清らかな幸福

@nana777

清らかな幸福

12月のクリスマス

12月のクリスマス(前編)


 10年も連れ添った恋人にフラれたのは、29歳のクリスマス・イヴだった。

 彼女の名は、さゆりという。

 青天の霹靂というのは、まさにあのことだった。

 残業で遅くなったが、夕方にはその旨をラインで伝えていたし、プレゼントも事前に用意していた。

 しかし待ち合わせ場所に向かっても、さゆりの表情はまったく喜んではいなかった。


 ――もう、あなたに愛情を感じないの。


 10年あれば小学生も成人する。彼女に告白したのは高校の卒業式のときだった。

 しかし、いまでは自分は三十路前。

 髭剃りを2日もサボれば、まるで浮浪者のような顔になってしまう。

 それほどに長い交際期間の終了は、なんとも素っ気ない言葉だった。


 そもそも、それが別れの言葉だと悟ったのは、さゆりが人ごみに消えて時計の分針が半周してからだった。

 まるで「さっきの店に忘れ物したから、ちょっと待ってて」とでも言うような気軽さで、彼女は自分を捨てていった。


 あの少女に声をかけられたのは、そのときのことだった。


「ねえ、オジサン」


 振り返ると、そこにはひとりの女子高校生がいた。

 紺色のコートに、赤いマフラーを巻いている。

 手袋のない細い手は、かじかんで震えていた。


 もちろん、すでに子どもが出歩いていい時間ではない。


「……おれのことか?」


 少女は不思議そうな表情で、あたりを見回した。


「ほかに、誰かいるの?」


 あからさまな揚げ足取りに、おれは苛立った。


「道を聞きたいなら向こうの通りに交番があるぞ」

「そんなんじゃないよ」

「じゃあ、なんだ?」

「わたしを泊めて」

「はあ?」


 改めて少女を見る。

 黒髪の美しい少女だった。

 顔は小さく、肌は白い。

 ぱっちりとした大きな目が印象的だった。

 衣服の着つけも清潔そうだし、知的な印象がある。

 あまり遊び慣れているようには見えない。


「どういうつもりだ?」

「さっき、別れ話をしてるのを見たの。だから、今晩は暇だろうと思って」


 こんな子どもにからかわれるほど、いまの自分は惨めだろうか。


「生憎、おれは餓鬼と遊ぶ趣味はないんだ。他をあたれ」


 手でシッシ、と追い払う仕草をする。

 しかし、なぜか少女は引き下がらなかった。


「お願い。今晩だけでいいから」


 そう言って、袖を握ってくる。


「女のひとが、欲しい気分でしょ?」


 思わず怒鳴っていた。


「いい加減にしろ! そこの警察に突き出される前にどっか行け」


 少女は身をすくめた。

 おれは彼女の手を振りほどき、その場を離れようと駅へ向かった。


 と、突然、腕を掴まれてうしろに引っ張られた。


「お兄ちゃん、置いてかないで!」

「はあ!?」


 少女が必死な様子で叫んだ。


「家に帰っても、お母さんが変な男のひとを連れ込んでるの! わたし、あんなところに帰りたくない!」


 周囲を行く人々が、奇異の視線を向ける。

 その中から、ふたりの警察官が出てきた。

 クリスマスの見回りに出ていたのが、運悪くここを通ったらしい。


「どうしましたあ?」


 のん気な声であった。

 聖夜は警察も気が緩むのだろうか。

 いや、これは生来のものかもしれない。


「妹さん?」


 慌てて否定する。


「いえ、違……」

「そうなんです! アパートに泊めてほしいってお願いしてるのに、家に帰れの一点張りなんです。お兄ちゃんを説得してください」


 少女の大声でかぶせられてしまう。

 警察官は、困った様子で言った。


「うーん。ねえ、きみ。家族の問題だし、口を挟むのもどうかと思うけどさ。もういい時間じゃない? その子、いまからお母さんの迎えはあるの?」


「ないです。絶対に来てくれません」

「じゃあさ、もう夜も遅いし、今晩は泊めてあげたら? それとも、今晩は用事があるのかな?」


 暗に聖夜のことを言っている。

 生憎、自分の予定はさっき消えてしまった。


「……ないですけど」

「そう。じゃあ、ご実家に帰すのは明日でもいいんじゃないかなあ」


 ひとのよさそうな笑顔で、諭すように言ってくる。

 もしおれが誘拐犯だったらどうするつもりだろうか。

