第8話 集え理系女子!バレンタイン革命
「だーかーらー、そこは余弦定理使うんだって言ってるでしょ」
「預言だったら答え教えてくれよジーザス」
馬鹿言ってんじゃないと葉一は本でまたぶたれる。
「三平方にしっぽが生えたくらいなんだから覚えなさいよね」
そう言ってお菊はペンを奪うとノートに書いてみせる。
「余弦定理はこう、わかった?」
隣を向くと顔が近かった。そして、いつもは三人でいる場所に二人きりだと気付く。
「なぁ」
「ん? どこかわからないとこあった?」
お菊は気にしている様子なく言う。
「ランにもこうやって教えてんの?」
「あんただけに決まってるでしょ」
あれ? それってもしかして――。
「ランはちょっと言えば解るのよ。あんたと違って」
――もしかしなかった。
「悪かったな出来の悪い生徒で!」
「べ、べつにそんなつもりで言ったんじゃないわよ。もう、次これやんなさい」
そう言うとお菊は自分の位置に戻って膨大な数式に向かってぶつぶつ言っていた。
そもそもこの『集え理系女子!バレンタイン革命』って何だよ。俺女子じゃねえし。渡されたテキストは物語が挟まれた数学書で、代数、解析を中心にガロア理論まで習得できるらしい。一昔前にこういう萌え系学問書がやたらと流行って専門家が競うように出版したそうだ。たしかに読みやすく対象年齢も低いのだが、解説を全部対話形式にしているため解説本が別売りになっており、手元にそれがない。
「なんで解答がないんだよ」
「だから教えてやってるんでしょ」
何度目かのやりとりをスイッチにノートへ向かう。
なになに、sin は伝えた人がスペルミスをしたもので、ふむふむ。――θってドクター○リオのカプセルみたいだな。――x をsin に置き換えてここをこうすると、おぉ! 積分できたあああ!
「我こそが死だ!(解けた的な意味で)」
チョップを食らう
「静かにやんなさいよ」
「解けたんだよ! この積ぶっ――」
「どこまですすんっ――」
とっさに振り向いた顔が一瞬見え、ゴツンという痛みに目をつむる。いたっと言おうとした口に温もりが触れてそれをさせない。
何かわからず顔を離し、ごめんと呟くように言うのが精いっぱいで顔を見ることはしなかった。なぜかそうした方がいい気がしたからだ。
――ただ口にぶつかったのが鼻だったのか、それともだったのか、その答えが顔に書かれている気が起こり、やはりその後も顔を見ることができなかった。
どれくらい経ったのか、どれくらいも経っていないのかもしれなかったが、必要なこと以外に何も話さず、初めて会った間柄のような変な余所々々しさのままいた。
明り取りから入る四角い太陽の光を眺めながらぼんやりと将来、このまま家を継いで働いて、誰か――誰かと家庭を築いていくのだろうかと、自分の親のことを今ある家庭を思い浮かべながら、そのぼんやりとした輪郭がいつかははっきりとしたものになるのだろうと考えると、なぜか今こうしていることが寂しくと同時に尊いものだと感じられた。
こうやって勉強することに意味はないのだろうか。ただの時間潰し、時間の共有。空しい。
「勉強して役に立つことなんてあるのかな」
先程までの空気も気にせずに今ある不安を漏らしたのは葉一だった。
「勉強に意味はあるのって? 勉強に意味はないわよ。ただね。目標をもつこと、それに向かって計画を進行していくこと。そして考え続けることが大事なの。目標を失うっていうことは望むことを諦めているか、現状で満足しているように自分を納得させているだけなんだって。些細なことでも目標をもってそこへ向かっていくことに意味があるっておじさんが言ってたわ。その過程であらゆることを考え、試行して、活路を見出すヒントが勉強にはあるって言ってたわ。私もこんな計算は菊屋じゃ使わないってわかってる。それでも多肢的な考えができることや理に適った考えをすることは必要だと思う」
「そっか。そこまでは考えてなかったよ」
考えの浅はかさに俯く。
「勉強のための勉強に意味はないんだって、だから勉強する価値がわかるくらいには最低限勉強しておきなさいって言われたのよ。そんな落ちこんでる暇があったら、ほら続きやろう」
お菊がノートを覗きこんでくる。ふわっと春の匂いが鼻をくすぐる。普段は暴力ばかりで強がるこいつの優しさが今は陽だまりのように心地良かった。
顔を上げる。近くにその顔があり、ぶつかったときに一瞬見えた表情がフラッシュバックする。お菊がこちらに視線を向ける。目が合う。少し気恥ずかしそうに笑むとおでこにキスをされた。
がらっと扉が開く音がした。背中をびくっとさせた勢いで席に戻る二人、扉に並ぶ二人の影。
「あれ、おじゃま、だった?」
輝喜が言う。
「おっせえよ」
「お前ら迎えに行ってたんだよ」
外もだいぶ温かくなっているようだ。開いた戸から心地良い風が流れ込む。
「あんたたちも早く始めなさいよね。バカ葉一ですら三角比まで進んだんだから」
「葉一まじ? まじ葉一なのに?」
「わりぃかよ! ていうかお菊までさりげなくバカとか言ってんじゃ――ふげっ」
分厚い本で顔をふさがれる。一瞬、お菊の顔が垣間見えた。
日もだいぶ高くなり、正午を知らせる鐘が鳴る。
「昼飯だあ!」
バタンと本を閉じ葉一が立ちあがる。
「ちょ、切りがいいところまでやっていきなさいよ」
「切りはもう、ついている」
なぞの決めポーズで言う葉一をぶん殴ったところで、そろそろ解散しようということになった。
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