3月のスターチス
3月のスターチス(1)
クリスマスがおれの部屋に居座って、早いもので三か月が経とうとしていた。
それだけ経つと、どうしても日常生活が窮屈に感じることがある。
独り身の部屋に、2人ぶんの私物があるのだから、それは狭くて当然だ。
おれの布団や、先月から飼い始めた猫のポータブルなど、けっこうな大物が連続で追加された。
部屋が勝手に広くなることはないのだから、そのぶんなにかを整理しなければならないのは当然だろう。
とはいえ、いまのおれにその時間はない。
今月は決算だ。
毎日、朝早くに出かけ、帰るのは日付が替わるころ。
とてもではないが、家の整理などしている余裕はない。
そこであの奇妙な同居人に、居候の義務を果たしてもらうことにした。
彼女は最近、学校が春休みに入ったらしい。
日がな一日、黒猫のバレンタインと遊んだりと怠惰な生活を送っている。
そんな彼女に、今日は部屋の整理を頼んだ。
いや、なにも難しいことではない。
クローゼットの本やゲームをすべて処分できるようにまとめておいてほしいと頼んだだけだ。
すべて学生時代に買ったものだが、就職してからは一度も読み返したりしたことはない。
これもいい機会だと思った。
「ただいまあ」
と、今日は返事がない。
いないのだろうか。
いや、靴はあるし、彼女は電気を消さずに出ていくタイプではない。
部屋に上がると、おれは寝室を覗いた。
「おい、飯は……」
見ると、クリスマスが目をつむり、ベッドの上で座禅を組んでいた。
その足の上に、ちょこんと黒猫のバレンタインが収まっている。
おれと目が合うと「ナァ」と鳴いた。
「……なにやってんだ?」
するとクリスマスが、ハッとして目を開けた。
「あれ。オジサン、もう帰ったの?」
「もうって、おまえ、こんな時間だぞ」
「あ。ほんとだ!」
彼女は慌てて寝室から飛び出した。
冷蔵庫を開けて、いそいそと夕食の準備を始める。
最近は、おれが遅い日は彼女がなにかしらつくっている習慣がついていた。
キッチンには、彼女のために買ったレシピ本が並んでいる。
「オジサン、ごめん! すぐ準備するから先にシャワー浴びてて」
「はいはい」
足にすり寄ってきたバレンタインの首根っこを掴み、窓からアパートの裏庭に放った。
スタッと着地すると、こちらに向かって「ナァ」と鳴く。
「明日、遊んでやるからなー」
声をかけると、バレンタインは寝床の犬小屋に入っていってしまった。
それを見届け、浴室に入って軽くシャワーを浴びた。
最近は暖かい日も増えて、湯船に浸かることも少なくなってきた。
簡単に済ませると、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
今日はかに玉をつくったらしい。
ビールのプルを起こそうとすると、テーブルの準備をしているクリスマスが文句を言った。
「あ。オジサン! 先にビール飲むのやめてよ」
「いつ飲もうが勝手だろ」
「オジサン、お酒飲むと感想が適当になるだもん」
食事の用意をしてくれるのはありがたいが、いちいち感想を求められるのが面倒くさい。
だいたい美食家でもあるまいし、食事を褒めるのに「うまい」以外のレパートリーがあるわけないのだ。
それでもとりあえず、ビールは後回しにする。
テーブルについて、白い湯気を立てるかに玉を口に運ぶ。
「うまい、うまい」
「ほんと?」
「まずいならまずいと言う」
彼女が満足したように笑ったので、おれはさっそくビールを開ける。
やはりこう蒸し暑い日は、飯よりもビールのほうを求めてしまうものだ。
「……そういえば、さっきはなにしてたんだ?」
聞くと、クリスマスが箸をこちらに向けて言った。
「忍法を使う練習してたの」
「はあ?」
あまりに予想外な言葉に、おれの顔が引きつる。
「忍者は体中を巡るチャクラを集中させて、口から火の玉を吹き出すんだよ」
「…………」
なにか腐ったものでも食べたのだろうか。
いや、うちの冷蔵庫にそんなものはない。
ふと、部屋がやたら散らかっているのに気づく。
具体的に言うなら、クローゼットに入れていた漫画が散らばっていたのだ。
……なるほど。
「おまえ、片づけサボって漫画読んでただろ」
クリスマスがぎくり、となる。
「お、オジサンが隠してるのが悪いんだよ!」
「隠してねえよ。まったく、片づけ頼んで散らかしてりゃ世話ねえな」
「うぐ……」
残りの食事をすべて平らげた。
腹が満たされると、一気に眠気が迫ってくる。
食器の片づけを済ますと、漫画を部屋の隅に寄せて布団を敷いた。
「明日はおれも休みだから、いっしょに片づけるぞ」
「えぇ! まだぜんぶ読んでない!」
「知るか。おまえもさっさと寝ろ」
クリスマスはぶーたれながら寝室に引っ込んでいった。
まったく、肝心なところでこれだ。
布団にもぐると、枕元に積まれた漫画を手に取った。
そういえば、あのころはあんなに夢中になってたのに、いまでは捨てることに少しのためらいもない。
これが大人になるということかもしれないが、少しだけ寂しいような気もした。
何気なく、寝る前にぱらぱらとめくる。
あぁ、そうだ、そうだ。
おれも最初は、この主人公のライバルキャラのほうが好きだった。
しかし昇格試験のあたりに出てきた新キャラが……あぁ、こんなシーンもあったな……、そういえば、あのキャラが出てくるのはいつだったか……。
―*―
翌朝、部屋の片づけをしていると、大きな欠伸が出た。
クリスマスが不審そうに眉を寄せる。
「……オジサン。顔色悪いよ?」
「そ、そうか?」
慌てて欠伸をかみ殺した。
いかん、いかん。
結局、朝方まで漫画を読んでいたなど、こいつに知られてはたまらない。
ぼんやりした意識のまま、ひたすらに漫画をビニール紐で括っていく。
「ねえ、このゲームも捨てるの?」
「あぁ。そこの段ボールにまとめておいてくれ」
売りに行ってもいいが、この近所に買い取ってくれるような店はない。
いいところの男に嫁いでいった姉に子どもができるまで置いててもいいが、そのころには古すぎて興味を持つこともないだろう。
子どもとは、得てして新しいもののほうが好きなものだ。
あぁ、しかし眠いな。もう今度の休みでもいいか。
そんなことを考えていると、ふと来客のチャイムが鳴った。
クリスマスがパタパタとスリッパを鳴らしながら玄関に向かった。
おれはそちらに背を向けて、黙々と漫画を縛っていく。
「はーい。……あっ。ど、どうも」
なんだ。もしかして知り合いか?
大家さんではないだろう。
先日、家賃は払ったばかりだ。
最近、クリスマスが仲良くなった階下のOLさんでもないだろう。
やがてクリスマスがダイニングに戻ってきた。
「ね、オジサン。お客さんだよ」
「あん?」
おれに?
いったい誰だろうか。そう思いながら、ゆっくりと振り返る。
眠気が吹き飛んだ。
そこに立っていたのは、あのクリスマス・イヴの夜、おれを捨てていったはずのさゆりだったのだ。
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