12月のクリスマス(後編)
翌朝に目が覚めると、少女の姿はすでになかった。
結局、礼のひとつもなかった。
まあ、出ていってくれただけよしとするか。
おれはいつものように準備を済ませて会社に向かった。
世間的にはクリスマスの当日だが、会社員にとってはただの平日でしかない。
晴れて独り身になったおれにとってはなおさらだ。
足が重かった。
あの少女のせいで感傷に浸る暇もなかったが、こうして改めて考えると、やはりおれはさゆりのことを本気で愛していたらしい。
それなのに、彼女はあんな言葉を残して去っていった。
会社でパソコンに向かっていると、向かい側のデスクの先輩が手を振った。
これは「タバコに行こう」のサインだった。
ちらと主任のデスクを見る。
どうやら大丈夫そうだ。
喫煙室に入ると、彼は開口一番に言った。
「なんか元気ねえなあ」
じろじろとおれを見回す。
「そんなに昨晩は絞られたか?」
「いやあ、ちょっと予想外のことが」
「どうした、フラれたか?」
グサッと胸に刺さった。
「え、図星か?」
「まあ、はい」
「すまん」
「いえ……」
その通りなのだから仕方がない。
「じゃあ、あれだ。おまえも大変だったな」
「まあ、大変といえば大変ですが」
「どういう意味だ?」
「えっと……」
このひとなら、他に口外することもないだろう。
それに、話せば少しは気も晴れるかもしれない。
おれは昨夜の出来事を、かいつまんで話した。
「おまえ、未成年はさすがにいかんよ」
「手は出しちゃいませんよ」
「ほんとに?」
「なんか、訳ありっぽかったので。巻き込まれたらやだなあって」
そういう意味では、確かにあの少女の存在はありがたかったかもしれない。
むしゃくしゃしていたのは本当のことだ。
あれがもし、金目当ての女だったなら、おれは迷わずに買っていた可能性もある。
彼女の奇妙な言動が、自分を多少は冷静にさせた。
そのおかげで感傷に浸る間もなかったのは事実だった。
「今日、仕事のあとでどうだ」
「いえ、お気持ちはありがたいですが、まだ仕事が残ってるので」
「そうか。まあ、仕事してたほうが気も紛れるかもな。もうちょっとで新年だ。そうすれば、少しは気持ちも切り替わるだろ」
そうだ。いつまでもいじけている暇はない。
おれはもう、大人なのだ。
自分の問題は、自分で乗り越えていかなければならない。
―*―
アパートに戻ったころには日付が変わろうとしていた。
通りから部屋を見上げて目を疑った。
窓が明かりで煌々としているのだ。
消し忘れかと思ったがそうではない。
窓の向こうに、人影を見たのだ。
それも女だった。
……もしかして、さゆりが?
にわかに胸が高鳴った。
おれは自然と早足になった。
階段で足がもつれ、転びそうになる。
部屋の前にたどり着くと、息を整える間もなくノブを回した。
おれは目の前の光景に、目が回るようだった。
そこには確かに女がいた。
しかしそれはさゆりではない。
あの家出の少女だった。
昨夜と同じように、ソファで携帯をいじっている。
彼女はおれを見ると、気まずそうに目を逸らした。
おれは脱力した。
靴を乱暴に脱ぎ捨て、ダイニングに入る。
「出てけって言わなかったっけ?」
「言った。だから出てった。そして帰ってきた」
「鍵は?」
「一階の大家さんにお願いした。妹ですって言ったら、あっさり信じたよ」
「そっかー。これはオジサン、一本取られちゃったなー」
おれは手のひらを広げ、少女の脳天にチョップをかました。
「痛い!」
「屁理屈こねてんじゃねえぞ餓鬼が!!」
彼女の鞄を戸外に放り出そうと、玄関へ歩いていく。
「いますぐ出ていけ」
「ま、待って! 今夜まで、今夜までお願い!」
少女は腕にすがってきた。
その必死な様子に、おれは立ち止まった。
鞄を突き返す。
大きくため息をついて、頭をかきむしった。
「どうして、おれだよ。もっと都合のよさそうなのがいるだろ」
正直、いまは自分のことで手いっぱいだ。
他人の面倒まで見ていられない。
少女は無言だった。
よほど言いたくない事情でもあるのか。
しかし、それこそ言ってもらわなければ、こっちだって困る。
「……本当に、今夜までだからな」
少女はうなずいた。
―*―
深夜にふと、目を覚ました。
ひどく喉が痛い。
この真冬に、コートだけを羽織って寝ているのだ。
暖房を利かせているとはいえ、さすがにこの歳でこれは堪える。
襖で仕切られた寝室を覗いた。
