2月のバレンタイン

2月のバレンタイン(1)


 ……面倒くさい。


 おれは仕事の帰り、アパートへの道すがらに思っていた。

 鞄のほかに、手には紙袋がさげてある。

 中からは甘ったるい匂いがぷうんと漂っていた。


 2月14日。

 バレンタインデーのチョコだ。


 こんなに大量のチョコ、いったいどうしろというのだ。

 好きでもないものを贈られて「日頃の感謝の気持ちです。あ。お返しは3倍で」など、ずいぶんと乱暴な理屈だ。

 というか、女のほうも面倒くさいなら贈らなければいいのに。


 まあいい。

 いま、我が家には育ち盛りの女子高校生が同居している。

 きっとこの程度の甘味など、ぺろりと平らげてしまうだろう。


「ただいまあ」


 この言葉も、ずいぶんと小慣れてきたものだ。

 そういえば、さゆりにそんな言葉をかけたことなど、10年間に一度でもあっただろうか。


「おかえりー」


 奥からクリスマスの声がする。

 パタパタとスリッパの音がして、彼女がリビングから顔を出す。


「オジサン。最近、遅いね」

「来月は決算だからな。飯は?」

「まだ食べてないよ」


 おれは眉を寄せた。

 時計を見ると、もうそろそろ日付が替わろうという時間だ。

 帰りが遅くなるのはすでにメールで知らせていたはずだが。


「じゃあ、なにかコンビニで買ってくるか」

「うぅん。ご飯は用意してあるよ」

「なに?」


 リビングに入ると、テーブルに夕食が用意してあった。

 ご飯とみそ汁、そして目玉焼きとウインナーをフライパンで焼いただけ。


「おまえがつくったのか?」

「うん。オジサンと食べようと思って待ってた」

「へえ」


 心なしか、部屋も片付いているような気がする。

 いつもは脱ぎ散らかした靴下などをおれが洗濯機に入れるのだが、それもきちんとやっていた。


 ネクタイを解きながらテーブルにつく。

 クリスマスがいそいそとコップに茶を注いだ。

 おれたちは手を合わせて食事を始めた。


 ……うん、普通だ。まずくないだけマシといえる。


「おまえが用意するなんて珍しいな」

「でしょ」


 言いながら、みそ汁に入った油揚げを箸でつまむ。

 端っこのくっついた油揚げがだらだらとすくい取られた。


 クリスマスを見ると、彼女はそっと目を逸らす。


「で、なにが目的だ?」


 ぎくり、とクリスマスが肩を強張らせた。


「や、やだなあ。オジサン。日頃の感謝の気持ちだよ」


 ……日頃の感謝、ねえ。


 会社で耳にタコができるほど聞かされた言葉だ。

 この少女がそんな殊勝な心を持っていないことなど、おれはちゃんと知っている。


 小遣いだろうか。

 いや、そんなものをせびられたことはない。

 ならば、なにかしらやましいことがあるに違いなかった。


「あれ。この紙袋なに?」


 そこでクリスマスがチョコの紙袋に気づいた。


「わ。たくさんある!」

「あぁ、ぜんぶ食っていいぞ。食いきらんなら、明日にでも学校に持ってけ」

「え。いいの?」

「おれは甘いものは好かん」

「やった」


 そう言って、食事も終わっていないのに次々とチョコをテーブルに並べていく。


「これ、バレンタインでしょ? オジサン、けっこうモテるんだねえ」

「んなわけあるか。ぜんぶ会社の義理チョコだよ」

「えー。でも、これとかこれ。けっこう気合入ってない?」


 そのひとつを開けると、クリスマスは生チョコレートを備えつけのピックに刺して差し出してきた。


「はい。あーん」


 おれはそれを指でつまんで奪うと、彼女の口へと突っ込んだ。


「むがっ」

「だから好かんと言ってるだろ」


 彼女はぺろりと指を舐めた。


「ひとつくらい食べようよ。もしかしたら本命かもよ」

「だとしたら余計にいらん」

「もう。強情だなあ」


 ……強情か。

 おれはふと、夕方に先輩と交わした会話を思い出していた。


『――こりゃまたすごい量だな』

『えぇ。なんか清掃のおばちゃんたちもくれたもので』

『本命っぽいのもあるじゃないの』

『いや、そういうのはちょっと……』

『おまえなあ。交際期間が長かったんだし、引きずんなってのが無理かもしれないけどな。まだ若いんだから気軽に声でもかけてみなって。意外といい結果につながるもんだぞ』

『そういう気にはなれないんですよ』

『ハア。おまえも強情なやつだねえ』

『自覚してますよ。まあ、それに……』

『それに?』

『いまは子どもの世話で手いっぱいなもので……』


 先輩は苦笑した。


『案外、その家出少女ってのがいい薬になってるのかもな』


 薬は薬でも劇薬だ。

 多用すると死んでしまう。


 そんなことを考えているとき、おれはその臭いに気がついた。


「ん……?」


 寝室のほうを見る。


「なにか臭わないか?」

「え?」


 これは知っている。

 というか、日常的なものだ。

 しかしこのダイニングという場所においては、あまり好ましくないものだ。


 教科書の言葉を使うなら、これはアンモニア臭だった。

 クリスマスもそれに気づいた。


「やばっ!」


 彼女は顔色を変えて、寝室への襖を開けた。

 むわっとした悪臭が漂ってくる。

 それと同時に、寝室の暗闇に一対の金色の瞳が動いた。


「……ナァ」


 ナァ?


