絶望という祝福

つまり「人は孤独なんだな」と思う。どれほど寄り添い肌を密着させようと、肉体を切り裂き融合したようには、つまり相手が自分自身であるかのようには理解できない。そして、理解できないし理解できないからこそそれを強く望み、肉体を切り裂けない代わりに心を切り裂き、心を融合させようとするのかもしれない。しかし結果は逆で、心を切り裂けば切り裂くほど、千切れ飛んだ断片すら自分自身のものでしかないと、それほどに人はひとつの個に縛りつけられているのだということを思い知るんだろう。


人は他者を理解できないし、他者に理解されることもない。この数カ月ずっと考え続けてきたこと──いや、受け入れようとしてきたこと。自分を理解してもらうためにできる限り言葉を重ね、それでもやはり理解されることはないのだと知ったとき、認めたくはないし直視するのも嫌でたまらないけれど、人とはそういうものであると、「決して混じり合うことなく個としてしか存在し得ない」という思いが目の前に現れ、そこから動かなくなった。


簡単に言うと五月に書くのを止めたことだ。一番に読み取って欲しいことが読み手には伝わらぬ、ということがわかり、あたしは言葉を失った。これ以上言葉を重ねても無駄だと実感するとき、どれほど搾り出そうとしてもあたしの内からは何も出て来ない。完全に心が閉ざされてしまう。そしてその原因を「件のいざこざである」と思っている人もいるかもしれないけれど、あれは発端に過ぎず、一番大きな要因となったのは実は「すべての読み手に対する絶望感」だった。


ここへは友人・知人も訪れてくれるが、そのすべてを含む読み手への絶望感──つまり、どれほど苦しい辛いと訴えても言葉をかけてはもらえないことに対する失望、と言ってもいい。実際は訴えもせずに痛む心を押さえつけ、それを隠そうとしながら言葉を綴っていたので自業自得なのだが、それを読み取ってもらうことをあたしは望んでいた。しかし、おそらくそれを読み取れた人はいると思うのだが、あたしにかけられる言葉はなかった。


もちろんそういう状況の場合、なかなかに言葉をかけづらいのは知っているし、あたしも立場が逆になったときにはただ見ているだけになってしまう。だが、そのときのそれは読み手の立場に思い至る余裕のないあたしの神経を逆撫でする結果となり、ついには心に亀裂を生じ、何人か存在する『あたし』達が自分から離れ、それぞれに行きたい方へと向かってしまった。そして後に残されたのが「読むな・見るな」という、読み手に対する痛烈な拒絶の感情だった。


そう、「あたしの思いを読み取れないのなら──もし読み取れたとしてそれに応えることができないのなら、ここへは来るな!」という激しい感情が、そのときの空っぽで誰もいないあたしの心の内側を満たした。しかし言葉を発することのできる自分は自身の内のどこにもいないので、「読むな」と言う代わりにあたしはここから姿を消した。他者を追いやるのではなく、自分をこの場所から追いやった。


そしてそれから三ヶ月が経ち、その間いろいろと思うことや考えることがあった。それらを簡潔に書くことなど到底無理なので、すべてすっとばして結論だけ書いてしまうと、要は「人は孤独なのだ」ということなのだ思う。どれほど力を尽くしても己を理解させることなどできないし、他者を理解することもできない。というかそれ以前に、それはどうしたって実現不可能な、この世の理(ことわり)なのだろう。


今思えば、あたしはその事実からずっと目を背けてきたのだ。己の孤独感を振り払うため、ひたすら「人は理解し合うことができる」と盲目的に信じ込もうとし、一見無駄のように思える労力を使い続けてきた。そしてその思い込みが深かったからこそ「己が伝わらぬ」という事実を眼前に突きつけられ、もうどこへも逃げ場を失ったとき、成す術もなく一時自分をこの場から消すことしかできなかったんだろう。


