名前も知らない

緑化委員

制服を着ていた

 小学生の頃は警察官になりたかった。

 その夢を成し遂げるにはそれに見合うだけの努力と情熱と根気が必要なんだということに気が付いたのは中学校を卒業するころだった。高校を受験し、そして「将来」を真面目に考え始めてから。

 僕には結局のところ根気なんてなければ情熱も、そして努力をするだけのやる気すらなかった。

 ただ漫然と生きていて、でもそれが充実していて。特に部活や習い事、勉強なんかに精を出さなくたって日々は楽しかったんだ。

 確かに楽しかった毎日。思い出そうと思えば思い出せる。でも、

 今の僕には。

 その時何で警察官に憧れてたとか、その楽しかった日々の思い出の中で、自分はどんなことを考えていたのか、分からない。

 大人になってしまった、僕には。

「涼太」

 ぼんやりとベッドに座り微睡んでいると、母親の声がした。

 まだ頭に残骸として残る思い出を振り払って、入口を見た。

「涼太。……これ、よろしくね」

 50代半ば、年相応の顔のしわを歪め、部屋の襖の前にメモと一万円札を置いた。いつもと同じ、いつもと同じ会話。

 立ち上がる。それらを持って、母親と一緒に部屋を出た。

 僕の部屋は二階の物置部屋だった。両親は一階で寝ている。僕たちが顔を合わせるのは、この週に一度の「習慣」だけだった。

「涼太」

 玄関先でまた名前を呼ばれた。僕は俯いたままだった。

「おつり、返さなくていいからね」

 だって僕の母親は僕の顔を見てくれないんだ。

 僕はニートだ。そう、この世の屑です。すみません。生きていてすみません。

 就職できず、引きこもり、他人の顔をろくに見られない親の脛かじって生きているコミュ障です。

 努力することを諦めた。

 生きているのがつらい。

 でも死にたくない。

 そう、僕は昔「警察官になる!」とか言ってたくせに努力すら出来ず、こうして親のお使いに来て、レジで店員の顔を見れない人間だ。

 と、

 吐き出せたら楽になれるのかな。

 叫んだら振り切れるのかな。

 僕にはできないけれど。

 袋に荷物を詰め終わり、スーパーを出て帰宅を急ぐ。この食材が今日使われるからではなく、現在夕飯を食べているだろう両親が心配するからでもなく、今日はいつもよりメモ書きの量が多かったせいで、荷物が重いからだ。

 今日みたいに社会復帰の為のお使いをする土曜日以外は、僕は基本部屋で寝ている。ゆえに筋肉がない。貧弱で、おまけに最近は食も細い。……かなり軽くなっているのではないだろうか。

 荒い呼吸を繰り返し、数分歩いて、気付く。吐いた息が白くなっていた。暗いからすぐには気が付かなかったのだ。

 まだ雪は降っていないが、ここは山が近い、田舎だ。降れば確実に大量に積もるだろう。母親は僕を気遣っているのか、それとも帰りが遅れるのを嫌がっているのかわからないが、積雪の日はこの「習慣」を行うことはなかった。

 ああでも、早く帰ろう。この町は不良も多いから、絡まれたら絶対絶命だ。そうだ、この角を曲がってまっすぐ行けば――

 ――ドンッ

「痛っ」

 何かにぶつかった。やけに高い声が聞こえた気がする。

「すみませんっ大丈夫ですか?」

 ぶつかった何かは紛れもなく人で。……僕の肩くらいの身長の、女だった。

 寒そうなミニスカートに、厚手のパーカー。顔をすっぽり隠すように深くフードをかぶっていた。……暗いせいもあって、顔が見えない。

 僕は首肯して。そのあと軽く頭を下げて。再び歩き出した。

「は?え?ちょっと!」

 後ろから腕をぐいっと引っ張られて。僕の歩みは止まる。

「大丈夫ですかって聞いてるんですけど!後で卵割れてたーとかだったら困るでしょう!?」

 …………。

 どうしよう。

 見えてなかったみたいだ。どうしよう。

 動揺は全身に広がって、僕の体は11月の寒さのせいではない震えに浸食されていく。

「聞いてますか?」

 うんざりぎみな声とともに、彼女はようやく深くかぶったフードを――手で、少し上げて。僕と目が合うように調節してくれた。

 僕は再び首を縦に振った。それしかできない。

「卵とか、大丈夫ですか?」

 再びの質問。今度も、僕は首肯した。

 卵なんてどうでもいい。僕は利き腕にぶら下げている袋を除くのさえ困難なほどに憔悴していた。

 早く、早くここから去らないと。

 僕は「あの言葉」をまた聞かなくちゃいけなくなる。

 フードの隙間から除く彼女の、かすかに見えた声の割に冷静な目が怖くて僕は。


「待って」


 今度は走り出そうとして


「ねえ」


 握られた腕が離れなくて


「あなたって」


 肯定したくない現実が


「もしかして」


 僕のトラウマが


「喋れないの?」


 嘲笑いながら、僕を囚えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

名前も知らない 緑化委員 @mizuki_r

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