2月のバレンタイン(2)
……あぁ、首が痛い。
会社からの帰途、肩をぐるぐると回した。
昨夜、変な体勢で寝てしまったせいでずっと首が痛むのだ。
今日はこの時期にしては、はやい時間に退社できたのがうれしい。
シップでも貼ってさっさと寝よう。
「ただいまあ」
返事はない。
風呂場からシャワーの音がしていた。
このぶんだと、今日は夕食の準備はなさそうだ。
そう思いながら靴を脱いでいると、ふとダイニングから音がした。
「ナァ」
まさか……。
慌てて向かうと、ソファの上に昨夜の黒猫が丸まっていた。
「あれ。バレンタイン?」
風呂場のドアが開いて、クリスマスが髪を拭きながら出てきた。
おれに気づくと、ぎくりと身体を硬直させる。
「お、オジサン。今日、はやかったんだね……」
「おう。なにか弁解はあるか?」
「えっと、その……」
と、黒猫がソファから飛び降りた。
こちらに歩み寄ると、すりすりと身体を擦り寄せてきた。
「やめろ、毛がつくだろうが!」
黒猫を掴んで、ソファに放り投げる。
スタッと着地すると、そいつは再びこちらに寄ってきた。
おれを見上げて、ナァナァと鳴いている。
なんなのだ、こいつは!
「あぁ! オジサン、ずるい!」
「はあ?」
「バレンタイン、わたしには懐かないのに!」
バレンタイン?
「おまえなあ。また拾ってきただけじゃなく、まさか名前までつけたんじゃないだろうな」
「悪い?」
なんと開き直った。
おれはその頭を両手で掴むと、ぐわんぐわんと揺する。
「そもそも、拾ってくるなと言ってんだろうが!」
「だ、だってえ! また昨日のところで鳴いてたんだもん」
「だったら、警察に連絡するなり別の方法があるだろうが!」
「わたし、いま家出してるじゃん!」
手を止める。
まあ、確かにそうか。
「って、それと拾ってくるのとは別問題だろうが!」
「あ痛たた! もう、オジサン! やめてよ!」
ふいにチャイムが鳴った。
おれはクリスマスの頭を解放すると、慌てて玄関に向かった。
ドアスコープから覗くと、一階に住んでいる大家さんが立っていた。
慌ててクリスマスに手を振る。
彼女はうなずくと、黒猫を捕まえて寝室に引っ込んでいった。
コホン、と咳をしてドアを開ける。
「……はい」
「こんばんは」
大家さんはにっこりと微笑んであいさつした。
60過ぎの優しい顔つきのおばちゃんだ。
10年ほど前に旦那さんと死に別れて以来、ひとりでこのアパートを経営している。
「どうも。こんな時間に、どうしました?」
「えぇ、えぇ。あのねえ、お隣さんとか下の階のひとから、昨日からうるさいってお話があってねえ」
「す、すみません!」
思い起こせば、昨日はあの黒猫を巡ってどたどたと暴れていたような気がする。
「妹さんと仲がいいのはわかるけど、あまり騒がないようにお願いねえ」
「は、はあ。気をつけます」
最初の日以来、クリスマスはおれの妹として認識されているのだ。
どうやら、猫のことは気づかれていないらしい。
とりあえず安心すると、ダイニングへ戻る。
「おい。少し静かに……、なにやってんだ?」
クリスマスが両手を広げ、じりじりと黒猫ににじり寄っている。
対して猫のほうは、ベッドの上に立って彼女を威嚇していた。
「バレンタインが言うこと聞かないの!」
「だから、名前をつけるなと言ってるだろうが……」
うんざりしていると、再び黒猫が寄ってきて足に腹を擦りつけようとする。
そのぎりぎりで首根っこを掴むと、昨日と同じように窓から放った。
黒猫は華麗に着地すると、こちらを見上げて「ナァ」と鳴く。
「オジサン、それやめてってば!」
うしろで文句を言うクリスマスを無視しながら、窓からその黒猫に呼びかける。
「もう来るなよー」
その言葉がわかっているのかいないのか。
黒猫は再び鳴いて夜の町へと溶け込んで行ってしまった。
―*―
翌日のことだった。
おれがいつものようにアパートに帰ってくると、なぜかクリスマスが裏庭のほうでうずくまっている。
「なにやってんだ?」
すると彼女はぎょっとした様子で振り返った。
「お、オジサン! こっち来ちゃだめ!」
「はあ?」
すると、裏庭からあの猫の鳴き声がした。
覗き込むと黒猫がいた。その前にはキャットフードの盛られた皿が置いてある。
黒猫はおれに気づくと、また足に腹をこすりつけようと近寄ってくる。
寸でのところで首を掴んで持ち上げると、そいつは呑気に「ナァ」と鳴いた。
「……おまえ、性懲りもなく」
「ち、違うんだって! これは……」
彼女が弁解しようとしていると、一階の大家さんの部屋のドアが開いた。
慌てて猫を身体のうしろに隠そうとするが、彼女の手にあるものを見て思いとどまる。
それはミルクを溜めた皿だった。
とてもではないが、ひとに飲ませる様子ではない。
「あら。お帰りかしら?」
「どうも。あの、その皿って……」
「えぇ、えぇ。その猫ちゃんに飲ませるものよう」
おれは顔をしかめた。
「さっき、そこの道で妹さんがこの猫と遊んでいるのを見てねえ。事情を聞いたら、迷子だって言うじゃない。それなら、裏庭で飼っていいわよって」
「え。いいんですか?」
よくよく見れば、裏庭に古びた犬小屋のようなものが置かれている。
その中に猫の寝床がつくられていた。
このアパートはペット禁止のはずだが……。
「わたしも本当は動物を飼いたいんだけどねえ。ほら、そうするといろいろと大変じゃない? わたしも歳だし、掃除とか大変なのよう。でも、妹さんがちゃんと面倒見るって言うから」
見れば、クリスマスが勝ち誇った笑みを浮かべていた。
黒猫に手を伸ばして、ぷいっとそっぽを向かれる。
どうやら、愛情をかけてもそれを恩と感じるかは別問題らしい。
黒猫がおれの手をペロペロと舐めた。
それを見ながら、クリスマスが頬を膨らませる。
「……納得いかない」
「知るか」
黒猫をおろすと、そいつは慣れた様子で寝床に入っていき身体を丸めてしまった。のん気にあくびなどしている。
クリスマスが面倒をみるというなら、無理に反対する必要もないだろう。
そのうち、迷い猫の情報でも探してみようと思う。
しかし数日も経たないうち、状況は変わった。
黒猫のバレンタインは、もうこの寝床に戻ることはなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます