4月のチェリー(結)



 バレンタインは、オジサンの住むアパートで飼われる黒猫である。


 普段は裏庭に備えられた犬小屋の中で、身体を丸めて眠っている。

 前のご主人が遠くへ引っ越してからは、ここが自分の家だ。

 ここにも前の住人の匂いが残っているが、まあ住むところがないよりはマシだと思っている。

 ちゃんと毎日、食事が与えられるというのはなによりも嬉しかった。


 しかし最近、静かすぎる。

 具体的に言うと、いつも鬱陶しいくらいに構ってくるあの少女を見ないのだ。

 学校とやらが休みの間、ずっと部屋に籠っている。


 もしかして、具合でも悪いのだろうか。

 前のご主人のときは、もともとずいぶんな老体だったから、少し寝込むとひやひやしたものだった。


 いや、誤解しないでいただきたい。

 わたしは少女の身を案じているのではない。

 いつもやかましいのが静かだと、少しだけ気になるだろう。


 おや。


 バレンタインは顔を上げた。耳をぴくぴくと動かす。

 アパートの階段を降りてくる足音が聞こえるのだ。


 人間は足音が個性的だ。

 それだけで人となりがわかるものだった。

 そしてその足音は、いつもと違ってずいぶんと弱っている様子だった。


「バレンタイン!」


 掠れた声で自分を呼ぶのは、やはりあの少女であった。

 やれやれ。もうしばらく顔を見ていなかったし、たまには遊んでやるか。


 と、バレンタインが油断して顔を出した瞬間だった。

 その首根っこがわしっと掴まれると、ぶらんと脚が地面を離れてしまった。


 やめろ。やめるんだ。

 それをしていいのはあのオジサンだけだ!


 バレンタインはもがいた。

 しかし無駄だった。

 いつもちょっと引っかいてやればすぐに逃げていくのに、今日は妙に我慢強いのだ。


 バレンタインはそのまま、少女のリュックに詰め込まれた。

 ぴょこんと顔を出して、周囲を見回す。

 そのリュックの中には、自分の好物の猫缶が大量に詰め込まれていた。


「行くよ!」


 少女は叫ぶと、クシュンクシュンとくしゃみをした。

 そうして、バレンタインは彼女に拉致されていったのだった。


 ―*―


「先輩。あの、その……。今日は、いい天気になってよかったですね」

「おう、そうだな」

「えっと、あの……」

「…………」


 限界だ。

 そろそろいい時間になってきたというのに、重役たちはさらに盛り上がっている様子だった。

 おれはずっと同じシートに座り、後輩からの話にひたすら相づちを打っている。


 しかしここまで来ると、いよいよ彼女も話のネタが尽きてきた様子だった。

 おれもいい加減、このむずかゆい空間に耐えられなかった。


 だいたい、これが成人した男女のやり取りだろうか。

 そうは思うが、とはいえ、おれもそれほど女の扱いに長けているわけではない。

 おれは困り果てた様子の彼女に言った。


「無理して話題を振らなくていい。おれは黙ってるのは嫌いじゃない」

「す、すみません」


 別に怒ってるわけじゃないが、彼女はうつむいてしまった。


 ため息が出た。

 おれは自分から話を持ち出すタイプじゃないし、無理に話を振ろうとするとどうしても仕事のことになってしまう。


 ……こう考えると、よくもまあ、クリスマスとは三か月以上も同じ部屋で生活をできているものだと思う。

 まあ、あいつの場合は同居人と言うよりもわがままなペットの感覚だが。


「あっ」


 おれが立ち上がると、彼女が慌てて腰を浮かした。

 少しひとりになろうと思ったが、そんな表情をされてはそうはいかない。


「……煙草だ。いっしょに来るか?」

「は、はい!」


 場所を変えれば、少しは気まずい空気も晴れるだろうか。

 いや、おそらくは無理だろう。

 彼女もなにかを察しているようだし、おれもいい加減、この茶番のようなやり取りを終わらせたかった。


 その公園の隅に備えられた喫煙場所にやってきた。

 煙草を取り出しながら、率直に言った。


「……どうしておれなんだ?」


 後輩は、ぎくりと肩を震わせた。


「わ、わかりますか?」


 むしろ、どうやって気づくなと言うのだ。


「言っておくが、おれはそれほどいいやつじゃないぞ。あまり気の利いた話もできんし、人付き合いもうまくない。どこを気に入ったのかは知らんが、他にもっといいやつでも探したほうがおまえのためだと思うが」


