6月のバースデイ(結)


 真紀と交際することになったのを告げたとき、会社の先輩は言った。


「へえ。意外っちゃ意外だな」

「どういう意味ですか?」


 そもそも真紀との間を取り持ったのは彼ではないか。

 ことがうまく運べば意外とはどういうことだろう。


「いや、あまり似合ってないからな」


 なんということを言うのだろうか。

 まあ、歯に衣着せぬ物言いが、このひとの魅力ではあるが。


 いや、傍目に見ても釣り合いのとれているとは思えなかった。

 きっと実際につき合ってみれば、真紀のほうがすぐに愛想を尽かすと思ったのだろう。

 彼女はどこか、おれに対して変な理想を持っている。


 仕事のできる先輩。

 いつでも優しい先輩。

 自分を決して裏切らない先輩。


 確かに仕事をしていればそういう風に見えるのかもしれない。

 しかし会社でのおれは、あくまでおれの一側面でしかないのだ。

 アパートに帰れば仕事なんて忘れてビールを飲みたいし、休日は昼過ぎまで寝ていたい。

 食器なんてひとり暮らしのときは溜めに溜めてまとめて洗っていたし、部屋の片づけなんてほとんどしなかった。


 しかし、それを他人に見せるのは勇気がいる。

 先輩によく言われるが、おれは意外に繊細なのだ。

 他人との距離感など特に気になる。

 あまり知らない人間に、必要以上に踏み込んでほしくはない。

 そのせいで中高のころは、それほど多くの友人には恵まれなかった。


 それは大人になったいまでも同じことだ。

 おれがこうやっていっしょにタバコに行くのは、この先輩だけだ。

 最近、真紀もいっしょになることも多くなったが、それでも数日に一回かそこらだった。


 なにが言いたいのかと言われれば、つまりおれは格好つけなのだ。


 そんな自分が、下積みもせずにいきなり出会ったばかりの女性と恋人になったら、その結果はわかりきっていたことだった。

 いつしか真紀に好かれそうな男性を必死に演じていた。

 そのことに息苦しさを感じていたのは自覚していた。


 それは誰のためか。

 いや、自分のためだというのは間違いない。当然だ。

 では、なぜおれはそうまでして彼女との関係を取り繕うことに必死だったのか。


 先輩の言うように、可愛い女の子が好意を向けてきて悪い気がするはずもない。

 クリスマスが居座ってきてから不自由だった男性としての欲求にはけ口が欲しかったというのも、まあ、否定はできない。


 しかしおそらく、おれはそれよりも恐れていたのだ。

 なにを?


 それは端的に言えば、時間だった。


 ―*―


 目を覚ましたとき、頭に鈍い痛みが沈殿していた。

 まるで石にでもなったかのような身体を動かして、窓の外を見た。


 空は相変わらず、どんよりと曇っている。

 スマホの画面を見て、夕刻だと知った。

 テーブルに転がっているビールの空き缶を見て、死にたい気分になった。


 夢だったらよかったが、現実はそうはいかない。

 洗面所に行って顔を洗った。

 鏡で見た自分の顔は、それはもうひどいものだった。

 半年前、さゆりに振られたときも同じことを思ったような気がする。


 寝室の襖を開けた。

 クリスマスが最後に脱ぎ散らかしたワイシャツやその他の私物が散乱している。

 ふと、部屋の隅のスーパーの袋が目についた。

 その中を覗くと、なぜかケーキミックスや鋳型、泡だて器などが入っている。


 あいつ、菓子でもつくるつもりだったのか?


