3月のスターチス(2)
呆然としたまま、じっと彼女を見つめていた。
幻だろうか。
いや、そんなはずはない。
それは確かにさゆりだった。
彼女は気まずそうに目を逸らしながら、無言で立ち尽くしている。
そのまま、とても長い時間が流れるような気がした。
いったい、なにをしに来たのだろうか。
まさかあのとき、別れを告げられたというのはおれの思い込みだった?
いや、そんな馬鹿は話があるはずはない。
あれが別れ話でなかったら、いったいなんなのだ。
ならばもしかして復縁を?
待て。そんな都合のいい話があるわけが……。
思考の迷宮に迷い込んだおれは、クリスマスが袖を引くので我に返った。
「ね、オジサン」
「な、なんだ?」
「座ってもらったら?」
そ、そうだ。確かに突っ立ってばかりではらちが明かない。
テーブルの前に場所を空けた。
少し前まではそれが普通だったのに、彼女がそこに座っていることが、やけに異質なものに見えていた。
キッチンのほうから、クリスマスが聞いてくる。
「お歳暮にオジサンの実家から送られてきたお茶と、いつも飲んでるペットボトルのお茶、どっちにする?」
「……どっちでもいい」
「じゃあ、いいお茶ね」
おれは改めて、さゆりを見た。
……きれいになったな。
素直にそう思った。
おれというストレスから解放されたためか。
それとも、おれが彼女のことをきちんと見ていなかったことが原因か。
それでもおれの記憶よりも、彼女はずっと生気に満ちているように思えた。
もう三か月が経つ。
新しい大切な人間はできたのだろうか。
彼女の幸せを願うのと同時に、その可能性を否定したい醜い自分がいた。
「その、なんだ。今日はなにを……」
「うわ、なにこれ!」
おれの言葉を遮ったのは、クリスマスの悲鳴だった。
おれは苛立ちながら立ち上がると、キッチンへ回り込んだ。
「どうした?」
「オジサン! お茶の葉っぱが大きくなった!」
見ると、湯呑に注がれた湯の中に、茶葉がそのまま浮いていた。
いまにも湯呑から溢れださんばかりの量だ。
まるで分量をわかっていない。
久しぶりに、この少女の常識のなさを思い出した。
……そういえば、茶の淹れ方は教えていなかったな。
「いいか。これはまず、急須に茶葉を入れてな」
「あぁ、なるほど」
「そして、まずは急須に湯をかけることで温度を……」
「え? その行程、一般家庭に必要?」
普通は大学時代は、ちょっとうまい茶にこだわるよな?
一通りの所作を教え、おれは自分で淹れた茶をさゆりに出した。
おれの前にあるのは、わかめのようにぎっしりと茶葉が詰まった湯呑だ。
こちらの会話を聞いていたのか、彼女は苦笑しながら言った。
「えっと、元気だった?」
「あ、あぁ。まあ、いつも通りだよ」
この会話はなんなのだろうか。
いや、仮に別れた元恋人と会うことがあれば、こういうやりとりをするのかもしれない。
いたって普通のことだ。
ただしその間に、見知らぬ女子高校生がいるという点を覗いては。
なぜかクリスマスは、おれの淹れた茶を持ってきて、当然のようにテーブルについた。
てっきりそのまま寝室に引っ込んでくれるかと思ったが、そういう気は利かないらしい。
「おい、おまえはどっか行ってろ」
「なんで?」
「なんでじゃねえ。小遣いでもなんでもやるから、おまえは外に出とけ。ほら、バレンタインが呼んでるぞ」
「やだ。今日は家で手伝いしろって言ったじゃん」
「てめえな、言うこと聞かねえと力づくで放り出すぞ」
「オジサンこそ覚悟してよね。わたしの火遁で燃やし尽くしちゃうから」
「口から火なんぞ出るわけねえだろ!」
おれたちが睨み合っていると、ふとさゆりが口を挟む。
「ねえ、聞いてもいい?」
「な、なんだ?」
「この子は? あなた、妹さんはいなかったよね」
さゆりとは高校のころからのつき合いだった。
うちの家族構成も知っているし、従妹や姪っ子がいないのも承知だった。
どう答えるべきか。
いや、なにもやましいことはない。
しかし世間的に言って、未婚の三十路前の男が未成年と同居しているというのは犯罪的だ。
クリスマスといた時間が長くなってきたせいで、そういう危機感がまるっきり抜け落ちていた。
うまく取り繕わなければ、このまま警察に突き出されることもあり得る。
というか、おれが彼女の立場なら迷わず通報しているだろう。
「わたしが家出してて、オジサンが匿ってくれてるの」
こいつ今日は飯抜きだ。
案の定、さゆりはテーブルを叩いて怒鳴った。
「あなたねえ!」
「ま、待て! 話を聞いてくれ!」
どうやって説明するべきか。
まずおまえがおれをフッたあと、こいつが家に泊まりたいと言ってきた。
追い払おうとしたが居座られて困っている。
彼女から500万円を預かっていて、その金はおれの口座に収まっている。
ちなみにこいつの洗濯物は毎日おれが干している。
あ。だめだ。詰んだ。
特に最後のがいけない。
仕方がないではないか。
こいつが進んで行う家事は料理くらいのものだった。
放っておいたら、洗濯も掃除もぜったいに自分でやろうとはしないのだ。
最初こそ、おれもそれを洗濯することはなかった。
しかし一週間もかけて脱衣所に洗わない下着が積み上がっていくなど、とうてい我慢できるものではない。
これはおれの衛生状態を維持するための処置なのだ。
とはいえ、そんな言い訳など、さゆりが聞いてくれるはずもない。
「なんで怒ってるの?」
絶望の底に突き落とされそうになっていると、ふとクリスマスが言った。
「だって、オジサンを捨てたのはあなたでしょ。オジサンがなにをしようが、もう関係ないよね」
さゆりが、かっとした様子で言い返した。
「わたしは、常識について言っているの!」
「ふうん。世間ではクリスマスの夜に話し合いもせずに一方的に相手を振るのが常識なんだね」
「こ、この子……」
ため息をついた。
「こいつ、おまえが行っちまったあとに声をかけてきたんだよ」
余計な火種を生んだのはクリスマスだが、彼女の言葉でいくぶんか冷静になれたような気がする。
「まあ、こいつの話はあとにしてくれ。それよりも、おまえはどうしてこんなところに来たんだ? おれの顔なんぞ、もう見たくもないだろう」
自分で言ってて悲しくなるが、さゆりもそれでようやく話を進める気になってくれたらしい。
彼女はため息をつくと、その理由を口にした。
「……忘れ物を探しに来たの」
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