

「そやで。ほら、あるやん。うちが元気にしとるかーとか、どんなことがあったーとか、そういうのをお父ちゃんとお話すんねん」

「へえ。もしかして別れたのもなんか理由があるのか?」


 子どもの様子を伝えるにしても、わざわざ会って話すこともあるまい。

 メールでも写真でもなんでもあるのだ。

 もしかして仕事の都合とか、そういうことでやむなくということなのだろうか。


「いや、ただの喧嘩別れやで。お父ちゃんが他の女に乗り換えて、一方的にお母ちゃんに離婚届を突きつけよったん」

「…………」

「ほんまにしょうもない男やで。あんなんに惚れる女の気持ちはわからんわ」

「そ、そうか……」


 天使は年齢に似合わない、どこか憂いのある表情で言った。


「お母ちゃんなあ。まだお父ちゃんのこと好きやねん。仕事の都合でこっちに来ることになって吹っ切れてくれると思ってたんやけどな。朝もまあ、まるで恋する乙女みたいな感じで着てくもん選んどってなあ。うち、そういうお母ちゃん見たくないねん」

「…………」

「本当はうちも来いって言われとるんやけどな。あんなお父ちゃんに媚び売るお母ちゃんなんて気持ち悪いだけやし、お留守番しとるんよ。そんでお母ちゃん、お父ちゃんに会う日はいつも朝方に帰ってくるねん。でも今日はおっちゃんとこで助かったわ。前みたいに彼氏面した変な男が出入りするようになったら嫌やもん」


 ……いまのは聞かなかったことにしよう。


「ま、そういうわけやから、ごめんやけど起きるまで寝かしとってくれへん? 変に起こすと、お父ちゃんのこと恋しがって泣きよるからなあ」

「……わかったよ。おまえはどうするんだ?」

「いつものことやさかい。ちゃんと戸締りして寝るから大丈夫」


 しっかりしてるな。

 部屋を出ようと玄関に向かっていると、ふと呼び止められた。


「あ、おっちゃん」

「なんだ?」

「うち、お腹空いとるんよ」

「お、おう?」


 するとやつは唐突に、おれの前にチラシを差し出した。それには近くのピザ屋のデリバリーメニューが書かれている。


「うち、照り焼きちきんと耳までそーせーじのはーふはーふがいい」

「な、なんでおれが?」

「おっちゃん。健気にお母ちゃんを待つ幼女がお腹を空かしてるんやで。男ならビシッと財布を開くところやないの?」


 幼女言うなや。


「おまえ、お母ちゃんが用意してくれてるんじゃないのか?」


 天使が、うるうるした目を向けてきた。


「……おっちゃん。うち、ぴざ食べたい」

「…………」


 あぁ、くそ。


 あんな話を聞いたあと、無視して出ていけるか。

 チラシを受け取ると、ポケットから携帯を取り出した。

 うちのぶんも頼もうかと思ったが、そういえばクリスマスがなにか買ってきていると言っていたな。


「ったく、そういうのはどこで覚えてくるんだよ」


 すると天使はけろりとした顔で答えた。


「お姉ちゃんがこうすればおっちゃんは言うこと聞いてくれるって言っとったわ」

「あいつかあ――――!」


 すぐさま電話を掛けて代金を置くと、クリスマスに説教をするべく急いで部屋に戻った。


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