5月のヒナドール(結)



「ごちそうさまでーす」


 クリスマスが一番乗りだった。

 それもそうだ。こいつは辛口が苦手だと言って雀の涙ほどの量しかよそっていない。

 帰りにコンビニにでも寄って食べられるものを買ってやろう。


 彼女が食器を洗うために立ち上がるのを見計らい、おれも残りをかき込んだ。


「おれのもよろしく」

「えー。オジサン、自分でしなよ」

「ひとり分もふたり分も変わらねえだろ」

「しょがないなあ。……あ。帰ったらプリン食べたい」

「わかった、わかった」

「クリームのったやつね」

「クリームでもチョコでもなんでもいいよ。さっさと洗ってこい。もうそろそろ帰るぞ」

「りょーかーい」


 クリスマスが食器を持って台所へ行ってしまうと、ふと姉貴が顔を寄せてきた。


「あんた。どういうこと?」

「は?」

「は、じゃなくて」


 姉貴はちらと台所のほうを見た。


「あんたら、なんか妙に所帯じみてない?」


 飲んでいた茶を吹き出した。


「い、いや。そんなことないだろ」

「あるでしょ。どこの世界に、よそさまの女子高校生といっしょにカレーをつくる三十路男がいるっていうの」


 ね、母さん。と姉貴が話を振った。


「そうねえ。なんかわたし、ふたりのうしろ姿見ててお婆ちゃんになった気分だったわあ」


 しまった。確かにそう言われれば、いつものように接してしまっていたかもしれない。


「ち、違う! えっと、その、たまに昼食をつくるだけで、別にそんなことはない!」

「本当にー? あんた、相手は未成年だってわかってるんでしょうね。ちょっと懐かれただけで勘違いしちゃだめよ」

「当たり前だろ!」


 と、台所からクリスマスが顔を出した。


「なんか呼ばれた気がしたんだけど」


 泡のついたスポンジをわしゃわしゃ握っている。


「い、いや、気のせいだ。泡を落とすんじゃないぞ」

「わかってるよー。オジサン、ちょいちょい口うるさいよね」


 ぶーたれて引っ込んでいった。

 ふとお袋が、頬に手をあててうっとりとした様子でつぶやく。


「でも母さん。あの子だったらお義母さんって呼ばれてもいいかも」


 この母親、本当に大丈夫だろうか。


「そもそもだ。おれはいま、つき合ってる子がいる」


 姉貴が目を剥いた。


「え。マジで!?」


 自分は結婚してるくせに、なぜそんなに驚くのだろうか。


「だれ。女子中学生!?」


 どういう意味だ!


「……会社の後輩だよ」

「ははあ。あんたって案外、ドライなのね。てっきり、さゆりにフラれて引きずってるかと思ってたわ」


 ……ぐっ。

 さすが血をわけた姉貴だ。悔しいがおれのことをよくわかっている。


「そもそも、姉貴こそどうなんだ?」

「どうって?」

「さっき話してただろ。今回はどうして喧嘩したんだ?」

「あら。今回は喧嘩じゃないわよ」


 お袋が言った。


「そうなのか?」

「あんた、わたしをなんだと思ってるの?」


 いや、おそらくその想像のままだが。


「今回はね、うちのひな人形を持ってくために帰ってきたのよ」

「ひな人形?」


 それはあれだろうか。

 三月の節句、女の子の健やかな成長を願う祭りに使うあの人形だろうか。

 少し意外な答えに、おれは面食らってしまった。


「でも、どうしてそんなものが必要なんだ?」

「あれ。あんた言ってなかったっけ」

「なにを?」

「みち子、妊娠したのよ」


 思わず湯呑みを落としていた。


「あ。ちょっと、あんたなにやってんのよ!」

「タオル! タオル持ってこなきゃ」


 するとクリスマスがひょこっと顔を出した。


「これでいい?」

「あ。ありがと!」


 慌ててお茶を拭きながら、姉貴がため息をつく。


「もう。あんたもいい歳なんだから、こんなことでいちいち驚かないでよ」


 いや、驚くだろ。

 とはいえ、姉貴も結婚してもう三年だったか。

 確かにそう言われれば、いままでそういう話がなかったのがおかしいくらいなのだろうか。


 それからほどなくして、おれとクリスマスは家を出た。


「本当に父さんに会ってかないの?」


 玄関まで見送りに来た姉貴が言った。


「まあ、親父との話なんて、仕事のことくらいしかないからな」

「会話下手なところ、本当にそっくりだもんねえ」

「それに高校生なんて連れてきたと知られたら、話も聞かずにぶん殴られそうだ」

「あはは。そういうところもそっくりだよねえ」


 いや、おれはあそこまで血の気の多い男じゃないだろ。


「いやあ、でも安心したわ」

「なにが?」

「これまで、ちょっと不安だったのよね。わたしが子育てとかありえないじゃん。でも、あんたとあの子を見てたら、なんかどうにでもなりそうな気がしたわ」


 それはどういう意味だろうか。

 いや、姉貴がそれでなにか自信を得たというなら別に文句はないのだが。


 と、通りのほうに出ていたクリスマスがおれを呼んだ。


「オジサーン。はやく帰んないと志村どうぶつ園はじまっちゃうよー」

「わかった、わかった」


 おれは姉貴に向いた。


「じゃあ、またな。身体に気をつけろよ」

「あんたもね」


 そうして、おれたちはアパートへ戻った。


 その間、あれほどうるさかったクリスマスは、なぜか黙ったままだった。

 疲れているのだろうか。

 それともなにか、機嫌を損ねるようなことをしたのか。

 いや、そういう雰囲気ではなさそうだが。


 アパートのドアを開けると、むっとした湿気が立ち込めていた。

 室内干し特有の洗濯物の臭いも感じる。


 そうだった。今日はコインランドリーに行こうと思っていたのだ。

 疲れもあったが、ここでサボると明日がしんどい。

 手早く洗濯物をまとめた。


「ちょっと出てくる」


 そこでクリスマスが、やっと口を開いた。


「どこ行くの?」


 どうやら、おれに腹を立てているわけではなさそうだ。


「コインランドリーでこいつらを乾かしてくる」

「わたしも行く」

「構わんが、テレビ始まるぞ」

「ちょっと待って。録画してくる」


 コインランドリーは歩いて五分のところにある。

 いまやすっかり数も減ったという銭湯の脇に併設されたもので、狭い空間に不釣り合いな大きな洗濯機や乾燥機がゴウンゴウンと唸っている。


 光に誘われた羽虫が蛍光灯にとまっていた。

 こいつらも雨の中、ご苦労なことだ。


 運よく乾燥機が空いていた。

 それに洗濯物を放り込んで稼働させる。

 部屋に干してはいたが、ここは臭いもとるために長めにやっておくか。


 洗濯機は動いていたが、他にひとはいなかった。

 どうやら、銭湯や向こうのコンビニに逃げているらしい。

 椅子に腰かけると、隅に積んであるどのくらい前のものかわからない漫画雑誌を手に取った。


 と、クリスマスがぼんやりと雨の空を見上げていた。


「どうした?」


 彼女はゆっくりと振り返った。


「みち子さん、赤ちゃん生むの?」

「まあ、そうらしいな」


 そうやら、おれたちの会話が聞こえていたらしい。


「……オジサン。みち子さんの旦那さんって、どんなひと?」

「はあ?」


 なにを言い出すのだろうか。


「ええっと、なんかいつもにこにこ笑ってるひとだな。あんな大人しそうなひとが、よくもまあ、あんな姉貴とうまくやっていけるもんだよ」

「優しい?」

「まあ、そうだな。子煩悩になりそうと言われればそんな気もする。あの姉貴も、あれで面倒見がいいし、まあ大丈夫だろう」

「ふうん」


 どうしてそんなことが気になるのだろうか。

 しかしクリスマスはそれっきり、再び黙ってしまった。


 さわさわと降り続く雨の中に、ぽたぽたと軒先から落ちるしずくの音がやけにうるさかった。

 興味もない漫画を眺めていると、ふと彼女がつぶやいた。


「赤ちゃん。幸せだといいね」

「……そうだな」


 その一瞬、クリスマスという少女の本当の顔が、ちらと覗いたような気がした。

 いままで隠れていた、彼女の核心的な部分が無防備にさらけ出されているような気がしたのだ。

 きっといま、おれがずっと聞きたかったことを聞けば彼女は答えてくれるような予感があった。


 ――どうして、おまえはおれのところにいるんだ?


 しかしおれは、そこに踏み込むのを躊躇った。


 なにに対しての恐怖なのか、おれは知る由もない。

 ただ知らないふりをして、内容を覚える気もない漫画雑誌をめくっていた。


 降り続く雨だけが、静かにおれたちを見ているような気がした。

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