4月のチェリー(2)



「あの、先輩。これ食べませんか」


「お、おう」


 会社の後輩から差し出された紙皿を受け取った。


 今年の桜は、例年よりも少しばかり遅れたらしい。

 四月になったが、ちょうど満開の時期に花見が重なった。

 おれとしてはあまり好ましくはないが、それでも社員たちが楽しんでいるならいいと思う。


 しかし、問題はこの後輩の女の子だ。


 紙皿には冷めたから揚げやらおにぎりやらが盛ってある。

 いかにも少年が好きそうなラインナップだ。

 どうやら、おれの食事のイメージはそんなものらしい。


 否定はしないが、これでも三十路前だ。

 特に花粉症に苦しむいま、できれば油ものは控えたい。

 しかし、さっきから皿が空になるたび、あれやこれやとかいがいしく勧めてくるのを断るほど野暮なつもりはない。


「コップ、空ですよね。お注ぎします。ビールと日本酒、どっちがいいですか」

「い、いや。花粉症だから酒は控えてるんだ」

「す、すみません。気が利かずに……」

「いや、こっちこそすまん。そっちのお茶をもらえないか」

「どうぞ」

「ありがとう」


 それを飲みながら、ぼんやりと桜を見物する。


 最後に桜を見たのはいつだっただろうか。

 いや、毎年、見てはいる。

 しかし最近、あえてじっくり見た記憶はない。


 そういえば、クリスマスはどうしているだろうか。

 昼飯は用意していたが、ちゃんと食っているのだろうか。


 と、ふいに後輩の女の子が言った。


「あの、今日は先輩が来るって聞いて、わたしクッキー焼いてきたんですよ。先輩、甘いもの好きって言ってましたよね」


 ごそごそとバッグから透明な包みを取り出した。

 可愛らしいピンクのリボンを巻いたそれに、ミルクとチョコのクッキーが入っていた。


 そういえば、バレンタインにあの気合の入った生チョコをくれたのはこの子だった。

 確かにホワイトデーのお返しをしたとき、まさか同居人にあげたなど言えずに、美味しかったと答えてしまった気がする。


「あ、ありがとう。えっと、いまはちょっとのどが痛いから、帰ってもらってもいいかな。ほら、花粉症だから」

「あ、そうですね。わかりました!」


 その眩い笑顔を見ていると、どうにも申し訳なかった。


 しかし、この子はなぜこうも自分に構おうとするのか。

 後輩といっても、部署は違うし日ごろ指導しているわけでもない。

 たまに喫煙所でいっしょになったときに世間話をするくらいの間柄だ。


 あまり煙草は好きではないらしいが、たまに吸いたくなるときがあるのだと言っていた。

 最初、あまりに度の強いものを吸って咳き込んでいたので、もっとライトなものを勧めてやった。

 その程度なのに先輩とか呼ばれるのは気恥ずかしいし、こちらとしてもどういうスタンスで話せばいいかわからない。


 それに、どうも今日は彼女の様子がいつもと違うような気がする。

 同僚のところへも行かずに、なぜかこっちのシートにじっと居座っている。

 さすがに少しばかり、息が詰まってきた。

 おれは本来、他人と同じ空間に長く居続けるのが苦手だ。


「先輩、どうしたんですか?」

「ちょっと、煙草でも吸って来ようと思って」

「じゃあ、ご一緒していいですか」

「いや、すまん。少し先輩と仕事の話をしたいから」

「そ、そうですか。わかりました」


 しゅんとしている彼女に罪悪感が芽生える。

 しかしいまさら、やっぱり来るか、などと言えるものでもない。

 向こうのシートで上司たちと飲んでいる先輩に目配せした。


 彼はすぐに察してくれたようで、さりげない様子でこちらにやって来た。

 ふたりで喫煙所まで向かっている途中、先輩が茶化すように言った。


「おい、どうだ。こっちから見ながら、けっこういい感じだと話してたんだが」

「……やっぱり、先輩ですか」


 今年はやけに花見に誘うと思ったら、どうやらまた余計な世話を焼いてくれていたものらしい。


「なんだ、おい。もしかして、本当になんとも思わないのか?」

「何度も言ってるでしょう。いまはそういう気にはなれないんですよ」

「おまえはわからんなあ。あの子、経理のほうではずいぶん人気があるんだぞ。可愛い子に言い寄られて嬉しくないのか」


 おれも男だ。

 嬉しくないと言えばうそになる。


 だからといって、好意を向けられればほいほいとなびいてしまうほど、そひとの温もりに飢えているわけではない。

 特に、ようやくさゆりに対して心の整理がついたところだ。

 あまり傷口をいじるようなことは避けたい。


「……それともおまえ、うわさは本当なのか?」

「は?」


 なんのことだ?

 そう思っていると、先輩が咳をした。

 周囲を警戒するように見回して、小声で告げる。


「おまえが、その、女には興味がないと一部の女子の間でうわさになっててな」

「…………」

「まあ、そんなわけないよな。うん」

「当たり前でしょう!」


 先輩は笑った。


「冗談だよ、冗談。まあ、その気がなくても少しは構ってやれよ。あの子、今日は用事があったらしいんだが、おまえが来るって聞いて無理に予定を空けて来たんだから」

「……それ、あまり聞きたくなかったです」


 そんなことを言われれば、邪険に扱うことなどできないではないか。

 こっちにその気はないのに、いったいどういう顔で接しろというのか。


 こんなことなら、家でクリスマスの世話でもしていたほうがマシだった。

 とはいえ、それもそれで進んでしたくはないのだが。


 まあ、今日は早めに帰ってやるか。

 あいつなら、あのクッキーも喜んで食ってくれるだろう。


 そう思いながら、頭に降ってきた桜の花びらを払った。

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