8月のプア:突撃レポート!あの秘湯は存在した!?
「いやー。最高だね、オジサン!」
「そうなあ」
「まさかお盆休みを利用して、こんな秘湯に旅行に来れるなんて思わなかったよー。オジサンってば変なとこ気が利くよねー」
「そうなあ」
変なとことはなんだ、変なとことは。
向こうのクリスマスに言い返してやろうと思ったが、声を出すのも面倒くさいくらいには最高だった。
あー、極楽極楽。
白濁の湯に肩まで浸かる。
えーっと、源泉掛け流しだったか。
まあ、気持ちいいならなんでもいいか。
「他にお客さんもいないし、こんな素敵な温泉宿が貸し切りなんて奇跡だよ」
「そうなあ」
「オジサン、さっきからそれしか言ってなくない?」
「そうなあ」
仕方ないではないか。
身体が温まると思考が鈍るのは生物として自然なことだ。
「さっきのご飯、本当に美味しかったねえ。あれなんて魚だったっけ?」
「刺身のほう?」
「焼き魚のほう」
えーっと、あれはなんだったか。
あれだ、あれ。頭に浮かんでいるんだが、名前が出てこない。
赤い魚で、あの眼がぎょろっとしている、ほら。
……まあ、いいか。
「オジサン。カサゴでしょー」
「あぁ。それだ、それ」
「もう、しっかりしてよねえ」
ていうか、わかってるなら聞くなよ。
「お肉もよかったよねえ」
「そうなあ」
「神戸牛のすき焼き。脂身がしっとりしててー、赤身に味がしみ込んでてー」
「あれ。鍋って海鮮しゃぶしゃぶじゃなかったか?」
「どうでもいいでしょー。美味しかったんだからさあ」
よくねえだろ。
いや、どうでもいいか。
「ねえ、オジサン」
「そうなあ」
「そっち行っていい?」
「そうなあ」
……は?
バシャンッと思わず顔まで湯の中に浸かってしまった。
湯が鼻の中に入って、思い切りむせる。
「えー。だって他に誰もいないんだし、いいんじゃない?」
「ば、馬鹿か! いいわけねえだろ!」
仕切りの向こうから、がさごそ衣擦れの音がする。
「おまえ、やめろ! いいか、よく聞け。それ以上こっちに来るなよ。こっちに来てみろ。今日の夕飯、おまえほうれん草のお浸しだけだぞ。それでもいいのか!」
――ガラッ。
「わー! 馬鹿、やめろ!」
思わず手で顔を隠した。
…………。
あれ?
「嘘に決まってんじゃん。オジサンって本当にむっつりだよねえ」
目を開けると、そこにはシャツの袖とパンツの裾をまくって仁王立ちするクリスマスがいた。
……こいつ。
疲れてうなだれてると、やつはずんずんと浴室に入ってきた。
「どれどれ。ここは中居さんがお背中を流して進ぜよう」
「狭えだろ! 入ってくんな!」
「照れない照れない。こんな可愛い子が背中流してくれるなんて、普通、お金払わないと無理だよ」
自分で言ってんじゃねえよ。
あ。こら、手を掴むな!
「ほーら、オジサン。観念して!」
「ぎゃー! やめろ――――!」
バシャバシャ水面下の格闘をしていると、ふと第三者の声がした。
「あんさんら、昼間っからなにしとん?」
下の階の金髪碧眼小学生、通称天使ちゃんがいた。
冷静な瞳に見つめられると、なんかすごく恥ずかしい気持ちになってしまう。
クリスマスがスポンジをわしゃわしゃ泡立てながら言った。
「商店街の福引で温泉風入浴剤パックをもらったから、山奥の秘湯に行ったという設定でお風呂に入ってた」
「うわ、なにそれ寂し!」
「だってしょうがないんだよ。オジサンってば、お盆休み二日しかとれなかったとか言ってさあ。オジサンの実家にしか連れてってくんないんだもん」
いや、それは例によっておまえが勝手についてきただけだろ。
なぜか天使から憐みのまなざしを向けられる。
「おっちゃんなあ。少しは羽振りのいいとこ見しとかんとあかんよ。女ってのはなあ、金かけられとらんのすぐわかるんやでー」
おまえはなんなんだよ。
「あ。でもぐっどたいみんぐやわ」
そう言って、いそいそと服を脱ぎだした。
「なにしてんだ?」
「さっき、お外で猫と遊んできたからむっちゃ汗かいとんねん。お母ちゃんも遅いし、ひとりじゃお風呂ためたらあかん言われとってなあ。ついでやから、いっしょ入らせてー」
「あ。オジサンずるい! ならわたしも入る!」
阿呆! シャツを脱ごうとするんじゃねえ!
「えー。なんかお姉ちゃん嫌やー。うちのこといやらしい目で見るもん」
「そ、そそそそんなことないし!」
なんでどもってんだよ。
「ねえ、おっちゃん助けてえ」
「オジサン、ちょっと目隠しするから動かないで!」
「おい、こら。暴れるな。おい……」
バスタブの底に、ツルッ足を滑らせた。
うしろ向きに倒れていく間、なぜか世界がスローに見えた。
驚いた顔のクリスマスと、どこまでも無表情の天使。
ほーら、言わんこっちゃない。
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