朧茂夫は彼女のペンネーム

@annri

異次元充填


 サークル棟の文芸部の部室には、西日が差し込んでいた。

 壁の左右にはスチール棚がそびえ立ち、かろうじて細長く残された空間には長机が並べられている。

 特に何をするわけでもない部員が数人、いつものように、その部室でタムロしていた。それぞれ椅子に座り、各々が何かをしていたり、あるいは何もしていなかったりした。


「そういえばさ、朧。経済数学の課題終わった?」

 玉木アンリ(ペンネーム)はふと顔を上げて、こう聞いた。

 その疑問は、彼女からすると、何も本当にイエスかノーか尋ねているものではなかった。――なぜなら、答えはノーに決まっているのだから。あの朧茂夫(ペンネーム)が、課題提出期限の前日の夜、あるいは当日の早朝でもないかぎり、課題を終わらせているだなんて、ありえないのだから――

 朧茂夫は、読んでいる本から顔も上げずに応えた。

「うん、終わった」

「そうだよね、まだだよね。だってあれ途方もなく面倒だものね。後で半分ずつに分けて――え? 今なんて言った」

「だからその、終わったってば」

 玉木は驚いて、向かいに座る朧の顔を見た。

 朧はようやく本から顔を上げ、玉木を見つめ返した。怯えたように首をすぼめ、上目遣いにするいつもの仕草だった。やがて朧は、見つめ合った状態に耐え切れなくなったらしく、顔を赤くして視線を照れくさそうにそらしたが、しかし嘘をついているふうではなかった。

「信じられない。どうして? なにがあったの?」

「なにがあったのって、課題を終わらせたんだって」

「でもアンタ、わたし以外に友達いないでしょ」

「……自分でやったの。誰かに写させてもらったわけじゃない」

「だからそれが信じられないんだって! あのものぐさのアンタが?」

「……」

 朧は返事もせずに、開いていた本を顔の高さまで掲げた。それで会話を遮ったつもりになったらしかった。

 しかし、それでは玉木の怪訝な気持ちは収まらない。


「ひ、ひどい言いようっスねー、玉木先輩」呆れたように口を開いたのは、文芸部の1年生だった。彼女は手にしていた携帯ゲーム機を一旦スリープさせると、会話に混ざるべく首を伸ばした。「朧先輩がたまにやる気を見せたっていうのなら、それはそれでイイことじゃないスか」

「いいや、それは違うよ後輩ちゃん。朧のあのリアクションは、なにか後ろめたいのを隠している時のそれだからね」

「そうなんスか?」

「そうだよ。だてに1年間付き合ってないから、わかるのさ」

「ふうん?」

 二人は改めて、顔を本で覆った朧茂夫の方を見た。


 視線の圧力に耐え兼ねたのか、やがて朧は声を上げた。

「――もうっ、わかったよ。隠すのはやめるからっ」

「やっぱりなにか隠していたんだ!」

 玉木は、ここぞとばかりに人差し指で友人を指した。

 対した朧は、むつかしそうな表情で、頭の後ろを掻き毟る。

「そうだけど、その、ええっと……なんていうか、説明しづらいなあ……多分信じてもらえないだろうし……」

「なになに、なにがあったのよ?」

「ううーん、説明はするけど、さ。なにせその、うちのアパートにあるもんだからさ……」

「朧んちになにかあるのね? オーケー、じゃあ今から行こうか」

 玉木は早速荷物を引っつかみ、立ち上がった。

「ええ〜、今からあ?」

 そんな友人の行動を見て、朧は面倒くさそうに嫌がった。しかし友人のノリというか、突発的な行動を止めるのはさらに面倒であるとわかっていたから、やがて渋々と彼女に従った。


