8月のプア
8月のプア:クリスマス、バイトするってよ
「ねえ、オジサン!」
「な、なんだよ?」
仕事から帰ると、クリスマスがやけに意気込んだ様子で出迎えてきた。
「あのね、ここにサインしてほしいの」
「はあ?」
なんだ。まさか借金の連帯保証人とかじゃねえよな。
いや、そんなのなら、まずおれの口座に入ってる金をせびるか。
「これ、バイトの契約書じゃねえか」
「そだよ。明日から二駅くらい向こうのコンビニでバイトするの」
「するのっておまえ、そんなこと一言も聞いてねえぞ」
「だって言ってないもん」
あっけらかんと言う。
「おまえ、もしかして金に困ってんのか?」
「違う違う。ひとりで家にいても暇だし、時間を有意義に使おうと思ってね」
「へえ。ていうか、おまえんとこバイトいいの?」
「ダメだよ」
「…………」
「大丈夫、大丈夫。学校からは遠いし、バレないって」
まあ、別に心配などしてはいないが。
「でもおれのサインでいいの?」
「なんかトラブルあったときに電話があるだけって言ってた」
おまえ、そりゃ余計にまずくないか?
「……ハア。面倒だけは起こすなよ」
どうせ止めても気かない。
先週のハワイみたいに、部屋をコンビニにされたら余計に面倒というものだ。
その書面にサインすると、印鑑を押した。
「ほらよ」
「わーい、オジサン大好き」
まあこいつも、いつも家にこもってちゃ退屈なんだろう。
少しでも時間を有意義に使えるなら、それに越したことはない。
―*―
「ただいまあ」
その日は珍しく定時に上がれたから、さっさと帰って寝ようと思った。
しかし部屋のドアを開けても返事はなく、電気も点いていない。
「おーい。夕飯は食ったかー?」
寝室を覗いたが、クリスマスの姿はなかった。
あぁ、そういえば今日からコンビニでバイトをするとか言ってたな。
ええっと、上がりは確か七時だったはずだ。まだ一時間はある。
どうしようか。
ひとりだし軽く済ませるか。
冷蔵庫からビールを取り出すと、適当につまみになりそうなものを見繕った。
それをちまちまやりながら飲んでいると、いい感じに腹も膨れてきたような気がする。
大きな欠伸が出た。
……しかし、まだ三十分も経ってないか。
そういば、この部屋でひとりの時間を過ごすなんて、ずいぶん久しぶりのような気がした。
前は仕事から帰ったら、なにをしてたっけな。
バラエティもそれほど好きではないし、ニュースを見ながら持ち帰った仕事を消化していたような気がする。
しかし家で仕事しているとクリスマスが文句を言うので、最近は持ち帰らないようにしているのだ。
「……暇だな」
ぼんやりとニュースを見ていると、ふとコンビニに強盗が押し入ったという話題が流れた。
一瞬、びくっとしたが、場所を見るとずいぶん遠くだった。
確かあいつがバイトしているのは二駅くらい向こうだったか。
「…………」
ちらと時計を見る。
気がつけば、もう七時半を回っていた。
……もうそろそろ帰ってもいいはずだが。
「…………」
テレビの画面では、バイトの大学生が軽傷を負ったと言っていた。
―*―
駅の出口から帰宅ラッシュのひとたちが出てくる。
壁に背中をもたれて眺めていると、その中からひょこりとクリスマスが出てきた。
「あれ。オジサンどうしたの?」
「あ。いや……」
と、やつはなにを勘違いしたのか。
「もしかして迎えに来てくれたの!? オジサン優しーい」
「ちょっと酒のつまみを買いに来ただけだ」
「えー。照れなくていいじゃーん」
「そんなんじゃねえって言ってんだろ」
さっさと歩き出した。
腕時計を見て、隣を歩くクリスマスに言う。
「おい、上りは七時じゃなかったのか?」
途端、クリスマスは不機嫌そうに目を細めた。
「それがさー、上がるときにレジのお金が一万円合わなかったの! 足りないと手出しになっちゃうから、それから一時間も大捜索だよ!」
「は? なんでバイトが出すんだよ」
「なんかそういうルールなんだってー。挙句にそれ、店長が自分で間違って金庫に入れちゃってたんだよ。もう、やんなっちゃうよねえ」
思わず笑ってしまった。
「あ。オジサン! 笑いごとじゃないんだってば!」
「いや、すまんすまん。……あー、おまえ夕飯は?」
「まだー。もうお腹ぺこぺこー」
「じゃあ外で食ってくか。好きなのでいいぞ」
「おごり? やった。じゃあ、わたし居酒屋行ってみたーい」
「はあ? なんで?」
「前から行ってみたかったんだよねえ。オジサン、どうせ帰ったらまた飲む気でしょ?」
慌てて顔を押さえた。
「ひとが労働に勤しんでいるのに、オジサンは家でビールを飲んでる。これがヒモを養うOLさんの気持ちってやつだね……」
おれだってちゃんと働いてたわい。
「……わかった。今日だけだぞ」
「わーい。やったー」
まあ、こいつも私服だし、とやかく言われることはないだろう。
あ。そういえば……。
「おまえ、飲むなよ?」
「わかってるよー。オジサンは心配性だなあ」
にやにや笑っているクリスマスから、おれは顔を逸らすのだった。
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