 いや、そもそも誘拐されているんなら、少女が人目を引くような大声を上げることはないだろう。


 反論しようとしたが、ただでさえいまは疲れているのだ。

 これ以上、面倒事に時間をとられるのは御免だった。


「……わかりました」


 そう言って歩き出すと、少女が手を握ってきた。


「うん。ありがとう、お兄ちゃん」


 いますぐ振りほどいて逃げたかった。

 しかし下手に逃げて、この少女にあることないこと吹き込まれたら大変だ。

 とりあえず、おれはアパートに帰るべく駅を目指した。



 ―*―



「……いつまでついてくる気だ?」


 アパートへ向かう電車で、おれは少女に言った。

 彼女はぎゅうぎゅう詰めの車両の中、おれの胸に頭をくっつけて寄り添うように立っている。


「……泊めてくれるって言った」

「あいつらを納得させるための方便だ。おまえはさっさと帰れ」

「やだ。帰りたくない」

「いやでも次の駅で下してやる」


 すると彼女はこちらを見上げた。

 その瞳が暗く濁っているように感じたのは、気のせいだろうか。


「ここで叫んでもいいよ。痴漢ですって」

「……冗談だろ?」

「試してみたら?」


 結局、おれは一回りも歳の離れた少女の脅しに屈した。


 アパートに着いたのは、それから数十分後のことだった。

 築二十年の狭い部屋だ。

 寝室とダイニングキッチン、風呂トイレは別。


 周囲を警戒した。

 こんな時間に制服姿の未成年を連れ込んだと噂を立てられてはかなわない。

 アパートの電気を点け、急いで少女を中に引き入れた。


「けっこう綺麗にしてるね」

「そりゃあ、まあな」


 本来なら、ここにいるのはこの少女ではなかった。

 そう思うと、急に気分が沈んだ。

 沈んだついでに腹が鳴った。

 そういえば、昼から何も食べてなかった。


 少女はすでに部屋に上がり、ダイニングのソファで携帯をいじっている。

 少しは緊張しているようなら、まだ可愛げがある。

 見た目がこれでも、ずいぶん男慣れしている様子だった。


 もういい。

 さっさと飯を食って、寝てしまおう。


「おまえ、名前は?」


 聞くと、少女は淡々と言った。


「クリスマスと、サンタさん、どっちがいい?」

「じゃあトナカイで」

「クリスマスがいい」

「はいはい、ミセス・クリスマス。腹は減ってないか?」


 すると彼女は、きょとんとした顔になった。


「なにか、くれるの?」

「なに意外そうな顔してるんだよ」


 くれる、とはまた妙な表現だ。


 おれは冷蔵庫を開けた。

 食事は外で済ませるつもりだった。

 洒落たものといえば、シャンパンとつまみくらいしか入ってはいない。


「でき合いでいいだろ」

「う、うん」


 野菜炒めをつくって、朝に炊いたままの白飯をよそった。

 インスタントのみそ汁を湯で溶いて並べる。

 それを2人分テーブルに置いて、自分はいったん洗面所へ向かった。


 鏡を見る。

 ひどい顔だ。

 まあ、こんな状態で元気いっぱいだったらおかしい。


 リビングに戻ると、少女は律儀に待っていた。


「先に食っててよかったんだぞ」


 彼女は何も答えずに、置いてあったコンビニの割り箸に手を伸ばした。

 おれも野菜炒めに箸をつけた。

 味は薄いし火は通り切っていないし、ひどいものだった。

 しかし味など重要ではなかった。

 とにかく、腹を満たせればよかった。

 満腹になれば眠くなるし、嫌なことも考えずに済むだろうと思った。


「温かい……」

「そりゃ、飯は温かいだろ」

「そうなの?」

「そうだよ」


 つくづく変なやつだ。

 おれはみそ汁をすすった。


「明日の朝には出てけよ」


 ここまで来ると、さすがに彼女もそれ以上のわがままは言わなかった。

 無言でうなずくと、食べ終えた食器をダイニングへ持って行く。


 やはり育ちはよさそうだ。

 食べ方などを見て、そう思う。


 なぜこんな見知らぬ男の家に泊まりたがるのか。

 そもそも、自分は彼女がどこから来たのかも知らない。


 まあ、いい。

 どうせ今夜限りの関係だ。

 おれは腹をくくると、残りの野菜炒めを口に詰め込んだ。

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