1月のリゾット
1月のリゾット
「おーい。オジサン。朝だよ、朝」
そんな声で起こされる。
ぼんやりと目を開けると、眼前には黒髪の少女がいた。
こちらを覗き込みながら、大きな目をぱちくりとさせる。
「……いま、何時だ?」
「もう7時を回ったとこだよ。わたし、もう行くからね」
「あぁ、わかった」
しんとした静寂がダイニングに戻ってきた。
うっとりとした眠気が、潮のように押し寄せてくる。
「ねえ、オジサンってば!」
バサバサと毛布を叩かれる。
足音がしないと思っていたが、まだここにいたようだ。
「なんだよ!」
「また寝る気だったでしょ!」
「悪いか!」
「悪いよ! 今日もお仕事でしょ」
残念ながら彼女のほうが正論だった。
確かにこのまま寝てしまえば起きれる気がしない。
おれは舌打ちして、身体をソファから起こした。
毛布を丸めて、枕といっしょに部屋の隅に放り投げる。
「ほら、これでいいだろ?」
彼女は疑わしげなまなざしを見せたあと、小さくため息をついた。
「いってきまーす」
「あ。朝飯は?」
「コンビニで適当に買うー」
そうして、バタン、とドアが閉まった。
「……いや、おれの朝飯の話なんだが」
まあ、いい。
今日はおれも会社の近くで買って行こう。
そう思って、バスルームへ向かった。
シェービングクリームのスプレーをシャカシャカ振りながら、鏡に映る自分の顔をまじまじと見る。
ひどい顔だった。
目の下にはクマができているし、肌は青白い。
最近、寝つきが悪いのだ。
身体は疲れているはずなのに、どうにも目が冴えていた。
夜に寝ようとすると、さゆりとの思い出が脳裏をちらついてしまう。
年が明けても、まったく気持ちは切り替わらなかった。
失恋したときは、とにかく仕事をするといいと会社の先輩が言っていた。
そのときは不健全だと思っていたが、確かにその通りかもしれない。
飯をつくったり。
掃除をしたり。
気晴らしに遊びに出かけたり。
それらはどうもいけない。
やる気が起きないのだ。
しかし日々の仕事だけは向こうから勝手にやってくる。
そのくせ、成績がよくなるかと言えば微妙なところなのが悩ましい。
こころが不健康なのだから、給料くらいは多く欲しいものだ。
―*―
会社近くの定食屋で席に着くと、向かいの先輩が言ってきた。
「おまえ、大丈夫なのか?」
「……そんなにひどいですか?」
「ひどい。というか、やばい。部署の女の子たち、みんなおまえの顔を見てるぞ」
「モテモテですみません」
先輩はうんざりしたように腕を組んだ。
「おまえがそんな冗談言い出すなんて、そうとうきてるな」
苦笑しながら、店員に焼きサバ定食を注文する。
先輩はかつ丼大盛りだった。
おれよりも年上だが、胃袋は断然あっちが若いらしい。
「年末の、まだ引きずってるのか?」
「まあ、そうみたいで」
「はあ。おまえは神経が図太いと思ってたが、案外、女々しいのなあ」
「……自分でも驚いています」
そうだ。
こんなにも未練があるなど、最初は思いもしなかった。
それがまた、この気持ちを落とす要因だった。
「で、例の家出少女はどうなんだ?」
「まだいますよ」
「……おまえ、変な事件に巻き込まれてからじゃ遅いんだからな」
それはわかっている。
しかし、あの夜の彼女の必死な様子に、自分は圧倒されてしまった。
警察に連絡するにせよ、追い出すにせよ、彼女が事情を話してくれてからだと思っていた。
あれから行方不明者の情報などをネットで探すことがあった。
しかし彼女らしい情報はどこにもない。
女子高校生が関わっていそうな事件などの話も聞かない。
それに、なにより……。
「学校だけは、ちゃんと行くんですよねえ」
「どこだ?」
「制服は、あの、ほら……」
かいつまんで説明すると、先輩は目を丸くした。
「……それ、けっこうなお嬢さま学校だろ」
「まあ、実際に行ってるのかは知りませんけど」
「まあ、おまえは悪いやつじゃないし、特にどうこうしろって言うつもりはない。ただ、何度も言ってるけどな……」
「わかってますよ。相手は子どもです」
「なら、いいけどな」
そこで店員が定食を持ってきた。
おれたちは話をやめると、午後からの仕事へと話を切り替えた。
―*―
あのクリスマスを名乗る変な少女がアパートに住み着いて、早いもので一か月近くが経った。
