こころの問題

ひりか

私はここにいます

はっきり言ってあたしは人付き合いがヘタだ。人間関係、人とのコミュニケーションというのが、上手くとれない。


なんでそうなのか、というと、自分が嫌いで信用できないからだ。自分で自分を好きになったり、信用することができないから、他人が自分を好きになるわけはないと、そういう方程式が無意識のずっと奥深くに根付いている。


それを教えてくれたのは昔働いていた会社の上司で、その人には本当にいろいろお世話になったのだが、まぁそれはおいておく。


自分で自分が嫌いといっても、社会生活に支障をきたすほど、どうしたら自分が嫌いになれるのか、わからない人も多いと思う。


あたし自身、自分を嫌いだということは教えてもらってわかったが、なぜ、そこまで嫌いになれるのか、ということはわからなかった。


その理由を教えてくれた──というか、考えるきっかけを与えてくれたのが、中島梓さんの『コミュニケーション不全症候群』という本だ。


ご存知のかたもいると思うが、中島さんというのはあの『グイン・サーガ』をお書きになっている栗本薫さんの別名義で、肩書きは評論家。


デビュー作の『文学の輪郭』ではむずかしい評論を書かれていて、だが、また文学に限らず、中島さんはいろいろな事柄についての本を出版されている。


乳癌を患ったときの闘病記『アマゾネスのように』とか、息子さんが大好きな戦隊モノに自らもハマった『わが心のフラッシュマン』とか、小説の書き方を指南した『小説道場』とか──。


およそふつうの評論家は書かないであろう、と思われる本が多いかもしれない。『コミュニケーション不全症候群』もその中の一冊で、1991年8月に刊行されたものだ。


まず、『コミュニケーション不全症候群』というタイトルからも想像がつくように、そこに書かれているのは──乱暴な言い方をすれば──人とのコミュニケーションに齟齬をきたす人々の分析で、といっても心理学用語を使ったものではなく、オタク、ダイエット、少年愛というものの背景、なぜそういうものが現われたのか、それとコミュニケーション不全についての関係が書かれている。


ダイエットについてはともかく──というのもあたしが本気で痩せたいなどと思ったことがないからだが、オタク、少年愛については非常に親しみ深い、というか首までどっぷりつかっていることなので、自分自身を分析してゆくようでとてもおもしろく読めた。


──などというのは嘘で。


そこに書かれていることがすべて自分に当て嵌まるわけではないが、できることなら知りたくはなかった、意識の上には昇らないよう押し込めてきたことばかりが書かれていた。


書いているのが中島さんだからおもしろくはあるものの、同時に正しくも深くもあり、自分に当て嵌まる見たくはなかったところを見ざるをえず、また、当て嵌まらないところについてはどう違うのかが見え──当然、それが気分のいいものであるはずがない。


というか。そこに書かれていることがすべて自分に当て嵌まらなかったことで、あたしは多少失望したのだ。


この本はあたしを救うことはできなかった。

そこに書いてあることが自分を苦しめる理由ではなかった。

ならなぜ、私はこんなにも苦しいのか。


本の中には次のような文が書かれている。


「JUNEジャンルにとって重要であると思われる作家たちは、マンガ家であるか、小説家であるかにかかわらず、すべて「長女」なのである(中略)そしてまた、それは──「しっかりものの、まじめな優等生の長女」は、すなわち拒食症患者の典型的な要因なのでもあった」


JUNEジャンル、というのは少年愛のことで、それをテーマにする作家、あるいは摂食障害をおこすのは長女であり、それはなぜかといえば、「長女はあるいは女性としての自分の自我に「長男」ないし「息子のかわり」としての役割を入り込ませることになる」からだと書かれている。


オタク、拒食症、少年愛といったものは『コミュニケーション不全』の症状であって、そのいくつかに当て嵌まる私が人とコミュニケーションをとることに苦痛を感じる要因──それは「自分で自分を愛することができないからこそ愛してくれる人を求めなくてはならない」からなのだが、この本に書かれている「長女」──私も長女だ──と私では決定的に違うところがある。


私は決してしっかりものでも、真面目でも、優等生でもなく、拒食症になることもなかった。そしてその理由を考えてみたとき、あげられることというのは、さきに書いた「「長男」ないし「息子のかわり」としての役割」というのが、すっぽりと抜け落ちているからなのだった。


本の中には「長女はつねに、ことにそののち男児を得なかった家庭では「長男がわり」「息子がわり」をつとめなくてはならない(中略)母を失えば母親がわりになり、男児を得なかった家庭では息子がわりとして家族を保護する立場にあるのが長女である」とあるが、私には弟がいる。