「はいはい! わたしも朧先輩んち行きたいっス!」

「良いよー、一緒に行こうか」

「なんで玉木が決めるのさ……いや、良いんだけどさ……」



 朧茂夫が住まうアパートは、大学から徒歩で十分ほどの距離にあった。

 玉木と後輩は、招き入れられるままに部屋へとはいった。なんてことのない一人暮らし学生向けの部屋だからにして、複数人がいると少々の窮屈さがあった。

「なんか、思っていたよりも普通の部屋っスね」

 後輩はなんだか失礼なことをつぶやいた。

 朧が来客用のカップを探している間、ベッドのうえに勝手に腰掛けた玉木は、手持ち無沙汰に部屋の中を見渡していた。

 以前来た時よりも、やはり散らかっている。また片付けをしてやらなきゃ――などと考えていると、ふとなにか音がしていることに気づいた。

 不穏な気配。

 ともすれば、耳で捉えていたとしても、意識から欠落してしまいそうなほど、か細く小さな音――


 ガチャン、と朧は乱雑にカップを置き、玉木の意識はそちらへと引き戻された。

朧は手早くインスタントコーヒーを淹れると、それぞれ玉木と後輩に配っていく。

 後輩はいただきます、と律儀に口にしたが、一方玉木は慣れたもので自分用のカップを手にとった。

 玉木は一口だけコーヒーを啜ると、すぐに口を開いた。

「――で、朧はわたしに何を隠していたっていうわけ? 早く教えなさいよ」

「ああ〜、なんていうかね……。その……、最近うちに現れたものを見るとさ、妙に数学的な気分になってさ」

「数学的な気分? なんスかそれ」

「いやね、自分で言っていて、変な言葉だとは思うんだけどね。……でも、どういうわけだかそういう心地になるんだ。勉強意欲、っていうのと似ているような、違うような……まあそれで、そんな状態の時に試しに経済数学の課題をやってみたら、直ぐに終わっちゃってさ……」

「ふうん、あのなまけもののアンタの気分をノらせるっていうのなら、それは大したものだね。――で、その見ると数学的な気分になるものっていうのは、なんなの?」

「ええっと、その……じゃあ、見せるけど……驚かないでね?」

 おもむろに立ち上がった朧は窓際に近づいた。そして閉じられていたカーテンを掴み――しばしためらったが――ついに、意を決したようにそれを開け放った!


 ――何かが窓の外に張り付いている、というのが、初めてそれを見た玉木の印象だった。

それは、窓ガラスの半分ほどを覆う面積を持ちながら、しかし厚みというものをほとんど持っていないようであった。

 色で言うのなら、たとえば枯葉のような乾いた褐色。

 なんだろう、と玉木は不思議に思った。さっき朧は驚かないでねと言ったが、これでは驚く以前に、そもそも何が窓に張り付いているのかがわからない。

 目を凝らし、意識を集中してみれば――それは何か、小さく蠢いていた。

 それは――いや、それらは、一様のようでいて、ようく見てみれば、各々が個別の器官から成り立つ、細く小さな構造体で――


 ガラス越しに、いま自分の目の前にあるのが、密集した昆虫の腹面であると気がついたとき、玉木アンリと後輩は悲鳴を上げた。

「キャア!」

「うわぁっ! な、なんスかこれ!」

「いやさ、こういうふうに窓の外側にカメムシみたいなのが張り付いちゃってさ……わたしも、最初のうちはキャーだとかイヤーンだとか言っていたんだけど……キリがないからそういうのはやめたんだ。だっていくら喚いたところでこいつらがいなくなることはないんだからね……」

 後ずさる二人とは対照的に、窓辺へと近づいた朧は、実に慣れた様子で、そのまま握りこぶしで窓枠を数度叩いた。

 すると、その衝撃によってなのか、密集していた昆虫群が一斉に飛び立った! それらが発する羽音の連なりは、は窓ガラス越しにも聴こえてくるようだった。

 玉木の背筋に嫌悪感が走った。


 やがて、すっかり窓の外には何もいなくなり、外の光景があらわになった。……しかし、それは、玉木に見覚えのあるものとは違っていた。

 さっき悲鳴を上げたのがなんだか気恥ずかしくなってきた玉木は、ひとつ咳払いをしてから、話をそらすように、それを指摘した。

「……あれっ? この窓の向こう側って、すぐに隣のアパートがあるんじゃなかったっけ?」

 窓のすぐ外には空き地ができており、そこからさらに向こう側の道路までが見える状態だった。

「先週くらいに、裏のアパートが取り壊されてさ……たぶん、そこに住み着いていたカメムシたちが解き放たれたんだとおもうけど……」

「うわっ、それって悲惨っスね。カメムシってことは、臭いとかするんじゃないスか?」

「いや、悪臭はしたことないんだけどさ……そもそも、カメムシって勝手に呼んでいるけど、これが分類学的にカメムシなのかどうかはわからないしね。それっぽいからそう呼んでいるだけでさ……」

 朧は疲れたようなため息をついてみせた。

 

 ふと見てみれば、一匹の昆虫がまた窓ガラスの外側に張り付いた。

 それは、回転するように、何度か角度を調整した後、ようやく納得のいく角度になったのか、じっと構えて動かなくなった。もっとも、位置は動かなくても、口器や節足は微動を続け、それを見たものに本能的な忌避感を絶えず与え続けている。

 その生物は、おおよそ正五角形の鞘翅を背負っていた。

 すると、次第に他のカメムシもまた窓ガラスに戻ってきた。それらは互いに身を寄せ合い、その正五角形を隙間なく、かつどこも重なることがなく、平面上にちょうどぴったりと組み合わされていく。

 ときおり、その組み込まれた正五角形のうちの一つが、蠢いた。五分の一ずつ回転して収まりの良い向きを探っているらしかった。そうするたびに、一瞬だけ、わずかに生じる隙間からは、日光が染み出し、キラキラと夜空の星のように輝いた。


 そのおぞましいはずの光景は――しかし、どういうわけか玉木の目を強く引きつけた。生命体の本能に根ざしているであろう秩序だった振る舞いは、それを見る者の数理的な能力に働きかけているようで――

 途端、玉木の胸に奇妙な感慨が湧いてきた。方向性のわからない、もどかしい情熱。

 彼女はじっとしていられなくなった。そして、ついさっき朧が口にした言葉を思い出していた。

 数学的な、気分。

 頭の中にそれの言葉を思い浮かべた瞬間、それまで形を持たずに広がっていた胸のもどかしさが、ある一定の方向を示した。

 そして彼女は、理屈でなく感覚で理解した。

 これが、朧の言っていたことなんだ――。


「ちょっと先輩。大丈夫っスか?」

 怪訝そうな後輩は玉木の顔のすぐ前で手を振ってみせた。しかし、なんだか反応が薄い。そうなると、いよいよ心配である。おぞましい昆虫群の姿を見て、この先輩は気が違ってしまったのだろうか?

「ちょっと朧先輩、これ大丈夫なんスか」

「あー、大丈夫、大丈夫……」

 朧はぞんざいにカーテンを引いた。

 窓に映る昆虫群が隠されてから、ようやく玉木はわれに帰った。そして彼女はおぼろに向き直ると、「ちょっと机を貸してっ」と口走った。

 玉木はカバンの中からリングノートを取り出して、なにやら猛烈な勢いで課題に取り組み始めた。

 後輩は、そんな玉木の背中を見て、半ば呆れたように口を開いた。

「すごい効き目っスねー。いったいどういう理屈なんスか?」

「……さあ? わたしにも、理屈は全然わからないんだけど……玉木にも効果があるみたいだね。……後輩ちゃんは、あれを見ていてなにか感じなかった?」

「いやー、気持ち悪くてあんまり見たくなかったんで、途中から目をそらしていたっス」

「そう……」

 朧は少しだけ不服そうにつぶやいた。


 玉木が持つペンの先から、数式が溢れ出していた。

 テキストの数式を視覚で認識し、それを脳内で計算し、そして筆記によって排出するまでの一連の流れが、自律しているかのようだった。

 この時点において、複雑さ、というものは彼女の知覚の中に存在していなかった。たとい普段ならいくらでも難解に思えていたであろう例題が、一度頭の中に収めてしまえば、どういうわけか、丁寧に下ごしらえされたステーキ肉のようにいとも容易く解きほぐされ、ただ素直な発想と単純な思考にのみよって、それらの解を求めることができたのだ。

 何も悩まずに例題を解き進めて行くことは、実に爽快だった。

 脳の機能はほとんど計算に用いられ、あれこれ深く考えることはできなかったが、そこには窒息じみた軽やかな快楽があった――

 気がついたときには、課題の範囲をすべて終えていた。


 長い夢から覚めたときのように、頭がぼんやりとしていた。ちょうど課題を達成すると同時に、一種熱狂が冷めていくようだった。

 玉木は、改めて自分が今さっき解いたはずの例題を見直した。……しかし、先ほどのような、一目見てすぐにわかるような心地ではなくなっていた。今となっては、それらは普通の学生を普通に悩ませるような、手間のかかる課題にしか見えなかった。

「……いや、すごいね、これは」

 玉木は、自分のことながら信じられないような気持ちだった。

 はじめ朧から話を聞いたときは、全く意味のわからない与太話だと思ったけれど――こうやって、身を持って体験すると、もはや驚きしかなかった。

「あのカメムシがいれば、もう数学系の課題で悩むことなんてないんじゃない?」

「わたしとしては、さっさとどっかに行って欲しいんだけどね……」

 朧は疲れたようなため息をついてみせた。



 経済数学の講義は月曜日の2コマ目に開かれている。

 日当たりの悪い経済学部棟のなかでも、さらに奥まったところにある狭い講義室。それでいて学部の必修講義の一つであるからにして、その中には多くの学生が詰め込まれていた。

 厳格であることで知られている初老の教授は、苦々しい表情でそれぞれ学生の名前を呼び、いくらかのお小言を添えて、提出されたノートを返却していく。どうも今回の課題の範囲は相対的に見ても難しかったようで、再提出を教授から求められている学生も少なくはなかった。

 そんな中、玉木アンリはこの講義に出ているにしては、珍しく軽快な気分でいた。自分の名前が呼ばれるのが、今か今かと待ち構えてさえいた。

 彼女はワクワクと落ち着かない様子で、講義室の中を見渡した。

 再提出を求められたくない、と祈る学生や、なんとか合格した学生、だめだった学生など悲喜交々だった。

 ――けれど、わたしは違う。彼女は思った。楽をして、得をしたのだ。他の同輩たちが苦しんでいる中、これほど気分のいいことはない――

 やがて、玉木アンリの名が呼ばれた。彼女は足取り軽やかに、教壇の前へと進み出た。

 四角い顔をした厳しい教授は、じろり、と玉木の顔を睨みつけた。


「――やってられっかチクショー!」

 昼休み。文芸部部室に入るなり、玉木アンリは声を上げた。

「あ、玉木先輩お疲れ様っス。……なんかあったんスか?」

「ねえ、聞いてよ〜」玉木は購買でかったサンドイッチをぱくつきながら続けた。「先週さ、朧の家に行ったでしょ? それで、その時に終わらせた課題がさあ〜……全部っ、間違えていたの! おかげで全部やり直し!」

「……アハハハハ! なんスかそれっ。なんかすごい勢いで計算とかしていたのに、あれが全部デタラメだったってことっスか。うける〜」

 後輩はいかにも愉快そうに笑うが、しかし玉木からすると笑い事ではない。

「く、くそう。笑ってくれるなよ」

「朧先輩にかつがれたってことっスか」

「そうなんだよ、朧アイツ! わたしに大恥をかかせておいて、アイツはなんか講義にも出てこないしさあ……。くっそー、すっかり騙されたよ」

 玉木は憤然として、パックのオレンジジュースに口をつけた。舌の上には、少しの渋みを含んだ柑橘の味が広がった。

 ……しかし、だったらあの時の感覚はなんだったのだろうか? と玉木はふと怪訝に思った。

 あのカメムシによって誘発した熱狂のようなものは、今となってはすっかりどこかに行ってしまっている。しかし、それに囚われていたあの瞬間は、確かに課題の問題を理解していたと思っていて、かつ数学の真理を垣間見さえしていた心地だったというのに……あの感覚と歪んだ理論は、ただの錯覚だったのだろうか――


「なあに、二人共。なんの話をしているの?」

 ふと入口の方から、声がした。ドアを開いて現れたのは、大戸撫子(ペンネーム)だった。彼女はおっとりとした足取りで入口すぐ近くの椅子に腰を下ろすと、にこやかにふたりの方を見た。

「大戸先輩、お疲れ様っス」

「あ、大戸先輩。久しぶりですね。……なんの話か、ですって? それがですね、聞いてくださいよ〜。この間、朧のやつがなにか隠し事をしているからって……」

 玉木は、身振り手振りを交えて、事のあらましを大戸に聞かせてみせた。

 大戸は相変わらずニコニコと穏やかな笑顔で玉木の話を聞いていたが、全てを聴き終えると、なにやら神妙そうな表情になった。そしてひとつ、なにかを考え込むように口を尖らせて、顎に手をあてがった。

「ふうん、なるほどね……」

「どうしたんですか、大戸先輩。なにか思い当たる事でも?」

「いやね。昔の話を思い出してね。……君たちはまだ、入学していなかった時の話なんだけどさ」

 大戸は訥々と語りだした。


 A、という男子大学生がかつてこの大学の経済学部に在籍していたという。彼は特段賢いわけではなかったが、勉強熱心であり、教授たちからの信任も得ていた。

 その誠実な人柄から就職先もそうそうに決まり、あとは卒業論文の単位さえあれば卒業できるはずだったという。――しかし、彼はそこで単位を落とすことになった。担当教授は、卒論に書かれた計算がデタラメであるとして、受理しなかったのだ。

