9月のペルソナ

9月のペルソナ(1)


 クリスマスがやってきてから、おれの生活には大きな変化がふたつある。


 ひとつはもちろん、小娘といっしょに暮らすことでいろいろと面倒なことが増えたことだ。

 いまでは慣れたものだが、始めのころはずいぶんと手間取ることも多かった。


 もうひとつは、ご近所づきあいの頻度が増えたことだ。


 あいつが来るまで、おれは同じアパートに住む人間の顔も知らなかった。

 興味もなかったし、ご近所さんと世間話などする自分は想像できなかった。

 実家の母親は人当たりのいい人間だが、おれは父親に似たらしくそういうものは苦手なのだ。


 しかし今回のケースは少しばかり想定外だった。


 いつものように仕事から帰ると、アパートの階段を上ったところで立ち止まった。


「…………」


 おれの部屋の前で、美人な女性が酔いつぶれていた。

 おれはそのひとを知っている。

 下の階に住むOLさん――つまり天使の母親だ。


 彼女はなぜか一升瓶を胸に抱えたまま、ドアに寄りかかって気持ちよさそうに眠っていた。

 仕事帰りらしい。

 ヒールはそこら辺に転がり、スーツはしわだらけである。


 ……どうするか。


 これまでクリスマスのせいで破天荒には慣れてきたつもりだったが、これはそれらと比べてもとびっきりである。


 いやいや、悩むまでもない。

 とりあえず彼女の部屋に運ばなければ。

 そもそもこんな場面をクリスマスに見られたら、また不潔だの野獣だのといわれのない罵倒を受ける羽目になってしまう。


 OLさんに近づくと、その肩を揺すった。


「あの」

「……ん」


 OLさんはうっすらと目を開けると、ぼんやりとおれを見た。

 なんとも言えない色気に、思わずどきりとしてしまう。


 ふと、彼女はおれの頬に触れた。


 な、なんだ。

 寝ぼけているのか?


「……あなた?」


 あなた?

 すると彼女は頬を紅潮させ、その頬に涙を流した。


「か、帰ってきてくれたのね」

「え?」

「嬉しい!」


 がばっ。

 突然、抱きつかれた。


「ちょ、待った! おれは違う!」

「あぁ、ごめんなさい。わたしが変に意固地になったばっかりに。わたし、すごく後悔しているの。だから……」

「だから待て!」


 慌てて引き剥がすと、OLさんは目をぱちくりさせた。


「あら?」

「目が覚めましたか?」


 OLさんはうつむいた。

 その肩が震えている。


 いかん。すごく気まずい。


「えーっと、あの……」


 なんと言ったものか。

 いや、お互い大人なんだし、ここは何事もなかったふりをして収め……。


「……きそう」

「え?」


 OLさんが自分の口をふさいだ。


「……吐きそう」

「ちょ!?」


 慌ててその身体を起こした。

 あぁ、くそ。一升瓶が邪魔だ!

 なんでこんなものを持ってるんだ!


「下まで我慢できますか!」

「……無理です」

「~~~~!」


 自分の部屋のドアを開けると、その中に運び込んだ。

 さっそくスリッパの音が聞こえる。


「ねえ、オジサンオジサン! 今日はコンビニのコロッケがセールだったからそれ買ってきたんだよ。二個で百円ちょっとだけど、けっこう美味し、く、て……」


 ぽとり、とコンビニのビニール袋が落ちた。

 憐れにも揚げたてのコロッケはパックから飛び出し、廊下にべちゃりと転がる。

 おれとOLさんを交互に見比べると、クリスマスは小さくうなずいた。


 さっと踵を返して寝室に向かう。


「警察」

「待て! いや待ってください!」


 なんだ! 警察になんと言う気だこいつ!

 するとクリスマスはおれをじっと見据えてお説教モードに入った。


「オジサン。あのね、いくらお互い成人してるって言っても、酔いつぶれて意識のない女性を連れ込むのはさすがに犯罪だと思うの」

「いや、聞いてくれ。さっき帰ってきたら、うちの前で寝こけていてな……」

「そんなメロドラマみたいなことあるわけないじゃん。オジサン、いくらなんでも言い訳が下手すぎ!」


 おまえが言うなよ!


 と、OLさんが苦しそうに呻いた。


「ゆ、揺らさないで……」

「す、すみません。ほら、いいから寝かせるぞ」


 とりあえずダイニングに運ぶ。

 まだテーブルの準備はしていなかったらしい。


「ほら、おれの布団を敷いてくれよ」


 しかしクリスマスが微妙な顔で見てくる。


「自分の布団に女のひと寝かせようとするってなんかやらしーよね」


 いらっ。


「あぁ、もう! じゃあおまえのベッド貸せ」

「えーっと。そ、それは……」

「いいから開けるぞ」

「ああ!? オジサン、ちょ、ダメ!!」


 寝室を開けて、おれは固まった。


 ……ぐっちゃあ。


 制服や漫画が投げっぱなしになっているのはいつものことだが、今回のは輪をかけてひどかった。


「おい、こら」

「な、なにかな。アハハハ」

「ベッドの上で菓子を食うなって言ってんだろ!」

「だ、だって! オジサン、ソファ散らかすと怒るじゃん!」

「そもそも汚すなって言ってんだよ!」


 OLさんがうめいた。


「あぁ、くそ。ほら、はやくおれの布団敷けよ」

「……はーい」


 クリスマスがしぶしぶ布団を敷いた。

 そこにOLさんを寝かせてひと段落つく。

 気がつけば、彼女はすやすやと寝息を立ててしまっていた。


 クリスマスとふたりで、思わず顔を見合わせる。


「……どうするの?」

「ど、どうするかな」


 このまま寝かせとくのもあれだが、とは言っても落ち着いたのを無理やり起こすのも気が引けてしまう。


「とりあえずマイエンジェルに教えてあげなきゃ」

「そ、そうだな。帰りが遅いと心配するだろ」


 まあ、あの図太い小学生がお母さんを待っておろおろしている様子などまったく思い浮かばないが。


「じゃあ、ちょっと行って来てくれよ」

「え。わたしが?」

「は?」


 なんだ。いつもあれやこれやと口実を設けては遊びに行っているくせに、どうしたというのだろうか。

 彼女がじっとりした視線を向けていた。


「……わたしがいない間、なにする気?」

「な、なにもしねえよ!」

「ほんとにー?」


 実に疑わしげである。

 とはいえ、六月のあの喧嘩以降、こういうことに関しては強く否定できないのがなんとも空しかった。


「わかった、わかった。おれが行くよ。起きたら水を飲ませてやってくれよ」

「はーい」


 おれは疲れた身体に鞭打つように立ち上がると、そのまま天使のいる下の階へと向かうのだった。

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