4月のチェリー
4月のチェリー(1)
日本の春といえば、桜と新生活.
そして花粉症だ。
かくいうおれも花粉症だ。
毎年、この時期になると気が滅入って仕方がない。
一か月前からやつの到来のために大量のマスクと薬を用意した。
先日の休みには新しい空気清浄機を買いに行った。
そうしてもなお、やつはおれを逃がしはしない。
どんなに残業が忙しい時期よりも、この時期の出社のほうが辛い。
が、今年の春はそれほど気が滅入ることはなかった。
「ただいまあ」
返事はない。
靴はあるので、クリスマスは帰っているだろう。
ダイニングの電気は消えていて、クリスマスの寝室から光が漏れている。
「入るぞー」
襖を開けると、クリスマスがベッドにうつぶせになっていた。
おれが帰ってきても、ぴくりとも動かない。
ちーん。
頭の中で葬式のお鈴の音が鳴った。
「おい、大丈夫か」
彼女は顔を上げた。
大きなマスクをしていて、頬も目も真っ赤になっている。
マスクで隠れているが、鼻の部分はもっとひどい。
「オジサン、こっち入ってこないで……」
彼女はかすれた声で言うと、クシュンクシュンとくしゃみを連発する。
「す、すまん」
慌てて襖を閉めた。
クリスマスは重度の花粉症だったらしい。
おれは薬を飲んでマスクをしていれば多少は耐えられるが、彼女はそれでもこんな状態だった。
空気清浄機は彼女専用になり、24時間ずっときれいな空気を送り続けている。
さすがに同居人がこんな状態では、自分が苦しんでいるわけにはいかない。
さて、夕飯はどうしようか。
この様子では期待することはできない。
おれひとりなら適当にビールとつまみで事足りるが、彼女はそうはいくまい。
とはいえ、あの状態でなにが食べられるのだろうか。
そう思って冷蔵を覗いていると、襖が少しだけ開いた。
「……オジサン、ごめん。今日は夕飯、用意してない」
「いいよ、いいよ。お粥ができたら持ってってやるから」
「ありがとー……」
おれは朝に炊いた白米を鍋に入れ、水を注いで火にかけた。
塩をぱらぱらと撒き、煮立つのを待つ。
「あ。そうだ。おい、聞こえるか?」
「なあにー?」
「次の土曜、おれは出かけるからな。もしかしたら、夜まで帰らんかもしれん」
一瞬の間があった。
「……お仕事?」
「まあ、そんなところだ。会社の花見があってな。去年までは花粉症だから断ってたけど、今年は先輩がどうしても来いってさ」
「……ふうん」
「飯は用意しとくから、勝手に食っとけ」
「…………」
返事がない。
不審に思いながら、出来上がったお粥を持って寝室の前に行く。
「おい、わかったか?」
「…………」
「もしかして寝たか? おい、開けるぞ」
「いらない」
「は?」
「ご飯、いらない」
襖を少し開けると、クリスマスが身体を起こしていた。
ふと目が合い、彼女はむっとした様子で歩み寄ってくる。
「もう、いらないったらいらない!」
そう言っておれの胸を押し返した。
盆を落とさないように、慌てて持ち直す。
おれを寝室から押し出すと、クシュンクシュンとくしゃみを連発していた。
いったい、なにを怒ってるんだ?
おれは眉を寄せながら、湯気の立つお粥を口に運んだ。
……しょっぱ。
―*―
次の土曜は、花見にはもってこいの暖かい日和となった。
昼前に支度を済ませると、マスクをつけて玄関で靴を履く。
「おい。じゃあ、行ってくるからな」
あれから二日。
寝室に籠って、ろくに顔も合わせないクリスマスに言葉をかける。
彼女の置きている気配はするが、やはり返事はなかった。
まあ、いい。
あの年頃の女はすぐにヒステリーを起こすからな。
甘いものでも買ってくれば機嫌も直すだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます