2月のバレンタイン(完結)
そうして翌日は、2月にしてはずいぶん暖かい日だった。
昼過ぎに、おれたちはアパートを出た。
大家さんに言われた一軒家は、歩いて15分ほどのところにあった。
昔ながらの平屋建てで、生け垣の向こうに縁側が見える。
そこに、ひとりの女性が座っていた。
もうずいぶん高齢のように思える。
この暖かな日差しに誘われたのか、こくりこくりと舟をこいでいた。
「あ。バレンタイン」
確かに彼女の膝の上に、あの黒猫がいた。
気持ちよさそうに丸まって、のん気にあくびなんかしている。
慌ててクリスマスの口をふさいだ。
「馬鹿。声を出すな。見るだけだって言っただろ!」
「オジサンのほうが声、大きいじゃん」
と、向こうでバレンタインが顔を上げた。
こちらを見ると「ナァ」と鳴いて女性の膝から飛び降りる。
そしてこちらに歩いてくると、生け垣の隙間から外に出てきてしまった。
「バレンタイン!」
クリスマスが感極まった様子で両手を広げる。
が、バレンタインは彼女を無視して通り過ぎると、おれの足にすり寄ってきた。
あまりのお約束ぶりに、さすがに笑いをこらえきれなかった。
「なんで! なんでオジサンにばっかり懐くの!?」
無欲だからじゃないだろうか。
まあ、口には出さないが。
「……あら。よしこ?」
生け垣の向こうから女性が言った。
どうやら起こしてしまったらしい。
バレンタインの首根っこを掴んで持ち上げる。
「よしこって、こいつですか?」
すると彼女はこちらに気づいた。
「あら。すみませんねえ。あなた方は?」
「えっと、昨日まで、こいつの面倒をみてたものですが」
「まあ。その節はどうも」
「すみません。こいつがどうしても様子を見に行きたいと駄々こねまして」
そう言って、クリスマスの頭を掴んで回す。
「あらあら。それはそれは。よかったら、お茶でも飲んでいかれませんか」
「え。いや、しかし……」
「遠慮しないでください。ご挨拶もお礼も、ちゃんとしておりませんでしたので」
「じゃあ、お言葉に甘えまして」
居間に通された。
先ほどまであんなに騒がしかったクリスマスは、それこそ借りてきた猫のようにおとなしくなってしまった。
しかしバレンタインは、おれの部屋でも好き勝手にやっていた気がする。
ことわざとはあてにならないものだと思った。
この女性は、名をひさ代さんといった。
彼女から出された茶を飲みながら、おれは仏壇の遺影を見る。
旦那さんらしき男性の写真があった。
「おひとりですか」
「えぇ。主人はもうずっと前に亡くなりましてねえ」
「すみません」
「いいのですよ。もう昔のことですもの」
ひさ代さんは茶をすすりながら、庭に目を向けた。
そこではバレンタインが、虫を追いかけながら跳ね回っていた。
「あの子、野良だったんですよ」
「へえ」
「いつの間にかこの庭に住み着きましてねえ。わたしもひとりだったから、いっしょに住むことにしたんです」
いっしょに住む、か。
その言葉に、彼女のバレンタインへの思いが表れているような気がした。
「でも、よかったわあ」
「えぇ。おれたちも、ちゃんと飼い主のところに戻って安心しました」
まあ、ここにひとり、そのことに文句を言う困ったちゃんもいるわけだが。
「いえ、そういうことではなくてね」
「はい?」
するとひさ代さんは、どこか寂しそうに言った。
「わたしも、もうあまりここにはいられないから。最後にあの子が帰ってきてくれて、本当によかった……」
おれは言葉を失ってしまった。
それは、そういう意味だろうか。
いや、失礼ではあるが、確かにいつそのときが来てもおかしくはない年齢だと思う。
クリスマスが首をかしげた。
「お婆ちゃん。どこか行くの?」
彼女は優しく微笑んだ。
「えぇ。遠いところに行かなきゃいけないの。その子はいっしょに連れてはいけないから」
そこでやっと、クリスマスもその言葉の意味に気づいた。
気まずそうに顔を逸らして、おれの袖を引っ張る。
妙な沈黙が降りた。
いつの間にか上がってきていたバレンタインが、クリスマスの手を舐める。
この猫が彼女に対して、そのような行動をするのは初めてのことだった。
その様子を見ながら、ひさ代さんが微笑んだ。
「ねえ。あなたたち。もしよかったら、この子のお世話をお願いできないかしら」
「え?」
「もちろん、あなたたちがよかったら、だけど」
クリスマスが、おれの顔を見た。
「……それは構いません。大家さんも、こいつに関しては好意的ですし」
ひさ代さんは、軽く頭を下げた。
「お願いね」
―*―
ひさ代さんがその家を引き払ったのは、一週間もしないうちのことだった。
おれはそのことを、仕事帰りに大家さんから聞いた。