あの少女にはおれのベッドを使わせている。
明日には出ていってもらわなければいけない。
体調を崩されたら大変だ。
その無防備な寝顔を見下ろす。
こうして見ると、とても可愛らしい顔をしていた。
先輩にはああ言ったが、邪な思いが全くないと言えばうそになる。
そう思うと、急に気持ち悪い衝動に突き動かされるような気がした。
慌てて手の甲をつねる。
あまりの痛みに、思わず声を上げそうになった。
抱けりゃ誰でもいいなんて、どうかしてる。
おれは頭を振ると、そのままソファに横になった。
その夜は、どうにも寝つける気がしなかった。
―*―
翌朝のことだった。
おれはベッドに腰かけ、がっくりとうなだれた。
「おまえ、なんでだよ……」
「……ごめんなさい」
少女は申し訳なさそうに毛布で顔を隠した。
手に持つ体温計は『38.4℃』と表示されている。
おれの体温ではない。
この少女のものだ。
今朝がた、いつまでも起きてこないと思ったら、赤い顔で呻いていたのだ。
どうしておれが元気なままで、ぬくぬくとベッドで眠っていたこいつが風邪をひくんだ。
「あの、今日、ちゃんと出てくから」
彼女の額に、買い置きしていた冷えピタを貼りつけた。
「治るまでいていいから」
「え?」
「どうせ、行くところがないんだろ」
「……うん」
自分の鞄を手に取った。
いまから出たら、出社時間ぎりぎりだ。
まあ、それはいい。
今日が今年度最後の仕事だ。
それほど仕事が残っているわけではない。
「テーブルにおにぎり置いてるから、腹減ったら食えよ」
寝室を出るときに振り返った。
少女は小さくうなずいて、再びベッドに顔を隠した。
……これは優しさじゃない。罪悪感だ。
よく見れば、昨夜に気づけたはずだ。
おれが妙な気を起こして狼狽えていたせいで、ここまでひどくなったのだ。
ならば、せめてその風邪が治るまで責任を持つのが大人というものだ。
断じて、情が移ったなどということはない。
―*―
おれは今年の仕事を終えると、9時過ぎにアパートに戻った。
部屋は明るい。どうやら起きているようだ。
「体調はどうだー?」
部屋に入るが、しかし返事はなかった。
おれは寝室を覗いた。
ベッドはもぬけの空。
少女の姿はどこにもなかった。
熱が下がってシャワーでも浴びているのだろうか。
いや、そんな音はしない。
よく見れば、鞄も靴もない。
まさか、本当に出ていってしまったのだろうか。
リビングを見ると、おにぎりはなくなっていた。
その空っぽの皿を手に取って、おれはぼんやりとたたずんでいた。
ひとりになった部屋を見回す。
ここは、こんなに静かだっただろうか。
いや、あの口数の少ない少女がいてもいなくても、大した差はない。
それでも、どこか胸に穴が開いたような気分だった。
おそらくここには、さゆりがいた。
それがいなくなって、この穴ができた。
それを認識しなかったのは、きっとここに仮住まいの誰かがいたからだろう。
その誰かが、ここからあふれる感情を止めていたのだ。
そう思った瞬間、どうしてもたまらなくなった。
――ガチャリ、とドアが開いた。
慌てて振り返った。
少女が、何気ない様子で靴を脱いでいた。
おれに気づくと、いつもの調子で言った。
「あ、おかえり」
まだほんのりと顔が赤い。
熱が下がり切っていないのだろう。
それでも、出歩く元気は取り戻したようだった。
おれは目じりを拭うと、動揺を隠しながら言った。
「ど、どこ行ってたんだ?」
「ん」
ユニクロのビニール袋を持ち上げる。
駅前のビルにテナントが入っていたはずだった。
彼女はリビングに入ると、突然、その場に座った。
正座をして、深く頭を下げる。
「お、おい。どういうつもりだ」
おれが聞くと、彼女は自分の鞄に手を入れた。
その手に握られたものを見て、おれは息を飲んだ。
白いテープで括った札束が、一、二、三……。全部で五つあった。
「500万円あります。これでわたしを、一年間だけここに置いてください」
そう言って、再び頭を下げる。
おれはいきなりのことに頭が真っ白になった。
断るべきだ。
しかし体調の悪い彼女を、この寒空の下に放り出す度胸はなかった。
「……おまえ、名前は?」
少女は顔を上げた。
おれの心の中をすべて見透かしているような気がした。
「わたしは、クリスマス」
家出少女との一年間は、こうして幕を開けた。
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