3月のスターチス(完結)
さゆりがおれを連れ出した理由はわかっている。
やはりコンビニなどに行くこともなく、彼女は部屋を出たところで切り出した。
「……あの子、なんなの?」
廊下のさっしに肘をのせ、胸ポケットから煙草を取り出した。
それに火を点け、紫煙を風に流す。
なに、と言われると説明に困る。
おれだって、まだ彼女のすべてを知っているわけじゃない。
「さあな」
おれが煙草をふかしながら答えると、彼女はむっとした。
「さあって、あなた無責任じゃないの?」
「仕方ねえだろ。実際、どこから来たのかも知らねえんだ」
そもそも、おれは彼女の本名すら知らないのだ。
まあ、そんなことを言ったら、さらにやかましく言われるのは目に見えているので黙っているが。
「警察に連絡するべきでしょ」
「今更なあ」
「今更って、あなた。まさか、本当にうしろめたいことがあるんじゃないでしょうね」
思わずさゆりを睨みつけていた。
「おまえ、本当にそう思ってるのか?」
他の人間になら、なにを言われても構わない。
しかし彼女にだけは、自分をそんな人間だと思っていてほしくはなかった。
それを未練だと言われれば、確かにそうかもしれない。
しかしどれだけ惨めだろうとも、そう思わずにはいられなかった。
さゆりは気まずそうに視線を逸らした。
「……ごめん。いまの、なし」
そのまま、妙な沈黙が降りる。
遠くでトラックがクラクションを鳴らす音が聞こえた。
それを聞いて、なぜか自分が腹が減っているのだと思いだした。
クリスマスがやってきたときも、こんな空腹感を覚えていた気がする。
「……あいつが声をかけてこなきゃ、おれはもうだめだったかもしれない」
「え?」
不思議そうに聞き返してくるさゆりの視線がむずかゆかった。
タバコを携帯灰皿に押し込んだ。
「べつに死ぬとかやけになるとか、そういうことを言ってるんじゃない。ただ、あいつがいたから、おれはおまえの言葉の意味に向き合えた。もしいなかったら、いまもおまえのことを憎んでたかもしれない」
そんなこと、クリスマスが考えていたとは思えない。
しかしそのことを教えてくれたのは、確かに彼女だった。
あいつの気が済むまで好きにさせてやるのが、せめてもの恩返しだった。
それを無責任と言われればその通りだが、それを盾に彼女の意志を無視するというのは自分の保身に他ならない。
「……おれは、本当におまえを見てなかったと思うよ」
さゆりはしばらく黙っていた。
「あなた、わたしにはあんな風に接したことないよね」
「あんな風?」
「あの子のお尻、蹴っ飛ばしたじゃない」
「……蹴られたいのか?」
まさかこいつ、そんな趣味があったのか?
「そういうんじゃなくて、なんて言うのかな。お茶の淹れ方を教えてあげたり、ああやって言い合ったり。わたし高校のころから、あなたに甘えたことなかったなって思ったの」
「……おまえは、なんでもひとりでできたからな」
「そうかもね」
彼女は小さくため息をついた。
「あの子の言う通りかもしれない。わたしも、あなたのことちゃんと見てなかった。もうちょっと信じてみれば、もっと違った感情もあったのかもしれないね」
そう言って、じっと見つめる。
おれはまるで金縛りにあったかのように、その目を見つめ返していた。
さっきまで聞こえていた車道の音が遠い。
ふたりの間に、妙な空気が漂っていた。
これには覚えがある。
まるで半年前――いや、まだおれたちがつき合いだして間もないころの、まだ初々しくむずかゆいような空気だった。
彼女も同じことを思っているのがわかる。
そしてそのことを、決して嫌がってはいない。
しかし、この手はどうしても動かなかった。
「……もう帰るね。今日は急に来てごめんなさい」
さゆりはそう言うと、アパートの階段を降りていった。
「お、おい。しおりはどうするんだ?」
彼女は踊り場で立ち止まると、こちらを振り返る。
「いい。あれはやっぱり、あなたが持ってて」
「いや、そういうわけには……」
「わたしがそうしてほしいの」
そう言って、彼女は優しく微笑んだ。
「捨てちゃだめよ」
おれはなにも言えずに、その背中が遠ざかっていくのを二階から見つめていた。
ふいに景色がゆがんだと思うと、頬に温かいものが流れていった。
「オジサン。いいの?」
どきりとして振り返ると、部屋のドアを少しだけ開いていた。
クリスマスがこちらを見ていた。
「な、なにがだよ」
「まだ好きなんでしょ。それに、あっちも後悔がないわけじゃなさそうだけど……」
すでにさゆりの背中は消えていた。
一度くらいは、振り返ってくれただろうか。
そんなことを考える自分の浅はかさに嫌気がさした。
「いいんだよ」
おれは確かに、あいつの言う通り、少しだけ他人を見てやれるようになった。
しかし、だからといってさゆりと関係を戻すことはできない。
戻してしまえば、きっとまた同じ過ちを繰り返すだろう。
おれたちはきっと、決して結ばれる運命ではなかった。
なぜだか、そう思うことに疑いがなかった。
乾ききって花も枯れた土にほんの少しの水を足したところで、再びその花が返り咲くことはない。
そのことが少しだけ寂しいような気もする。
しかし振り返ってはいけない。
おれたちはもう、あのころのおれたちではないのだから。
クリスマスはどこか寂しそうにおれを見ていたが、ふと思い出したように一枚のしおりを差し出した。
それは確かに、淡い紫の花が押してあった。
「どこにあった?」
彼女は気まずそうに答える。
「わたしが昨日、読んでた忍者漫画の一巻めに挟んであったの。いやあ。熱中しすぎてて、すっかり忘れてた」
「おまえなあ!」
「ぎゃあ! オジサン、怒んないでよ」
クリスマスが逃げるように階段を駆け下りていった。
「バレンタイン、遊ぼー」
「おい、こら! 片づけが先だろうが」
「オジサンが外に出とけって言ったんじゃん」
「屁理屈を言ってんじゃねえよ」
「アハハ。それよりわたし、お腹空いたあ」
ため息をつくと、黒猫を抱く彼女に言った。
「まあ、そうだな。たまには外で食うか」
「賛成ぇー」
並んで駅前のほうへと歩いていった。
暖かな春の風が吹いた。そろそろ、東京に桜が咲くころだろうと思った。
―*―
――それから一年後のことだった。
さゆりの両親がそのころに離婚したという話を、おれは彼女の結婚披露宴の席で聞いていた。
そのしおりは、彼女が幼いころに両親に贈られたものだったのだという。
スターチスの花言葉は、変わらぬ心。
おれはあのとき、彼女がなにを思ってそれを探していたのか。
なにを思って、おれにそのしおりを預けたのか。
それはもう、わからないことだった。
その披露宴の帰りのことだった。
参列者に混じって新婦に握手を交わしたとき、ふと彼女が聞いてきた。
「あの女の子、どうしてる?」
「クリスマスか? もういないよ」
もちろん、そんなことを一年前のおれは予想だにしなかった。
心のどこかで、彼女との暮らしがずっと続くものだと思っていたのだ。
あんなに歪な関係が、永遠に続くなどあり得ないのに。
――運命のクリスマスまで、あと9か月。
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