5月のヒナドール(3)



「ねえ、オジサン」

「……なんだ?」

「オジサンの部屋ってどこ?」

「…………」


 アルバムを見飽きたのか、クリスマスが聞いてきた。


「廊下の突き当りの正面のドアだ」

「わーい」


 彼女は無邪気な様子で廊下を駆けて行った。


 ため息をつき、姉貴に目をやる。

 しかし、このひとは相変わらずだ。

 クリスマスのようなイレギュラーがいても、まったく普段と変わらない。

 パチンパチンと脚の爪を切りながら、鼻歌なんか歌っている。


「そういえば、親父は?」

「仕事が遅くなるって」

「そうか」


 お袋と姉貴はこんなだが、さすがに親父は驚くだろう。

 できれば、帰ってくるまでに出たいところだが……。


「そういえば、今日はどうしたんだ?」

「なにが?」

「姉貴が実家に戻るのって、義兄さんと喧嘩したときだろ」

「うん。そうだよ」


 平然としたものだ。

 まあ、このひとの夫婦喧嘩はしょっちゅうだし、いまさら驚きはしない。

 しかしそのたびに家を飛び出される旦那は迷惑この上ないだろう。


「今回はなにが気に入らなかったんだ?」

「まるでわたしが悪いみたいな言い方じゃない」

「これまでは姉貴が勝手に腹立てて出てきただろ」


 仕事の打ち合わせを勝手に浮気と勘違いして怒ったり。

 結婚記念日を忘れていたと拗ねていたら間違えていたのは姉貴のほうだったり。

 旦那の気持ちを考えると同情を禁じ得ない。


 と、ドタドタと足音がやってきた。


「オジサン。あそこトイレじゃん!!」

「おれはずっとトイレで生活してきたんだ」

「もう、いじわるしないで教えてよ!」


 すると姉貴が助け舟を出した。


「二階に上がって右だよ」

「おい、姉貴!」

「いいじゃん。減るもんでもなし」


 するとクリスマスはパッと顔を輝かせた。


「ありがとー」

「あ。こら!」


 彼女は制止も聞かずに、軽やかに階段を駆け上がっていく。


「……ずいぶん仲良くなったもんだな」

「可愛いじゃん。嫌味ないし、礼儀正しいし。まあ、突然、押しかけて来たときはびっくりしたけど」


 礼儀正しい、ねえ。


「振り回されるこっちの身にもなってくれよ」

「ご両親に会えなくて寂しいんだよ」


 ……そういうものだろうか。


 そういえば、あいつがやってきてもう半年近くが経つのに、結局、家庭環境のことはまったく知らない。

 まあ、もはや当たり前となっているような気がするし、いまさらという感じは拭えないが。


「ねえ、オジサーン」

「あん?」


 廊下に出て階段を見上げると、クリスマスが顔を覗かせている。


「納戸が開かないんだけど」

「知るか。気が済んだらさっさと降りてこい」

「ねえ、開けてよー」


 クリスマスはふくれっ面だ。

 どうしてそんなものが見たいのか。


「エロ本を隠してるから見せらんないんだよ」


 と、姉貴がまた余計なことを言いだした。


「え。ほんと!?」


 なんでおまえは嬉しそうなんだよ!


「そんなものはない!」

「嘘だー。オジサンだって思春期があったんでしょ」

「ねえって言ってんだろ」

「では実証のために情報の開示を求めます」

「人権の尊重により、申請を却下します」

「では今度、大家さんにオジサンは超熟女趣味の変態野郎だと告げ口します」


 舌打ちして階段を上がった。

 もう荷物はアパートに移したため、ここにはほとんどなにもなかった。


「この戸は立てつけが悪くてな」


 少し力を入れて浮かすと、ガタンとスライドした。


 この中には来客用の布団や季節ものがしまってある。

 クリスマスは案の定、唇を尖らせた。


「なーんだ。つまんないの」

「だから言っただろ」

「じゃあオジサン。エロ本どこに隠してるの?」

「もとからねえよ!」

「…………」

「な、なんだよ」


 やつはなにか可哀そうなものを見るような顔で言った。


「オジサン、もしかしてゲイ?」

「ぶん殴るぞ」

「じゃあさ、この部屋にさゆりさんを連れ込んだことは?」


 ぶっと吹き出した。

 クリスマスは悪戯っぽく笑っている。


「あ、あのな。おれたちがつき合い始めたのは高校を卒業してからだ。大学に入っておれはひとり暮らしを始めたし、ここにはあいつは何度かしか……」


「…………」

「こ、今度はなんだよ」

「……なんか思ったより生々しくて聞きたくなかったな」

「おまえなぁー!」


 その脇を掴んで、思い切りくすぐる。


「きゃははは! うそうそ、ジョーダンだって! やめてよ、オジサン!」

「てめえ! いい加減にしねえと本当に追い出すぞ、こら!」


 クリスマスが身をよじって逃げようとする。

 それを追いかけていると、ふいにドアがコンコンと叩かれた。


「おーい、愚弟よ。楽しんでるとこ悪いんだけど、母さんが呼んでるよ」


 見ると、開けっぱなしのドアの前で姉貴が腕を組んでいた。


「……わ、わかった」


 なんだろう。

 すごく恥ずかしかった。


 逃げるように下へ降りていった。

 台所に行くと、お袋が近所のすし屋のチラシを見ながら唸っている。


「ねえ。夕飯にお寿司を頼もうと思うんだけど、あの子ってなにが好きかしら」


 そりゃまた豪勢なものだ。

 おれが野球部の試合で勝ったときもスーパーの半額惣菜だったのにな。


「そんなもんいらねえよ」

「あんたねえ。わたしはあんたのためを思って言ってんのよ」

「本当に大丈夫だから」


 なにせ上司の娘なんて嘘だからな。

 おれは廊下から、階段の上に向かって叫んだ。


「おーい。飯つくんの手伝え」

「はーい」


 呼ぶと、クリスマスはすぐに降りてきた。


「なにつくるのー?」

「ルーあったからカレーな」

「やった。甘口ある?」

「うちは親父が辛口派だからな。みんなそれに合わせてる」

「えー。わたし食べれないんだけど」

「ちっとは練習しろ」


 振り返ると、お袋がなぜかぽかんとした顔でこちらを見ている。

 ……どうしたのだろうか。


「お袋?」

「え。な、なに?」

「いや。飯はおれたちがつくるから、向こうでゆっくりしてろよ」


 クリスマスもうんうんとうなずいている。


「あ。そう。……わかった」


 お袋が居間に引っ込むと、クリスマスは意気揚々と袖をまくった。


「ようし。わたしの進化した包丁さばきを披露するときがきたね!」

「いや。おまえ危なっかしいから米研ぎとカレー混ぜるだけな」

「やだ! やる!」

「……ハァ。じゃあ、少しだけな」


 こうして、おれたちのカレーづくりが始まった。

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