7月のメモリア:オジサン家のなんでもない夜のこと
……ああ、疲れた。
今日は得意先の都合に振り回されてばかりで、まったく仕事が進まなかった。
やけに蒸し暑いし、キンキンに冷えたビールを飲んでさっさと寝よう。
確かクリスマスも今日が期末試験の最終日だと言っていた。
もしかしたら、疲れて寝ているかもしれないな。
と、思っていたのがつい三十分前のことだった。
「ねえ、オジサン! 今日さ、試験の終わりに映画観てきたの!」
なぜかクリスマスは、ソファの上に仁王立ちしながら警察官のように手を額に当てていた。
「お、おう?」
こいつ、また変なもんに影響されてるな。
おれの予想は当たったらしく、やつは聞いてもいないのにまくし立ててきた。
「本当は徹夜してたからすぐ帰って寝るつもりだったんだけど、友だちがどうしても観に行きたいって言うから一緒に新宿まで行って……」
「わかった、わかった。楽しかったのはわかったから、さっさと飯にしようぜ」
ネクタイを解きながら言うと、クリスマスが露骨に不満そうな顔になった。
「むぅー。ちょっとくらい聞いてくれたっていいじゃん」
「聞いてやりたいのは山々なんだけどな、おれも疲れてるんだよ」
「でもこの感動はいましか伝えられないんだよ!?」
いえ、正直に言って有難迷惑なんですけど。
しかし、徹夜明けのくせにずいぶん目がキラキラしてるな。
このままでは飯にすらありつけない。
本音を言えばまったく興味はないが、一応は聞くふりをしておこうか。
「飯食いながら聞くよ。それでいいだろ?」
「もぉー。しょうがないなあ」
すでに用意してあったらしいものをテーブルに出してくる。
そこに並べられたものを見て、おれは目を丸くした。
「……なんでこんなに人参ばっかりなんだ?」
人参の炒め物に人参のスープ、そして人参スティックと、食卓は人参一色だ。
「あ。デザートもあるよ。ブルーベリーね」
なんでだよ。
いや、つくってもらっておいて文句を言うのもなんだが、それでも言わしてもらいたい。
なんでまたこんな偏ってるんだよ。正気の沙汰とは思えん。
「うさぎは人参をつくることで世界をよりよいものへと変えているんだよ。それを消費することで、わたしたちは彼らが少しでも生きやすい世界をつくるお手伝いを……」
始まった。
こいつ、ときどき現実とフィクションの区別がついていないんじゃないかと本気で心配になってくる。
なんであろうと本気になれるのはいいことだとは思うが。
まあ、いい。
おれはとりあえずビールが飲めればいいんだ。
「それでね、みんなから嫌われてたきつねのニックがジュディを助けるために署長に突っかかっていくシーンがもう最高なの!」
「へえ。そいつは格好いいな」
あー。ビールうめえ。
ところでなんできつねが人間を助けるために警察署長に突っかかっていくんだ?
ジュディってのはきつねにうなぎを盗まれた猟師ではなかったのか?
聞き直そうかとも思ったが、クリスマスが熱心に語っているので水を差すのも悪いと思ってやめた。
「でもね、それは萌えポイントの通過点に過ぎなかったの。真打は事件が解決したかに思った後半にやってきたんだよ! 自分の過ちを悔いて涙ながらに気持ちを伝えるジュディ。そんなジュディを受け止めるニック。そして胸がバキューン!」
あぁ、そうだそうだ。
やっぱりごんぎつねの話だった。
しかし、どうして昔話をわざわざ新宿の映画館でやるんだろうか。
まあ、いまはそういうのが受けているのかもしれん。
いまの若者が好むものは、ちょっと前衛的すぎておれにはついていけんな。
「ごちそうさん。じゃ、おれは風呂に入ってくるわ」
「あ。オジサン! まだ話は終わってないよ」
「ああん? まだあんのか?」
「むしろまだこれからだよ!」
おまえ、それ感想じゃなくて物語ぜんぶ聞かせる気じゃねえか。
たまったもんじゃねえよ。
こんなの夜通し聞く元気はおれにはないんだ。
明日だって朝からクレームの処理に走らにゃならんのに、やってられっか。
「しゃべりたければ勝手にしろ。おれは風呂に行くからな」
「あ。オジサン……」
浴室に入ると、湯船に浸かる。
身体中がぐにゃぐにゃになるような感覚だ。
あー、一日の疲れが流れ落ちていく。
さっぱりすると、悪いことをしたかという気にもなってくる。
そう思うと、ふと胸がチクリと痛む気がした。
……そうだな。
あいつも試験から解放された喜びもあるだろう。
風呂からあがったら、もうちょっとだけ真面目に聞いてやるか。
と、そろそろ上がろうかと思っているときだった。
バスルームの向こうに人影が見えた。
どうやらクリスマスが歯を磨きに来たようだった。
まあ、すぐ済むだろう。
そう思ってると、ふと向こうで彼女が言った。
「ねえ、オジサン」
「なんだ?」
「さっきの話の続きなんだけどー」
「は?」
シャコシャコと歯磨きをしながら、映画の感想の続きを話し始めた。
おれは出るに出られずに、ずっとそのままの体勢で聞いていた。
「それでまさか黒幕があのひとだったのには驚いたね。てっきりあのひとは……」
あー、そうだな。そうだな。
黒幕が実は猟師のおっ母だったのにはおれも肝が冷えたよ。
そのうち、なにか頭がぐるぐると回るような感覚が襲ってきた。
しかし身体は思うように動かずに、重力に従うままずるずると湯の中に降りて行った。
「オジサン、聞いてるー? ……オジサン!?」
ガラリと戸が開く音とともに、ぶくぶくと湯船に沈んでいった。
のぼせた。
どうやって生還できたのかは記憶にないが、気がつけばおれは布団に横になり扇風機の風を浴びていた。
そして身体を温めて冷やしすぎたせいで風邪を引いた。
次からクリスマスには、なにかの感想を述べる際には原稿用紙にまとめて提出させることにしよう。
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