6月のバースデイ(3)
「先輩の部屋、けっこう片付いてるんですね」
真紀を連れて部屋に入ると、彼女はしげしげと見回しながらそう言った。
「てっきり酒瓶とか転がってるイメージがあったんですけど」
「まあ、酒は好きだが」
近くのスーパーで買ってきた昼食の材料をテーブルに置く。
「いいのか? せっかくの誕生日なんだし、おれが用意しようか」
「いえ。わたしがしたいので」
そういうならと、ゆっくりさせてもらうことにした。
しかし、妙な感覚だ。
クリスマス以外の人間が、ここに立っている。
背中がぞわぞわする。
この感覚はなんだろう。
どこか落ち着かないというか、キッチンから目が離せないというか。
……いけないな。
どうも、気が立っているように思う。
真紀は明け透けに見えて、これで神経質な女性だ。
おれが少し上の空になっていると、すぐにそれを指摘される。
今日は彼女の誕生日なのだ。
彼女に気分よく過ごしてもらわなければ。
「できましたよー」
真紀がパスタを食べたいと言ったのでそれにした。
本当は蒸し暑かったから素麺か蕎麦がよかったが、それではあまりにもあんまりだ。
彼女がサラダとトマトソースの魚介パスタを置いた。
おれは恭しくフォークをとって、それをくるくると絡めた。
箸がよかったが、そんなことは言わない。
せっかくつくってもらった真紀に失礼だ。
ソースが落ちないように、そっと口に運んだ。
「うまい」
「本当ですか。やった」
「あぁ、えっと、うん。うまい」
「なんですか、それ」
真紀が笑った。
しょうがないではないか。
普段、パスタなど小洒落たものを食べ慣れてはいないのだ。
クリスマスと外食するときはだいたいラーメンか中華か定食屋だし、家での食生活といったらそれはもう質素なものだ。
最近はずっと実家から送られてきた素麺の束を消費していた。
親戚から送られてきたとかで、こちらに回ってきたのだ。
まあ、つくるのも楽でクリスマスも文句は言わないし、ありがたいと言えばありがたいのだが。
あぁ、しかしビールが飲みたい。
肴はそうだな。気分的には出汁巻きがいい。
最近、クリスマスが卵を巻くのにハマっていて、酒を飲んでいるとよくつくるのだ。
とはいえ、ここ一週間は彼女の機嫌が悪かったせいで食べていない。
そういえば、そのために買っていた大量の卵の賞味期限がそろそろだったはずだ。
あとで確認しておかなければいけない。
「先輩?」
「あ。すまん。ちょっと考え事をしていた」
「もう。お仕事もいいですけど、今日くらい忘れてくださいよ」
「そうだな」
いけないな。少しでも気を抜くとこれだ。
しかし、クリスマスはどこに行ったのだろうか。
まあ、金も持っているだろうし、腹を空かせて泣いているということもないだろうが。
……いかんな。
どうも集中できていない。
これでは本当に真紀の機嫌を損ねてしまう。
「そうだ。テレビでも点けようか」
少しは場も持つだろうか。
そう思ってテレビを点けると、ちょうどお昼のドラマがやっていた。
いつもクリスマスが録画しているやつだ。
「あ。わたしこの女優さん嫌いなんですよねえ」
「そうなのか?」
「うーん。なんていうか、男のひとに媚びてる感じがちょっと……」
そういうものだろうか。
その二十代半ばほどの女優を見た。
実を言うと、おれはこの娘が少し好きだったりする。
というか、クリスマスが好きなのだ。
あまりドラマとかは観ないのだが、そのせいですっかり覚えてしまった。
「真紀はどんな役者が好きなんだ?」
「わたしはやっぱりあのひとですねー。いまは月9に出てて……」
「へえ」
しかしダンスグループ出身がどうとか言われてもさっぱりわからない。
ダンスがうまいことと演技がうまいことはイコールなのだろうか。
それほど歳は離れていないはずだが、どうにも会話の噛み合わない瞬間を感じてしまう。
クリスマスなら知っているだろうか。
いや、その前に機嫌を直してもらわなければいけないか。
まあ、案外、けろりとして帰ってくるかもしれないが。
そんなことを考えていると、真紀が話題を変えた。
「あ。先輩、聞いてくださいよ。この前ですね、部署のお局さんがひどいこと言ったんですよ」
あぁ、そういえば真紀は経理の女性陣とは少し馬が合わないという話だった。