 Aは、余裕を持って卒論のリライトを繰り返したが、しかしその度に、担当教授からは計算が合わないことを指摘され、ついには期限を越えてしまったのだという。

 その後Aは引きこもるようになり、さらに数ヵ月後、自室で首を吊っているのが発見された――


「――という事件がさ、何年か前にあったの。当時は地元の新聞に載ったりして、ちょっとした話題になっていたんだけどね」

 話疲れたのか、大戸は一つため息をついた。

 話を聞いていた玉木と後輩は、なんとなく苦々しい表情を作った。

「そんなことがあったんスか……」

「それって、いわゆるアカハラ(※アカデミック・ハラスメント)だったんですか?」

「当時の関係者も最初はそう考えたんだね。意地の悪い教授が学生をいびり殺したんじゃないかって。だけど、卒論の草稿として残されていたものを調査した結果、担当教授の言い分が正しかったことが証明されたとのことさ。そこに書かれていたのは、まったく、意味のもたない数字と記号の羅列だったんだって……もしかしたら、その時点で既に彼は精神に異常をきたしていたのかもしれない、って噂もあったんだけど……」

 意味のもたない数字と記号の羅列――大戸が口にしたその言葉に、玉木はどきりとさせられた。

「……ちょうど、裏なのよ」

「裏って、なんのです」

 大戸は、神妙そうな表情でつぶやくように続けた。

「その男子大学生が首を吊ったっていうアパートが、ちょうど朧ちゃんところの裏にあったのよ。……あなたたちの話によると、ついこの間取り壊されたっていう、そのアパートのことね」


 後輩は怪訝そうな顔で大戸の方を見た。

「その男子大学生の自殺と、朧先輩んちのことが、なにか関係しているって言いたいんスか?」

「さあ。二つのことが関係しているかどうかはわからないけれど……」大戸ははぐらかすように、ふと話題を変えた。「ときに二人共、中学や高校の頃の数学って覚えている?」

「まあ、多少は。一応経済学部ですし、数学は苦手ではないですよ」「うーん、わたしは怪しいっスけど」

「じゃあ、四角形の内角の和って覚えている?」

「ええっと、360度ですね」

「じゃあ五角形は?」

「四角形に三角形を足すから……540度ですね。それがどうかしたんですか?」

「あなたたちが先日、朧ちゃんちでみたカメムシって、正五角形だったんですって?」

「……はい。その正五角形が隙間なくみっしりと。ああ、思い出すだけでもおぞましいっ」

「じゃあその正五角形の内角のひとつっていくつかしら」

「540度を5等分して……108度、ですねそれがどうかしたんですか……あれっ? えっ?」

 大戸と玉木が問答しているのを、何がなんだかわからないといった面持ちで後輩は眺めていた。やがてしびれを切らして、口をはさもうとする。

「二人共、なんの話をしているんスか」

 大戸は、ニコリ、と後輩に微笑んだ。後輩は、なんだか子供扱いされているような気がして面白くなかった。

「つまりね、正五角形はどういうふうに並べたとしても、平面上を隙間なく埋めることはできない、ってことよ。古代ギリシャの時代には証明されている、この世界の法則なの」

「……はあ? いやいや、でもわたしたち、見ましたし。ガラスの外側に隙間なくくっついていたっスよ。ねえ、玉木先輩」

「そう、わたしたちは確かに見たんだ。でもそれは、ありえない光景で……どうして気がつかなかったんだろう……」

「なんスか、なんスか。玉木先輩まで。なんか、まったく話が見えないんスけど。ありえないっていうのなら、じゃあわたしたちが見たものはなんだったんスか」

「案外、この世界のものじゃなかったのかもね」

 大戸は冗談めかした調子で言ったが、からかわれていると思った後輩は憤然とした表情をした。

「たとえば、平面上と曲面上では直線の振る舞いさえも違っているように、わたしたちの住む世界とは違う、歪んだ次元とその世界を表す歪んだ数学や法則というものがあるのかもしれないね……」


