5月のヒナドール

5月のヒナドール(1)



「ねえ、オジサン」

「あん?」

「抹茶味の食パンなんて珍しいね」

「はあ?」


 クリスマスが朝食として焼こうとしている食パンを見た。

 確かに切断面が緑のまだら模様に染まっている。

 布団から飛び起きると、ゴミ箱に突っ込んで蓋を閉めた。


「馬鹿。こりゃカビだ!」

「カビってなに?」

「…………」


 冗談だろうか。いや、これは本気だ。


「ええっと、……食ったら死ぬ」

「ほんとに!?」

「おう。だからあれが出たら、もう食うなよ」

「やばいね。バイオハザードじゃん!」


 ……間違ったことは言ってないはずだ。

 この妙なところで世間知らずなお嬢さんに、菌類がどうとかうまく説明する自信はおれにはない。


「しかし、鬱陶しいなあ」


 窓に目を向けると、先週からずっと降り続く雨が見える。


 言わずもがな、梅雨の到来だ。

 おそらくこの季節を好む人間は少ないだろう。


 おれもそうだ。

 会社勤めの人間にとって、雨というだけですでにテンションが下がってしまう。


 しかし、なぜかクリスマスはうきうきした様子で窓の外を眺めている。

 やっと花粉症も落ち着いてきたのだから、それもわからないでもない。


「ねえ、オジサン」

「なんだ?」

「今日はどこにも行かないの?」

「あぁ、そのつもりだ」


 わざわざ雨の休日に外に出ようなんて思うやつがどうかしている。

 もう今日は、ずっと寝ているつもりだった。


「そっかー」


 クリスマスが嬉しそうに笑った。

 ……こいつは本当によくわからんやつだな。


 と、スマホに着信があるのに気づいた。

 仕事の連絡かと思ったが、私事のアカウントのほうだった。


 二件ある。

 ひとつは実家の母親からで、もうひとつが……。


「…………」


 どうしてこうも、女というのは携帯が好きなのだろうか。

 こんなの、会社の日の昼休憩のときにでも話せばいいだろうに。


 まあ、いい。

 何度か会話を打ち込むと、布団にもぐり直した。


「オジサン」

「なんだ?」


 クリスマスがカビてないパンを食べながら、ソファの背もたれ越しに顔を覗かせる。

 今日はやけに話したがる。

 もしかしまた、なにか面倒なことでも持ってくるつもりだろうか。


 と、その言葉は少し予想外だった。


「いまの誰?」

「……実家のお袋だ」


 なぜか嘘をついてしまった。

 いや、母親のほうにもあとで返事をするし、別に嘘というわけではないのだが。


「どうしたの?」

「いや。今日から姉貴が実家に戻るから、おれも時間があるときに寄れとさ」


 どうせまた、ろくでもないことで旦那と喧嘩でもしたのだろう。

 その愚痴を聞かされるために呼び出すのはやめてほしい。


「へえ。オジサン。お母さんがいたんだね」

「おれをなんだと思ってるんだ?」

「クローンかな」

「誰のだよ。……まあ、正月にも顔を出さなかったからな」

「行けばいいじゃん」


 簡単に言ってくれるものだ。


「そもそも誰のせいで正月に帰らなかったと思ってるんだ?」

「わたし?」


 それ以外の誰がいるんだ。

 あの頃のこいつは、それはもう家事に関してはトラブルメーカーだった。

 ひとりで家に置いていたら、火事にならないかと気が気ではなかっただろう。


 まあ、いまの時期なら実家に泊まるということもないし、来週の午後にでも顔を出しに行けばいいか。


「あ。そうだ」

「は?」


 いやな予感がした。

 そしてそれは正解だった。


 クリスマスはとんでもないことを言いだしたのだった。


「わたしも行きたい」

「おい、待て」


 急に頭痛がしてきた。


「えっと、まず聞くぞ。なんでだ?」

「オジサンの育ったところ見てみたい」

「却下だ」

「えぇー。いいじゃん。ケチ」

「ケチとかいう問題じゃねえよ」


 独身の息子が見知らぬ女子高校生を連れてきて一緒に住んでますなどと言った日には、本当に腕が後ろに回ってしまう。

 あの家族は血のつながりとかで犯罪を見過ごすタイプではないのだ。


 いや、なにもやましいことなどないのだが。

 ……さゆりのやつ、姉貴になにも言ってないだろうな。

 いや、あのふたりが仲がよかったのは高校のころだし、いまもつき合いがあるとは思えないが。


「それよりおまえ、洗濯機回したか?」

「あ。忘れてた」


 話題を逸らすと、やつは慌てて脱衣所に走っていった。


 ぐったりしながら携帯を見た。

 すると会話を終えたはずの相手から、再びメッセージが入っている。


 ……梅雨が終わってからにしてもらおう。

 雨の日に女性と歩くのは得意ではないのだ。


 おれは返事を打つと、それを枕の向こうへ放り投げた。

 なんだかどっと疲れたような気がする。

 あまり有意義ではないとは思うが、今日は本当に寝て過ごそう。


「あぁ、オジサン! 洗剤のところに間違えて柔軟剤入れちゃった!」

「…………」


 ため息をつくと、布団を出て脱衣所に向かった。


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