 しかしやはり、そこに彼女が戻っていることはなかった。

 いや、自分から追い出したのだ。

 そんな都合のいいことがあるわけはない。


 ……都合のいい、か。


 彼女が帰っていることを望んでいるような口ぶりだ。

 そんな自分にうんざりとした。

 今回のことは、どう考えても自分が悪い。

 それなのに、ほとんど八つ当たりのように彼女を追い出してしまった。

 その罪悪感にいまさら苛まれ、謝りたいと思う愚鈍な自分が嫌だった。


 試しに携帯を鳴らした。

 しかしすぐに『電波の届かないところか、電源が……』のアナウンスが流れた。


 思いがけず、乾いた笑い声が漏れた。

 まさか恋人のほうではなく、クリスマスのほうに先に電話をかけるなど、滑稽もここに極まれりだ。


 まあ、いい機会かもしれない。

 所詮は家出少女とその住まいを提供する人間という一過性の関係だった。


 いつかやってくる別れがいまやってきただけのことだ。

 あいつだって、もうここには帰りたくはないだろう。

 実家に帰ったかもしれないし、学校の友人の家にでも泊めてもらっているかもしれない。


 半年前のように、あの駅前にいるかもしれない。

 しかし、それはもうおれには関係のないことだった。


 そういえば、口座にあるあの金はどうしようか。

 警察に届けるべきか。

 それは当然なのだが、あれがいったい何なのか知らずに届けていいものだろうか。

 こうなると、彼女のことを少しでも知ろうとしなかった過去の自分が少し愚かしかった。


 ……まあ、なんでもいいか。


 いまはなにも考えたくはない。

 とりあえず、また酒でも買って来よう。

 腹も減ったし、夕飯もコンビニで済ませるか。


 と、ふと食べかけのパスタの皿を見た。

 クリスマスが捨てたのは真紀の皿のものだったから、おれのはまだ残っていた。


 ラップをはがし、なんとなく口に入れる。

 確かにこれはひどい。

 魚介類の生臭さがまったく抜けていなかった。

 あのときは緊張していてあまり味など気にしていなかったが、こうして冷めるとよくわかる。


 まるでおれのようだな。


 サンダルをひっかけて外に出る。

 アパートの階段を降りていくと、ふと裏庭からバレンタインの鳴き声が聞こえた。


「クリスマス?」


 覗くと、下の階のOLさんが振り返った。


「あら。どうも」

「ど、どうも」


 あまりの恥ずかしさに逃げたくなったが、そういうわけにもいかない。


「こ、こんなところでどうしたんですか」

「いえ。帰ったらこの子の鳴き声が聞こえたので」


 OLさんが買ってきてくれた猫缶に、バレンタインが鼻先を突っ込んでいた。

 そういえば今日は餌をやっていなかったような気がする。

 おそらくクリスマスもやっていないはずだ。


「すみません」

「いいえ。そういえば、今日は妹さんはどうしたんですか?」

「あぁ。えっと……」


 なんとでも言って誤魔化せばいいものを、なぜか馬鹿正直に答えていた。


「ちょっと、喧嘩をしてしまいまして」

「あら、どうして?」

「今日、おれの客が来たんですけど、一方的にあいつに外に出ておくように言ったんですよ。それから機嫌が悪くなって、それでちょっと言い合いに」

「まあ。それは大変ですねえ」

「いや、悪いのはおれなんです。あいつの話もろくに聞かずに、こっちの言い分で叱りつけました。普段、あんなことするやつじゃないんですけど。でも、どうしてあいつの機嫌があんなに悪かったのかわからなくて……」


 情けないことだ。

 見ず知らずのひとに愚痴るなど、大人としてあまり褒められたものではない。

 しかしどうにも、誰かに言わなければもやもやとした気持ちは収まりがつかなかった。


 とはいえ、それは自己満足だ。

 クリスマスはすでに去ったし、きっと二度と会うこともないだろう。

 言ってしまえば、ただ誰かに慰めてほしいだけなのかもしれない。

 そう自覚すると、急に恥ずかしくなって踵を返した。


「あ。いえ、忘れてください。猫の餌、ありがとうござい……」

「きっとあの子も同じ気持ちなんだと思いますよ」


 振り返ると、彼女はなぜかアパートの陰を見ながら続けた。


「本当は自分が悪いと思っているんだけど、気持ちに引っ込みがつかなくなっちゃって困ってるんだと思います」

「は、はあ」


 どういう意味だろう。

 そう思っていると、彼女は意外なことを言った。


「あの子、今日が誕生日なんですってね」


 ……は?