 その後、用事があるとかなんとかで大戸は去っていった。

 部室に残された玉木と後輩は、それぞれ奇妙な表情で、互いに顔を見合わせた。

「全然、要領を得ない話だったっスけど……なーんか、嫌な感じのする話っスよね、いまのは」

「……あとで、朧んちに行ってみようか。まあ、あいつが今日学校に来ていないのは、いつものサボりだと思うけどさ。一応、念のためにね」

「お供するっス」


「それと玉木先輩。ひとついいっスか?」

「なあに」

「あの、なんだか聞きづらいんスけど……大戸先輩って、いま何年生なんスか。いや、前々から気にはなっていたんスけど。ほかの先輩方よりも、さらに先輩っスよね」

「……じつは、わたしもわかんないんだ」

「えっ」

「わたしたちよりもいくつも年上だってことだけはわかっているんだけどね。一説によると、院生だとも言われているし、あるいは単に留年しているだけだとか、それとも医学部生だとかいろいろ言われていたけどさ。最悪の場合、すでに卒業か退学していてこのサークルにだけ顔を出している、っていう可能性だってある」

「学部すらわからないんスか」

「でもさ、なんか面と向かって聞きづらいでしょ、そういうのって」

「たしかに、最悪の場合を想定すると、ちょっと気まずいっスね……」



 放課後、後輩を引き連れて朧のアパートまで趣いた玉木は、早速ドアノブを掴んだ。

 しかし、開かない。

「なんだ、朧のヤツ。普段は面倒臭がって、外出中だろうが鍵なんて使わないくせに……

 なんどかガチャガチャやっていると――そこで玉木は、なにか手応えがおかしいことに気がついた。

 確かにドアは開かない。しかし、どうもそれは鍵が掛かっているというよりも、なにかドア自体が大きなものに突っかかっているようだった。

 改めて見てみれば、なにやらドア全体が、大きく歪んでいることに気がついた。いいや、ドアだけではない。ドアが面している壁面全体が、部屋の内側に向かって、大きく緩やかな弧を描くように凹んでいるようでさえあった。

ごくり、と玉木は唾を飲み込んだ。

 ――いったい、どういう力が働くと、こういう風になるんだ? 彼女は、なにか途方もない気持ち陥りそうになった。

「ちょっと後輩ちゃん、手伝って」

「え、なにをするんスか」

「鍵がかかってるんじゃなくて、枠が歪んでいるだけみたいだから、無理やりこじ開けよう……」

 渋る後輩と一緒にドアノブに手をかけ、力を込め、なんとかそのドアをこじ開けた。――その瞬間、風が巻き起こり、開いた隙間へと向かって周囲の空気がなだれ込んでいく!

 その突風に煽られ、玉木も後輩も、反射的にそれぞれすがりついて身を低くした。

「キャアッ!」

「な、なんスか、なんスか!」

 ……やがて突風は収まった。

 ボサボサになった髪の毛を整えたり、服についたホコリを払ったりしながら、玉木は立ち上がった。そして、ドアが開かれたその先を見た。

 そこには、暗闇が広がっていた。光が届かない、というよりは、なにか光そのものを吸収しているような、宇宙的な暗がりだった。

 意を決した玉木は、部屋の中に押し入った。後輩もそれに続く。

 すえた臭いのするキッチンを超え、そしてついに、ワンルームを隔てる麩の前までたどり着いた。その襖の向こうには、なにか気配が感じられた。

 玉木は、そっと音を立てないようにしてそれを引き開けた。


 幸いなことに、朧の首吊り死体と出くわすようなことはなかった。

 そこには朧がいた。

 彼女は、電灯もつけていない暗がりの中、なにやら机に向かって熱心に作業をしているようだった。

 ただペンを走らせる音だけが、暗闇の中に響いている。

「朧……アンタ、学校にも来ないで、電気もつけないで、なにをやってるんだよ……」

 恐る恐る、といった感じで玉木は声をかけたが、反応はなかった。背を向けたままの朧は、ただ黙々と手を動かし続けている。

 パサリ、と紙をめくる音がした。そしてすぐにまた、ペンを走らせる音がする。

「おいっ、朧っ――」

 一歩踏み出した玉木は、なにかを踏みつけたことに気がついた。それは、一枚のルーズリーフで――いや、一枚だけでない。数え切れない程のルーズリーフが、朧の座っている一を中心にして堆く積り、床一面に広がっていた。そしてそれぞれに、紙面を埋め尽くさんばかりの記号が書き込まれていた。しかしそれは、一目見ただけでも、普通彼女が知っている数式とはまるで異質なものだということがわかった。全体として象形文字や電子記号の風であり、それが曼荼羅のように一種視覚的な効果を持つ配列に収まっている。

 玉木は、怯えてしまいそうな自分の気持ちをなんとか抑えつけ、散らばっているルーズリーフを踏み分け、さらに一歩、朧の方へと近づいた。

つんと鼻を突く皮脂の臭いがあった。

 ――いったい朧は、何日間風呂にもいないのだろう――いや、それとも、いつからこんなことを続けていたというんだ?