すでにバレンタインはクリスマスが引き取ってきたのだという。
「息子さん夫婦のところに、ですか」
「えぇ。もうずいぶんお年を召してらっしゃったでしょう。ひとりで生活させるのは心配だからって、そっちのほうに移ったらしいのよう」
「なんだ。おれはてっきり……」
「てっきり?」
「い、いえ」
おれは口を閉じた。
まさかひとさまに対して最悪の事情を考えていたなど、口が裂けても言えない。
部屋に戻ると、クリスマスの悲鳴が聞こえた。
「オジサン! バレンタインがーっ!」
「ああん?」
寝室を覗くと、彼女のベッドをバレンタインが占拠していた。
「どうした」
「バレンタインといっしょに寝ようと思ったら、引っかかれたの!」
「おまえなあ。静かにしないと本当に窓から放るぞ」
ネクタイを外しながら冷蔵庫を開ける。
この前の休みに買い込むのを忘れていたので、大したものはなかった。
「というか、下の犬小屋に戻して来いよ」
「明日、また寒くて雪が降るかもしれないから、大家さんが部屋に入れてなさいって」
部屋の隅に、ポータブルのトイレが置いてあった。
もとは野良だったというが、こういう面のしつけはどうなっているのだろうか。
また粗相をされたらたまったものじゃない。
……まあ、いいか。
どうせ臭くなるのはクリスマスのベッドだ。
ありあわせのもので遅い夕食にありつく。
クリスマスはインスタントのみそ汁をかき混ぜながら言った。
「……今日、バレンタインを預かるときに、お婆ちゃんと少しだけお話ししたの」
「へえ」
「向こうのお孫さんがね、アレルギーがあるの。だから、バレンタインは連れていけないんだって」
「…………」
「お婆ちゃんね。本当は息子さん夫婦のところに行きたくないって言ってた。ここの生活に慣れてるし、バレンタインもいる。でも、自分はもう買い物もひとりでは辛いから、仕方ないって……」
クリスマスは箸を置いた。
「オジサン。どうしてひとは、こころを殺してまで、生きなくちゃいけないんだろうね」
「……さあな」
おれはみそ汁をすすりながら答えた。
少なからず驚いていた。
いつも能天気そうな彼女から、そんなことを言われるなど思ってもみなかったのだ。
そんなこと、おれは考えたこともない。
明確な答えなどあるはずはなかった。
おれは内心の動揺を悟られないように、ただ茶を濁すだけだった。
もしかしたら、おれよりも彼女のほうがずっと、ある種の経験を積んでいるのかもしれない。
おれの経験したことすべてを彼女が知らないのと同じで、おれも彼女のすべてを知っているわけではないのだ。
あの500万円といい、こんなところに居ついていることといい、つくづく謎な少女だと思った。
やがて食事を終え、おれたちは早々に寝ることにした。
しかし、なかなか寝つけそうになかった。
そんなとき、寝室の襖が開いた。
「オジサン。バレンタインがー……」
毛布を持ってソファに移動すると、彼女は自分の毛布を持ってきて布団に丸まる。
……この女、猫との生存競争に負けてきたらしい。
「オジサン。おやすみー」
彼女はそう言ったきり、すうすうと寝息を立て始めた。
その顔を眺めながら、おれはふとした疑問を感じる。
もしも――。
おれが大切な誰かといっしょにいられなくなったら、果たしてどうするだろうか。
バレンタインが飼い主のもとに戻ったとき、クリスマスに言ったように、諦めろと自分に言えるのだろうか。
やはり答えのない問題だ。
しかし現実は、なにかを選ばなくてはならない。
そのとき、おれは自分の意志を貫くことができるのだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、いつしか重たい睡魔に襲われていった。
翌朝、妙な重みに目が覚めた。
手を伸ばすと、毛並みのふわふわとした温かいものがあった。
視界がはっきりするにつれ、黒い物体が腹にのっているのに気づく。
金色の瞳が、じっとこちらを見つめていた。
こいつ、クリスマスのベッドで寝てたんじゃなかったのか?
あくびをしながら身体を起こす。
布団のほうを見ると、クリスマスがのそりと起き上がった。
ごしごしと目をこすりながら、こちらを見る。
「オジサン。おはよー……、って」
クリスマスはむっと唇を尖らせた。
「オジサン、バレンタインといっしょに寝るなんてずるい!」
「知るか! こいつが勝手にのって来たんだよ」
「なにそれ自慢!? 自慢するんだ!?」
「阿呆が。こんなの自慢になるか!」
バレンタインは呑気なもので、おれたちを眺めながら楽しげな様子で「ナァ」と鳴いた。
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