 後輩は照れたようにはにかんだ。


「えっと。そういうとこ、ですかね」

「は?」

「わたし、お世辞にも仕事できるほうじゃないんですよね。とろいし、要領も悪いし。でも、昔からなんか男のひとには優しくされて。守ってあげたくなる、とか、放っておけないんだよ、とか。でも、そういうののせいで、女の同僚からもあんまりいい顔されなくて」


 ……まあ、そんな感じだな。

 彼女の仕事風景を思い浮かべながら思った。


「それでストレス溜まって、煙草吸うようになったんですけど。いつか煙草吸いながら涙が出てきちゃったことがあるんですよね。そのとき先輩が喫煙室に来て、なにも言わずに煙草吸い始めて。気を利かせてよって思ったんですけど、なんかあまりに普通にしてる先輩を見てたら、すごくこころが落ち着いて……」

「……そんなことあったか?」

「あったんですよ」


 彼女は笑った。


「女って現金なんですよ。辛いときに誰かがいっしょにいてくれるだけで、すごく元気もらえるんです。いつも優しい言葉をかけてくれるひともいいとは思うけど、飾らないひとのほうがわたしは好きかなって」

「……そうか」


 困った。


 こんなことを聞かされるなら、最初からこんな話題など振らなければよかった。

 いや、彼女のことが迷惑と言うわけではない。

 しかし、おれはいま、そういう気分では……。


「先輩、恋人さんと別れたんですよね」

「……先輩に聞いたのか?」

「は、はい。すみません」


 彼女は子犬のように震えた。


「こ、こんな女は鬱陶しいですか?」

「……いや、そうは思わんが」


 そんな目をされて、まさか怒っているなどと言えるわけないではないか。


「じゃあ、チャンスください。今度、どこかに行きませんか?」

「…………」


 おれは折れた。


「花粉症が終わる季節まで、待ってくれないか」

「はい!」


 彼女は嬉しそうにうなずいた。

 まさかここまで予想していたわけではあるまいよな。

 先輩たちが飲んでいるシートのほうを見てため息をついた。


 ―*―


 窓の外は、日が沈みかけていた。

 バレンタインはアパートのダイニングにあるソファの上で丸まっていた。


 まったく、今日は散々な一日だった。

 突然、あの少女に拉致されたかと思うと、近くの公園で解放された。

 そして猫缶を片っ端から開けると、それをわたしに与えられた。


 少女はじっと公園の小さな桜の樹を見つめていた。

 もう半分が落ちて葉が混ざっているが、それでも美しかった。


 クシュンクシュンと、少女はくしゃみをした。

 マスクの奥の目は真っ赤だった。

 おそらく体調が悪いのだろう。

 それでも動かずに、じっと桜を見つめていた。


 バレンタインは無言で猫缶を食べ続けていた。

 すると、彼女が呟いた。


「……べつに拗ねてないし」


 そのようには見えなかった。

 バレンタインはなんとなく、彼女の足にすり寄った。

 いつもなら絶対にしないのだが、どうしてか今日はそういう気分になった。


 が、それは藪蛇だった。

 彼女は自分を掴むと、この身体をワシワシワシと掻き毟ってきたのだ。


「あぁ、もう! オジサン、わたしがきついときにどこ行ってんのー!」

「ナギャ――――ッ!?」


 もちろんバレンタインは抵抗した。

 そうして、彼女の頬には鋭い引っかき傷ができてしまったのだった。


 そうしていまに至る。

 すると、玄関のほうでガチャリと鍵の開く音がした。


「ただいまあ」


 オジサンだった。

 彼は疲れ切った様子で、ダイニングへと歩いてきた。

 わたしのことは気づいていないようで、そのまま少女のいる寝室を覗いた。


 さっきまで大きなくしゃみが止まらない様子だったが、さっきやっと寝ついたようだった。

 そのベッドの脇に立つと、彼は少女の寝顔を見ていた。


「女は現金、か」


 そうして、その髪を優しくなでるのだった。


「ひとりにしてすまんな」


 わたしはソファから降りると、寝室から出てきたオジサンの足にすり寄る。


「うわ、なんだ。おまえ、部屋にいたのか」

「ナァ」


 彼はくしゃみをした。

 どうやら、オジサンも少女と同じ病を患っているらしい。


「まったく、花粉くっつけた猫を部屋に入れるんじゃねえよ」


 そう言って、首をわしっと掴み上げられる。

 そのまま窓が開けられ、わたしは大空へとダイブした。

 スタッと着地して、部屋の窓を見上げる。


 やっぱり、これは何度やっても楽しいものだ。

 もう一回、とオジサンに頼んでみる。


「ナァ」


 しかし、オジサンはつれない。


「また明日な」


 そうして、窓が閉められた。

 わたしはしょんぼりしながら、住処に戻って身体を丸めるのだった。

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