「おい、朧ってば! アンタ、いい加減にしろよ!」

 玉木が肩を掴んでみれば、電流でも走ったように、朧はびくりと大きくはねた。

 彼女の手が止まる。そしてゆっくりと振り向き、――やつれた顔が、玉木の方へと向けられた。

「……玉木……どうしたの」

 彼女は乾いた声でつぶやくように言った。暗がりの中でもわかるほど顔色は青白く、目はまた虚ろだった。

「どうしたの、じゃないよっ。アンタ、講義にも出ないで、なにをやってんだよっ」

「ごめん、とりあえず、終わらせなきゃいけないから……もう、直ぐに終わるから……じゃないと彼らも……彼らの……大いなる……航路の……ために…………」

「はぁ?」

 朧は再び机に向き直すと、また、謎の計算を始めてしまう。

「――っ!」

 玉木は、カッとなった。自分がわざわざこうしてこの小汚い部屋までやってきてやったっていうのに、それを無視するというのか! ふざけるな!

 玉木は、朧の手を掴んで無理にでもその計算を止めようとした。

 ――しかし、朧の手に触れる直前、それは何かに遮られた。

 黒い障壁のようなものが、彼女と朧の間に、いつの間にか立ちはだかっていた。それは手応えがまるでなく、それでいて強固な抵抗を発生させるもので、あたかも平面上の闇がそのまま立ち上がってきたかのようだった。

 玉木がどうにかしようともがいている間にも、朧がペンを走らせる音が激しくなっていく。もはやそれはひとつらなりになり、暗がりの中に反響していく――


 カカッ、とペン先が二度、叩きつけられる音がした。それは、求められた解を示す音だった。

 その瞬間、部屋の中を覆っていた暗闇それ自体が大きく蠢いた。

 やがて、部屋の端の方から、正五角形ずつに暗闇がポロポロと剥がれ落ちていく。その現象は波のように広がっていき――やがて、室内はあるべき姿を取り戻した。

 しばし呆気にとられていた玉木ではあるが、ふと我に返ると、慌てて朧の顔を覗き込んだ。

「おいっ、大丈夫?」

「……大丈夫、だけど……ちょっと、いや、大丈夫じゃ……ないかも……うーん……」

 朧は崩れ落ちるように、玉木へと寄りかかった。

 玉木はそれを受け止めた。朧は気を失っているようだった。

「い、今のはなんだったんスか?」

 それまで部屋の入り口から遠巻きに覗いていた後輩が、不審そうに部屋の中を見渡しながら入ってきた。彼女は胡散臭げに、床に散らばったルーズリーフを手に取ってみる。しかし、そこに何が書いてあるのか、それが何を示しているのかは、てんでわからなかった。

「結局、朧先輩はなにをやらかしたんスか、これ」

「わたしにもわからない、全然、まったくわからないけど……どうしよう。とりあえず、こいつを病院まで連れて行くか?」

 玉木は朧の前髪を撫でわけ、その顔を見下ろした。ついさっき見たときより、多少血色は良くなってきているようだが……

「ちぇ、気持ちよさそうに寝ているよ」

 ふと、窓の外から西日が入り込んできた。

 窓の外には、何も遮るものがなく、ただ裏のアパートが取り壊された空き地だけがあった。


 その後、朧茂夫は単なる睡眠不足と栄養不足だと診断された。

 結局、あのカメムシとそれに誘発されるデタラメな計算はなんだったのだろうか? 玉木にはとても見当がつかなかったし、そのことを朧に聞いたとしても、当時のことはあまり良く覚えていないんだと曖昧なことしかいわないのだった。

 きっと、正常なこの世界の人間からすると理解が及ばないものだったのだろう、と玉木は思った。それはちょうど、あの歪な数理では、この世界の経済数学の単位をとることができないように、相容れないものなのだ――



 結局、課題の再提出が面倒になった玉木と朧はそれ以降講義に出席することをやめた。二人は仲良く次年度の再履修とあいなった。

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