不実

九月にある文章を読んだ。「web上で同時多発テロに関することを書き綴る人達」について書かれたものだった。その文章に対して幾人かが反応を示し、言及し合うその成り行きを、あたしはただ眺めていた。


それで思ったんだけれど。


何が正しいとか人はこうあるべきとか、そういうのはあたしの興味を引かなかったのだけれど、ただ、発端となった文章から「この人は怒っていて、そして恐いのだな」というのが感じ取れて、ああそうか、とあることに気づいた。


同じような怒りを、あたしも持ったことがある。少年犯罪について、何かしら大きな事件やそれにまつわる動向があったときだけ騒ぎ立てる人々に対して、以前のあたしは強い怒りを覚えた。


そのときどき、マスコミが取り上げたときのみに多弁になる人達。己の正義を並べ立て、異を唱えようものならそれを排除する勢いでがなり立てる人達──。


あなたたちはふだんからそういったことについて考えていますか。何年も前に起きた事件のことを考え続け、その経過を思い、心に思うことはありますか。


強い口調で言い立てる人ほど、おそらくふだんは何の関心もないのだろう。他人に気づかされて初めて薄っぺらな正義感が顔を出し、それまで忘れていた、という無意識の内にある罪悪感も手伝い、声高に語り出すのだろう。それも、そうして語り出すのは罪を憎むためではない。


「自分はこんなに社会を憂えていますよ、社会の問題に関心を持っていますよ、皆と同じく、罪や悪は断罪すべきだと信じていますよ」そう己の正常さをアピールするために過ぎない。


他人を罪人に仕立て上げ、それとの対比で己の正当性や正義を主張しようとし、多数の意見に迎合しまた熱狂することによって自分は社会の足並みから外れることのない、いたってふつうの正常な人間なんだと思い込もうとする。


己は真っ当な人間であるということ、人から指差し非難されることはないのだということ。己がいつそういう立場になってしまうかわからない恐怖があるから、世間の価値観が変わる度にそれに合わせて己を変え、疎外されることから逃れているだけなのに、そんなことには気づかない。


そして、それらのことが見当外れではない証拠に、騒ぎが収まってしまえば己の正常さを主張する必要もなくなり、何事もなかったような顔でそれらのことを忘れ日常に戻ってゆく。そのくり返し。


己の正常さを主張するためだけにそれらを消費し、ずっと真摯に考え続け世界を変えようなどとは微塵も思っていない、そのあまりにも自分本意な、不実としか言いようのない人々にあたしは、ひどく憤っていたのだった。


けれど、そのあたしの怒りも実は非常に自分本意なものなのだ、ということに、人様の文章を読んでいて気づいた。怒りを覚えるのは確かに不実さであるのだけれど、あたしはひどい混同をしているのだった。


一時狂ったように人々が語ったとしても忘れられてしまうこと。常に心に留める人はそう多くはないのだということ。物事は消費されるだけであるのだということ。──あたしはそれらのことに自分自身を重ねてしまっていた。


なぜなら、一見どれほど真摯に語っているようでも、それが社会のことであれ個人のことであれ、おそらく「忘れる人」というのは何に限らず忘れてしまう。


きっとこういう人達にあたしの苦しみを訴えたとしても、そのときだけ耳を傾けるだけですぐに忘れてしまうのだろう。あたしの感情は消費されるだけであり、そこに人間性など不必要なのであり、つまりはあたしがあたしとしてここに存在する意味などないのだ。


短絡的ではあるけれど、あたしはそんな想いに囚われ、「忘れてしまう人々」に対して恐怖し、それが悲しみとなり、怒りへと転じていったのだった。


つまり、あたしの怒りは「あたしのことを消費するだけであろう人々」に対する、ひどく個人的で自分本意なものであり、けれどもそれを無意識に「真剣に社会を憂えない人々」と摺り替え、その人々に対する怒りだと思い込んでいたのだ。


しかし、冷静に考えてみればそれはおかしな話だ。あたしが怒りを向ける人々というのはあたし自身にまったく関わりがなく、ゆえにあたしの感情が消費されることなどないのだから。


なのにそれらを混同し、怒りの向かう先を摺り替えてしまったのはなぜなのか──。おそらくあたしの視界はひどく狭められており、怒りという怒りがいっしょくたにされてしまったのだろうと思う。


あたしは人が恐い。その「人に対する恐怖」が自身を混乱させ、それゆえ直接的にはあたしへ向かわない不実さもが琴線に触れることとなり、どこへ、また誰へ向かうのかもわからないままに怒りとなったのだ。


そうして、自分の怒りがどこへ向かっているのかもわからず、まったく無関係な他人に責任転嫁するなど笑止千万だし、対象を摺り替えることによって己の正当性を維持しようとする性根には呆れ果ててしまうけれど、「しかし」とここで言いたい。


完璧に自己弁護になってしまうけど、直接自分へ向かう不実さでなくとも、それに恐怖する人はいる。人の心に触れることが恐くて仕方のない人々は、ともすれば自分自身をも含めた「人間」すべてを一括りにし、そこから発せられるメッセージを敏感に感じ取ってしまう。


おそらくそのほとんどはあたしと同じような妄想に過ぎず、もし恐怖を取り除くことができれば、本当は自分が何に対して怒りを持っているのかを知ることができるのだろうけれど、しかしそれができないからこそ、人の言葉に怯える。


「誠実であれ」とは言わないし、「世間が騒ぎ立てるときだけ語り出すな」とも言わない。それはそれで必要なことで、なくなってはいけないと思う。


ただ、知っていて欲しいと思う。そこに存在する不実さに怯え、それゆえ傷つき怒りを覚える人がいるということを。自分が忘れられてしまうことや、消費されることに恐怖せずにはいられない人が、あなたの言葉を読む人々の中にいるのだということを。

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