2月のバレンタイン(3)
このアパートに黒猫のバレンタインが住みついて、数日後のことだった。
「オジサン。遅刻、遅刻!」
クリスマスの大声に叩き起こされた。
ぼんやりした頭で携帯を探す。
時間を見ると、朝の七時を回ったところだった。
おれはまだ余裕があるが、彼女はギリギリだ。
クリスマスがばたばたと学校の支度を済ませ、靴下を履きながら玄関へ向かった。
「オジサン! バレンタインのご飯あげといて!」
「はあ!? おい、約束が違うだろうが!」
「お願いしまーす!」
こちらの言葉も聞かずに、バタンとドアを閉める。
あれだけ自分が面倒をみると豪語しておいて、ものの数日でこれだ。
がっくりとうなだれると、のそのそと布団から起き上がる。
「面倒くせえなあ」
キッチンの引き出しを開ける。
そこにはクリスマスが、バレンタインのために買ってきた大量の猫缶が収まっていた。
昨日はマグロだったから、今日はカツオのでいいか。
それを開けると、あくびをしながら部屋を出た。
階段を降りていき、裏庭の犬小屋を覗く。
金色の瞳がこちらを見上げると、足にすりすりと腹をこする。
「はいはい。ほら、お待ちかねの飯だぞ。まったく、おれがいなかったらどうするつもりだったんだよ」
小屋の前に猫缶を置くと、バレンタインは鼻先を突っ込んで咀嚼し始めた。
その様子をぼんやり眺めていると、うしろから女性の声がした。
「あら。今日はお兄さんが餌をあげているんですね」
「あ、おはようございます」
確か一階に住むOLだったか。
歳はおれと同じくらいで、たまに顔を合わせると挨拶をする程度の仲だった。
スーツ姿であるのを見るに、彼女もこれから出勤するのようだった。
「あいつ……、うちの妹のこと、ご存じなんですか?」
「えぇ。たまにここでお話するんですよ。昨日は猫ちゃんがお兄さんのほうに懐いてるって文句を言っていましたね」
そう言ってくすくすと笑う。
……あいつ、おれよりもこのアパートの住人に馴染んでやがる。
「すみません。迷惑でしょう」
「そんなことありませんよ。わたしもたまに食べ物あげてますから」
「そうなんですか?」
「上の階のトラックのおじさんも、朝方、帰ってきて煮干しとかあげてますよ」
「それ、酒のつまみですか?」
「みたいですね」
彼女はふんわり微笑んで、会社に行ってしまった。
おれも行くか。
空になった猫缶を拾うと、部屋に戻った。
振り返ると、バレンタインが「ナァ」と鳴いた。
―*―
その日、会社から帰ると、クリスマスの姿が見当たらなかった。
鞄も制服もある。
どうやら一度、帰ってはいるらしい。
サンダルがないところを見るに、コンビニにでも行ってるのだろうか。
そう思って夕飯の支度をしていると、やがて玄関が開いた。
クリスマスが帰ってきた。
しかし、その顔色は冴えない。
「お、オジサン……」
「どうした?」
「バレンタインがいないの」
「はあ?」
言われ、部屋を出る。
犬小屋を覗くと、確かにもぬけの空だった。
クリスマスが持ってきたのであろう猫缶が、手つかずで残っている。
どうしたのだろうか。
いつもはこの時間、この中に丸まっているのに。
「どうしよう。もしかして、事故にでも遭ったんじゃ……」
クリスマスが泣きそうな顔で袖を引く。
猫は気まぐれだが、自分の寝床はちゃんとわかっている。
確かにその可能性も捨てきれなかった。
「よし。とりあえず、あいつを拾ったってところ周辺を探して……」
と、走り出そうとしたときだった。
「あら。お帰りなさい」
大家さんが部屋から出てきた。
「あ。どうも」
「あの猫ちゃん。飼い主さんのところに帰ったわよう」
クリスマスが声を上げた。
「ど、どうして!?」
「今日のお昼にねえ、向こうの通りに住んでるお婆ちゃんが来てねえ。ずっと探してたらしいのよう。お世話してくれてどうもありがとうって言ってたわ」
おれはホッと胸をなでおろした。
とりあえず、事故に巻き込まれたわけではなく安心した。
しかし、クリスマスは未練たらしい様子でつぶやく。
「……そんなあ」
「もともと迷子だったんだ。諦めろ」
それからクリスマスは、一言も口を利かなかった。
食事ものどを通らないようで、せっかくの夕飯は明日の昼食に持ち越しとなる。
彼女はまるで世界の終わりだとでもいうような雰囲気で、寝室の隅で携帯をいじっていた。
たかが猫ごときに大袈裟な。
それに、世話もおれがほとんどしていたではないか。
そう思わないでもなかったが、さすがに口にはできなかった。
「明日、休みだろ。その飼い主とやらのところに行ってみるか?」
すると、クリスマスはパッと顔を輝かせた。
「行く!」
まったく、現金なものだ。
遠足気分で猫缶を鞄に入れて準備しているクリスマスを眺めながら、おれはため息をついた。
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