だが、それから逃げることはできない。人は生きてひとつの肉体に縛られる限り孤独であり、それが生み出す感情と共生してゆくほかはない。あたしは「人に伝わらぬこと」に絶望を感じたけれど、その絶望を直視し、愛おしみ、寄り添い合うことができなければ、生涯、ただ嘆き悲しみ続けることになるだろう。人は孤独であるということ──それを受け入れること。そのために鬱々と考え込む長い時間があたしには必要だった。


そして三ヶ月間、いろいろな人の言葉を読み、思い、考え「自分だけでなく人は孤独であり、己のすべてを伝えることはできず、当然すべてが理解されることはない」ことをどうにか多少受け入れることができたとき、「それは絶望ではあるけれども、その暗闇の底には本当に闇しかないのか、何も手に触れるものはなく、ただその中をさまようしかないのだろうか」という自問がわいた。


しかし答えは否だ。ここを休んでいる間、web上で書くのとは別の方法で書き、自分が選んだ数人にのみ読んでもらっていた。選んだ基準は「この人には自分の言葉を読んで欲しい」とあたしが望んでいるかどうかが一番だが、その背景には「伝わらなくても読んで欲しい」という気持ちがあった。つまり伝わらないことを前提に、それでも読んで欲しいと願う人にのみ、言葉を投げかけた。「伝わらない」と絶望した上で、それでもあたしは「伝えようとすること」を望んだのだ。


要するにあたしは、「他人は自分を理解できぬ」とわかっていても、やはり理解してもらうことを諦めずに足掻くことを望むし、「人は孤独である」と知り、その悲しみの深さを垣間見ることができたがゆえに、「理解する・しない」とは別のところで、人の心が触れ合うことを望み、それに希望を託そうとしたいのだろう。そしてそれを裏付けるかのように先日、一通のメールをいただいた。


内容は伏せるが、あたし自身を理解してもらうこととは別に、「あたしが書くことには大切な意味があるのではないか」と気づかせてくれる文面だった。書かれた文章は書き手の手を離れ、読み手の心に波紋を生む。あたしの意図するところとは別のところで、あたしの言葉は人の心を震わせ、動かしている。人は孤独であるけれども、理解されないと絶望するばかりではなく、そこには確かに人と人が互いの心に何らかの作用を起こしているのだ。


開き直る、というと語弊があるかもしれないけど、あたしは「もういい」と思った。人は孤独であるけれど、その孤独を埋めるために理解されることを求めなくてもいい。あたしの言葉は誰かに届き、その心を動かす。そうやって人に触れることができ、孤独ではあるけれどひとりではないと感じることができるのなら、絶望という闇は決して完全に閉ざされたものではないだろう。


そしておそらく、五月にどうにもならないほどの絶望を感じなかったなら、その暗闇の中を何かを求めてさまよわなかったら、あたしはいつまでも「理解されること」にこだわり続け、孤独であることを受け入れられず、それから目を逸らし続け、己を切り刻むばかりの堂々巡りを続けることになっていただろう。人は孤独であるという絶望を受け入れること──それがどうしてもこのタイミングで必要だった。


くり返しになるけれど、あたしは今、理解されなくてもいい、と思っている。けれども「だから伝える必要はない」とか「理解される努力を怠っていい」とは思っていない。ただ、言葉を重ね、力を尽くしてさえ伝わらぬ、という悲しみに今度出逢ったとき、以前より心を痛めずにいられるような気がするのだ。それは絶望かもしれないけれど、それを受け入れることでまた、得られる何かもあるだろう。


世界は絶望で溢れている。人は孤独であることに震えている。見て見ぬ振りをして怯えるくらいなら、その苦しみに自らを投げ込みその身を切り刻んでしまえばいい。身体を貫くその痛みを誤魔化すことなく受け止めることができたなら、それは心を食い尽くそうとするものでなく、きっと、行く先を指し示す祝福だと知ることだろう。

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