おれはそっちの人間関係にはあまり詳しくないので、適当に顔を思い浮かべながら聞いていた。
「それで『あなた若いからわかんないだろうけど、周りに合わせることが大事なのよ』って、それあのひとの思う通りにしたいだけじゃないですか」
……そうなのだろうか。
他の部署のことはよくわからない。
きっと真紀がそう言うならそうなのだろう。
「ところで先輩、そっちはなんですか?」
真紀は襖を指さした。
「あぁ、そっちは寝室だ。どうかしたか?」
「なんか、ひとの気配がするんですけど」
「は?」
そちらに目を向けると、ふいに襖が開いた。
「おはよ」
空気が凍った。
さっき出ていったはずのクリスマスがいた。
いや、いること自体は問題ではない。
彼女は合い鍵を持っているから入れないことはないのだ。
あぁ、違う。問題は問題なのだが、それよりもその格好が問題なのだ。
彼女はなぜかワイシャツ一枚の格好で、寝起きのように髪をぼさぼさにしていた。
肩にレースの下着をひっかけ、臆面もなくこっちに出てくる。
くねっと腕を伸ばしておれの肩にしなだれる。
じろじろと真紀に値踏みするような視線を向けた。
「あれ、次はそのひと? オジサンも好きだねえ」
「――――っ!」
途端、真紀が悲鳴を上げた。
クリスマスを指さして、怯えたようにあとずさる。
「な、なんですかこのひとは!」
「い、いや。ちょっと待て。話を……」
「ふざけないで! 帰ります、帰ります!」
「いや、こいつは、その、妹で……」
「そんな嘘が通じると思ってるんですか!」
――パアン、と景気のいい平手が一発。
くらっとしていると、真紀はばたばたと荷物をまとめて出ていってしまった。
慌てて外に出るが、すでに彼女は通りのほうでタクシーに手を上げていた。
彼女はまるでゴキブリでも見るかのような目でおれを睨みつけると、そのままタクシーに乗って消えていった。
「…………」
呆然としていると、部屋の中ではクリスマスがおれの皿に残ったパスタをひょいと口に入れた。
「……まずーい。オジサン、よくこんなの美味しいって言えるねえ」
「おまえ、自分がなにしたかわかってんのか?」
「わかってるよ。オジサン、えっちできなくて残念だったねえ」
「そういうことじゃねえだろ!」
思い切り壁を叩いた。
「おまえな。おれに腹を立てるのは構わねえよ。でもな、真紀がおまえになにしたっていうんだ」
クリスマスはつーんとそっぽを向いている。
「わたしはオジサンのためを思ってやってあげたの。あんな女、オジサンには合わないよ」
「はあ!? そんなの、おまえに言われる義理はねえだろ!」
「あるよ。だってわたし、あんな女をお義母さんなんて呼びたくないもん」
「誰がおまえのお父さんだよ!?」
頭をかきむしった。
「それに真紀は今日、誕生日だったんだぞ。そんな日にこんな仕打ちをされて、どんな気分になると思う?」
「…………」
クリスマスはじっとおれを睨み返していた。
その顔に、どこか違和感を覚える。
怒っているのに、なぜか泣いているような瞳だった。
気のせいか? いや、でも……。
彼女はぐっと唇を噛んだ。
ついと視線を逸らすと、吐き捨てるように言った。
「誕生日、誕生日って、いい大人が馬鹿みたい」
「……なんだと?」
「フンッ。何度でも言ってやるもんね。誕生日なんてどうせえっちするための口実でしょ。こんなおままごとやってないで、さっさとホテルでもどこでも行けばいいじゃん。追い出されるこっちの身にもなってよね」
そう言って、彼女は皿を持った。
それを生ごみのトレイの上で傾けると、パスタをぼたぼたとこぼしてしまった。
――パンッ。
無意識だった。
気がつけばおれは手を上げて、彼女の頬を打っていた。
これまでこいつがなにをしても本気で叱ったことはなかった。
しかし、さすがに今回ばかりは我慢の限界だった。
おれは部屋のドアを指さした。
「出ていけ」
クリスマスは呆然と叩かれた頬に触れていたが、ぐっと涙をこらえるようにした。
寝室のほうに入っていくと、ほどなくして制服姿になった彼女が出てくる。
「……言われなくてもそうしてやるもん」
そう言うと、彼女はためらいもなく部屋を出ていった。
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