弟は幼い頃から活発で丈夫で、もし私がいなくなってもさしたる問題ではない、というよりも、祖父を中心とした家族はみな弟のことを『この家の未来』のようにあつかっていて、私がいることなどどうでもいいようだった。幸か不幸か、「長男がわり」という重責は私にはかからなかったわけだ。


だがそれが、やはり私は必要のない子なのだという思いを深めた。私などいなくても、家族はちっとも困らない。おとなしく、家の中で静かに遊ぶ──やがては家を出て行くであろう女の私は、期待などこれっぽっちもかけられず、ただ弟を引き立てるだけに、家族にとって必要だった。たぶん、私が憶えていない物心つく前から、いやもっというなら弟が生まれたときから、そうだったのだ。そして、私が私自身のままでは必要とはされない、愛されることはない、という感情が、無意識の奥に植え付けられた。


私は高校生の頃まで「男になりたい」と本気で思っていた。だが、それは正しくは、「弟になりたい」であり、弟になりさえすれば愛情を得られると、そう思っていた。そしてそうやって自分を否定しなければならないほど、自分は親に必要とはされていない、愛されてはいない、と思い込んでいたのだ。


事実がどうだったか、というのはこの際問題ではない。私が無意識の内にそう感じていた、というのが重要で、そして私は親──それも母親に、ずっと愛されていると思っていたが、そんなのは嘘で、愛されていると必死で思い込もうとしていただけ、愛されていると感じたことなどなかった、ということが問題なのだ。


いつでも弟の肩を持ち、父親と一緒に叱咤するだけで一度も包み込んでくれるようなことはしなかった母親──あたえられて当然の愛をあたえてはくれず、それでも親だからと、育ててもらったのだからと、親なりの事情があったのだからと自分を騙し続けて。


愛されていると感じてもいないのに、そう思い込んできた。偽りのものを偽りだと知りつつ、本物だと信じ込んできた。そんなあたしが。ほんとうのものを目の前にしたとき、ほんとうのものだとわかるはずがない。ただあたえられるだけのものだなんて信じられない。


「自分で自分を愛することができないからこそ愛してくれる人を求めなくてはならない」──そうなのだろう。そして私は愛してくれる人を求めつつも、その愛がほんとうのものだとは信じられず、これほどに苦しんでいたのだった。


そして──数年前、その辺のことを、自分は親に愛されていないと感じ、そのために人を好きにはなれないのだと、母親に話したことがある。私はただ、自分がそう感じていた、ということを聞いてほしかっただけなのだが、責められていると思ったのだろう、母親は「しかたがなかったんだ」をくり返した。


血と肉を分けてなお、わかりあえない──そのときに感じたのは動かすことのできない事実で、それも母親が育った家庭環境を考えればしかたのないこと、母もまた愛されることを知らずに育ち、人の親となり、そして今現在でさえ、愛すること、愛されることがわからずにいるのだろう、と思った。


そして──。


こういう自分自身についての心は、『コミュニケーション不全症候群』を読んだからこそわかったことなのだが、なにも読んですぐ、わかったわけではない。何年もかけて、重く蓋をした記憶をどうにかこうにか少しずつ引っぱりだし、そのときの自分は本当はどう感じていたのか、どれほど悲しい想いをしていたのか──思い出したくないからこそ忘れていた記憶を掘り返し──それはまぎれもない、自分のほんとうのこころだと認めてゆくことで、わかったことなのだ。


こういう感情の記憶は実際、見たくはないものだ。見たくはないからこそ、心の奥に深く仕舞い込んで意識の上に昇らないようにする。嫌な思い出、嫌な感情、それらは幾重にも包まれて思い出せないようになっている。だが、それでは苦しみが続くだけだ。


自分の心の一番深いところ、そこに封印された一番見たくはないものを見ないかぎり、それが自分にどういう感情をおこさせるかを知り、それが間違いなく自分自身のものだと認めることができないかぎり、少しも楽にはなれない。


『コミュニケーション不全症候群』──この本は自分自身を救うきっかけをあたえてくれる。目を背けていた事実を見るために背中を押してくれる。本そのものが救ってくれるのではないけれど、自分は自分にしか救えない、そしてそこでどんなに醜いものを見ようとも、それごと、すべて受け止めるよ──そう言ってくれているような気がする。


「私の怒りがもっともっと燃え広がればよいと思っています。そうしたらその火はきっと孤独のなかでとざされているあなたをあたためることができるだろうから。あなたにはきっとおだやかなぬくもりなどではなく、激烈な火こそが最初に凍りついたそのからだをとかすために必要であろうと思うから。私はここにいます」


 ──あとがきに書かれたこの言葉を読むたびに、私は涙ぐむ。そしていつだって『私はここにいていい』そう思えるのだ。

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