もしかしたらすぐに出ていくかもしれないという淡い願望を見事に裏切って、彼女は日に日に我が家に馴染んでいった。
いまではおれの使っていたベッドを彼女に貸し、おれはダイニングで寝るのが定着している。
もしかすると、寝れていない原因はそれもあるのかもしれない。
そのうち、布団を買いに行くことにしよう。
帰宅の電車の中で携帯が震えた。
メールだ。送り主は同居人だった。
『夕飯はうちで食べるの?』
『そうするつもりだ』
『わかったー』
そんな会話を交わすが、彼女が食事をつくっているなんてことはない。
あの少女は驚くほどに生活能力が低かった。
料理はできないし、衣服も脱ぎ散らかしたまま。
掃除に関しては、なんと掃除機すら使ったことがない始末。
いつもおれが疲れて帰って料理をするのを、椅子に座って脚をぶらぶらさせながら眺めているだけだった。
本当に、何者なんだろうなあ。
そう思いながら、アパートのドアを開ける。
すると、ダイニングからぱたぱたと足音が聞こえてきた。
クリスマスだ。
彼女は珍しく慌てた様子だった。
「オジサン、大変!」
「ど、どうした?」
「ご飯をつくる機械が壊れた!」
「はあ?」
「はやく、はやく!」
「ちょ、待て! おれはまだ靴を脱いでないんだよ」
袖を引っ張られながら、慌ててキッチンへ向かう。
言われた通り、炊飯器を開けた。
ほんのりと焦げた匂いがして、そこには炊く前の生米が……、いや、これは生米じゃない?
触ってみると温かい。
そして、底のほうが少し焦げている。
「……おまえ、ちゃんと水入れた?」
「なんで?」
そうきたかあ。
おれは鈍い頭痛を感じ、眉間にしわを寄せた。
まさかこの女、生米を炊飯器に入れてそのままスイッチを押したらしい。
話には聞いたことがあるが、まさか本当にやる人間がいるとは思わなかった。
「……もう一度、洗って炊いてみるか?」
触った感じ、やれそうもないこともない。
しかし、うまいかどうかは話が別だ。
仕事で疲れて帰ってきて、飯もまずいとか目も当てられない。
「……どうして、米を炊こうとしたんだ?」
聞くと、彼女は気まずそうに答えた。
「オジサン、疲れてるみたいだから」
おれはその言葉に、ふと鈍器で殴られるような気がした。
――あぁ、そうか。
おれは自分のことばかりで、他人を思いやることを久しく忘れていた。
思えば最近、いや、社会に出てからというもの、さゆりのことを見てあげたことがあるだろうか。
ただ機械的に、クリスマスだから、誕生日だから、そのたびに会って、ただ形式的に流行りの贈り物をして、食事にエスコートする。
そこに、おれの心はあったのか。
本当に彼女のためを思った行動が、あったのだろうか。
――もう、あなたに愛情を感じないの。
「お、オジサン……?」
クリスマスが、困惑したように声をかける。
気がつけば、さめざめと涙が流れていた。
「……いや、なんでもない」
おれは涙を拭うと、わざと明るい声を出した。
「これ、捨てるのはもったいないよな。水を多めにして、リゾットにでもしようか」
まな板と包丁を用意しながら、ふとクリスマスに顔を向ける。
「……たまには、いっしょにつくるか?」
すると、彼女はパッと顔を輝かせた。
「やる!」
やはりクリスマスは、包丁も使ったことがない様子だった。
おっかなびっくりと玉ねぎを刻む彼女が怪我をしないように、いっしょに手を添えてやる。
ゆっくりと玉ねぎを刻みながら、前に立つ彼女に話しかけた。
「……明日から、朝飯はつくるから。ちゃんと家で食ってけよ」
彼女は振り返ると、にこりと微笑んだ。
「うん!」
おれはその顔を見て、思わず笑ってしまった。
「おまえ、なんで泣いてんの?」
「だ、だって、これ、目にしみる……」
リゾットができ上がったのは、もう日付も変わってからだった。
食事のあと、会社であったことを聞かれた。
それについて話していると、だんだんと夜も更けていった。
テーブルに突っ伏して眠ってしまった彼女を抱きかかえ、ベッドに寝かせる。
どこから来たとか、どういう秘密を持っているとか、どうでもいい。
そう思うと、今日はよく眠れそうな気がした。
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