「日曜はお兄さんが家にいるから、いっしょにケーキつくるって張り切ってましたよ。たぶん、その予定がなくなって拗ねちゃったんですよ」

「…………」


 あのスーパーの袋に入っていたのは、そういうことだったのか。


「でも、そのくらい言ってくれれば……」


 言いかけて、口を閉ざした。


 言えるわけがない。

 この一週間のおれは、傍から見てもよほど浮かれていたことだろう。

 あいつはあれで、空気を読むことはできるやつだ。


「気になるなら、謝っちゃったほうがいいんじゃないですか?」

「……いえ、そうしたいのは山々なんですけど、あいつ、えっと、……実家のほうに帰っちゃいまして」

「大丈夫ですよ」


 OLさんはやけに自信ありげだ。


「ど、どうしてですか?」


 必死に餌を食べていたバレンタインが顔を上げた。

 やつは「ナァ」と鳴くと、ふとアパートの陰にトコトコ歩いていく。

 そして物陰に向かって「ナァナァ」と鳴いた。

 一瞬だけそこに入っていくと、やけに見覚えのある鞄の肩ひもをくわえて顔を出した。


「…………」


 おれが覗くと、クリスマスが膝を抱えていた。

 秘密を暴露されたせいか耳を赤くして、気まずそうに両腕で顔を隠している。


 悪戯っぽく笑っているOLさんに向いた。


「こいつがいるの、知ってたんですか?」

「最初からいましたよ。この猫缶をあげてたのも妹さんですし。お兄さんの足音がしたら急に隠れちゃったから、どうしたのかなって思ったんですけど」


 おっとりした顔をしているくせに、えげつない性格をしている。

 ため息をつくと、隅のほうで小さくなっているクリスマスに言った。


「部屋に戻るぞ」


 クリスマスも小さくうなずくと、あとについて部屋に戻った。


 テーブルを挟んで向かい合った。

 そこでやっとビールの空き缶を片付けないままだったのに気づいて舌打ちした。

 大の大人がやけ酒をしてふて寝していたなど、ばつが悪い。


 しかし、どう切り出せばいいのか。

 迷っていると、クリスマスがそっと頭を下げた。


「ごめんなさい」


 先手を取られてしまった。

 さらに気まずいことになってしまった。

 許してやる、というのもどうか違うし、かといってこちらも謝り倒しては彼女の誠意を無視するような気がする。

 散々、迷った挙句、口をついたのは非常に気の利かない言葉だった。


「来週だ」

「え?」

「来週の日曜に、ちゃんと誕生日も祝うから。ケーキもそのときな」


 ちらとクリスマスの様子をうかがう。

 うつむいているせいでその表情はよくわからないが、どうやら一応は了解してくれたらしい。


「……おれも悪かったよ。ここは、もうおまえの家でもあるのにな」


 そう言って頭を撫でると、彼女はこくりとうなずいた。

 それだけで、身体の奥に溜まった憂鬱な気持ちがすうっと抜けていくような気がした。


 同時に急に腹の音が鳴った。


 ……いや、これはおれのものじゃない。

 見ると、クリスマスが顔を真っ赤にしている。


「おい、おまえ金は持ってなかったのか?」

「……お財布、ここに忘れちゃったの。バレンタインの缶詰の分はポケットに入ってたんだけど」


 どうにも締まらないやつだ。

 まあ、そのおかげで取り返しのつかないことを回避できたのだ。

 ある意味では感謝しなければならない。


「夕飯、なにがいい? 好きなのでいいぞ」


 どうせだし、外で食うか。

 一応、金は降ろしていたしな。

 そう思って立ち上がろうとすると、クリスマスは意外な注文をしてきた。


「じゃあ、あれがいいな。オジサンのリゾット」

「はあ?」


 それはあれだろうか。

 半年前にこいつが炊飯器の米を焦がしたときにつくったやつだろうか。

 一応、昼間に買い物をしたものがあるから、材料はあると言えばあるのだが。


「そんなもんでいいのか?」

「うん。あれ好き」


 まあ、そう言うなら。

 炊飯器の中を確認した。

 おあつらえ向きに、昨日の夜に炊いた米が残っている。


 ススス、とクリスマスがキッチンに立った。

 いつも習慣か、どうやら手伝うつもりらしい。


「じゃあ、おまえ出汁巻きな」

「えー。オジサン。まだ飲むつもりなの?」