 クリスマスが寝室に駆け込むと、なにかを拾い上げた。


「こら。勝手におしっこしちゃだめでしょ!」


 うしろから覗き込んで、おれはすべてを理解した。

 彼女の腕に抱きかかえられているのは、真っ黒い猫だったのだ。

 見れば、部屋の壁にマーキングのあとがあった。

 できたてほやほやだ。


 悪臭の原因はこれだった。

 クリスマスは汗をだらだら流しながら弁解する。


「お、お、オジサン。これは、えっと……」


 おれは大きなため息をついた。どうりで今日は夕飯を用意したり部屋を掃除したりと媚びを売ってきたはずだ。

 大方、どこからか拾ってきたのだろう。


「……元の場所に戻して来い」

「や、やだ」

「いいから捨ててこい!」

「やだー!」


 クリスマスは黒猫を抱きしめて離そうとしない。


「おれは動物が嫌いなんだよ! それに、ここはペット禁止だ!」

「オジサン、一生のお願いだからーっ!」

「そもそもそいつ、首輪してるじゃねえか!」

「だって、ずっとそこの道路にいるんだもん。きっと道に迷ったんだよ!」

「それでもうちで飼ってやる義理はねえよ!」


 ええい、らちが明かない。

 黒猫の首を掴むと、窓を開けてぽいっと放り出した。


「ぎゃあ――っ! オジサン、なにすんの!」


 クリスマスが悲鳴を上げて、窓から下を覗きこんだ。

 この部屋はベランダがないため、下はアパートの裏庭が見えるのだ。


 黒猫は軽々と着地して、ナァと鳴いて道路のほうへと歩いていった。


「あ、生きてる……」


 クリスマスはホッと胸をなでおろすと、こちらを睨んだ。


「もう、オジサン!」

「うるせえなあ。歳食ったやつじゃあるまいし、この程度で怪我するわけねえだろ」


 洗面所から雑巾をとってきて、彼女に差し出した。


「おら」

「え?」

「え、じゃねえよ。そのしょんべん、ちゃんと掃除しろ」


 あからさまに嫌そうな顔になる。


「……オジサンの言うことなんて聞かないもん」


 そう言って、そっぽを向いてしまった。


「おまえがその臭いの中で寝るって言うんなら、別にいいけどな」

「うっ」


 クリスマスはしぶしぶと雑巾を受け取ると、悲しそうな雰囲気で掃除を始めた。


 しかし、壁に染みついた猫のマーキングがそう簡単に消えるわけもなく……。


 その深夜。

 おれが寝ようと電気を消すと、ふとクリスマスが襖を開けた。


「ねえ、今日だけ寝るとこ変えよー……」

「あほか。自業自得だろ」


 買ったばかりの布団に潜り込むと、さっさと目をつむった。

 しかし幸か不幸か、余計な運動をしたせいでぐっすり眠れそうだった。


 カチ、カチ、と時計の秒針がやけに耳障りだった。

 寝室のほうから、もぞもぞとクリスマスの動く気配がする。

 どうやら、臭いを感じずに眠る体勢をいろいろ試みているらしい。


「……あぁ、くそ」


 これではこっちが気になって眠れないではないか。

 おれは布団から出ると、襖を開けた。


「こっち来い」

「いいの!?」


 彼女はバッと起き上がると、毛布を持って出てきた。


 現金なものだ。

 おれは自分の毛布を抱えると、ソファに横たわった。


「あれ。いっしょに寝るんじゃないの?」

「馬鹿なこと言ってると、おまえも窓から放るぞ」

「じょ、冗談だってば!」


 クリスマスは慌てて布団の上で毛布に丸まった。


「……オジサンの匂いがする」

「加齢臭とか言ったら明日から飯抜きな」

「そんなこと言ってないじゃん」


 それきり彼女は口を閉ざした。

 耳をすませば規則正しい寝息が聞こえ、毛布が呼吸に合わせて上下していた。


 ……結局、こうなるのか。


 おれは背中にソファの固さを感じながら目を閉じた。

 どこか遠くから、猫の鳴き声が聞こえたような気がした。










※よいこは真似せず生き物は大切にね!



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