「べつに酒のときしか食ったらいけないなんて決まりはないだろ」


 まあ、食っている間に飲みたくなってコンビニに走ることになるかもしれないが。


 しばらく、玉ねぎを刻む音と卵を溶く音が静かな部屋に響いていた。


「でも、あれはやりすぎだぞ」

「そりゃあ、朝まではあんなことするつもりはなかったよ? でもさ、オジサンのにやけ面を見てたら、こう、いらいら! ……って、ね?」


 ね? じゃねえよ。


 しかし、どうにも言い返せなかった。

 あのときのことを思い出すと、思いがけず笑いがこみ上げてきた。


「おまえなあ、あんなのどこで覚えてきたんだよ」

「お昼のドラマでやってた。うまかったでしょ?」

「まさか、あれのために小一時間も部屋で待ってたとかじゃねえよな」

「待ってたよー。ずーっと押し入れの中にいたもん。映画のスパイの気分だったね。わたしボンドガールだから」

「じゃあ、おれがジェームズ・ボンドか。そりゃ光栄だね」

「うーん。骨格から変えればあるいは……」

「おまえ、今日やっぱ飯抜きな」

「うそうそ、冗談! オジサン、ちょーかっこいい!」


 話しているうちに、いつもの空気も戻ってきた。

 やはり、こいつはこうでなくてはいけない。


 おれは笑いながら、玉ねぎを熱したフライパンへと流し込んだ。


 ―*―


 翌日。出社して早々、先輩がおれをタバコに誘った。


「おまえ、二股してた挙句に3P強要したんだって?」

「…………」


 真紀が言いふらしているらしく、おれは朝からすれ違う女性すべてに、それはもう冷たいまなざしを向けられていた。


「えっと、どうすれば……」

「ハッハッハ。大丈夫だろ。あの娘、経理じゃずいぶん信用されてないからな。うわさもそのうち消えるさ」

「ど、どうしてそんな女性を勧めてきたんですか」

「男と女ってのはやってみなきゃわからんからな」


 ……朝っぱらからの下ネタだが、既成事実がある以上、たしなめることができなかった。


「しかしまあ。おまえ、なんかすっきりした顔つきだな」

「そうですか?」

「なんかここ最近、どうもやつれた感じだったからなあ。前の彼女に振られたときもあんな感じだった。あの経理の子、そんなに激しかったか?」

「二度目はさすがに怒りますよ」

「ハッハッハ。そうそう。そうだよ」


 タバコをくわえて火をつけた。

 吸うつもりはなかったが、なんとなくそういう気分だった。


「焦ってたんですよ」

「なにに?」

「おれ、実は来週の日曜日が誕生日でして」

「ははあん。おまえ、確か三十だったな」

「えぇ、まあ。それで前の彼女が、もう新しい男とつき合ってるって話も聞いちゃったんですよ。あいつ、ちゃんと前に進んでるんだなあって。それで、こう、なんていうか……」

「確かにそりゃきついな。おれもいまの嫁さんと出会ったのが三十過ぎてだから、気持ちはよーくわかる」

「ま、そういうわけで。真紀さんには悪いことをしたと思ってます。どう考えても、おれは彼女に対して真剣じゃなかった」

「ふうん。それで別れて吹っ切れたと」

「まあ、そんな感じですかね。似合わないことしても、結局、うまくいくわけないって思いまして」

「まあ、いいんじゃないの? おまえはやっぱ、もうちょっとのんびりした娘が向いてると思うよ」


 だったら、最初から余計なことはしないでほしいものだ。

 と、先輩が急に顔を近づけてきた。


「で、3Pってのはなんなの?」

「……聞かないでください」

「おまえ、まさか本当に女子高校生に……」

「それは断じて違います!」


 先輩はおかしそうに笑った。

 まったく、このひとは冗談か本気かわからないところが本当に厄介だ。


 しかし、どうしようか。

 クリスマスの誕生日の祝いを来週の日曜日だと言ったのは、とっさに口を突いたものだった。

 もしおれの誕生日のことを言えば、きっと「ずるい」だの「オジサン最低」だのと文句を言われるに違いない。


 まあ、いいか。

 帰ったら素直に白状しよう。

 そして来週の日曜はケーキにおれの名前も入れてもらおう。


 ひとはいくつになっても、自分の誕生日を祝ってほしいものだからな。

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