第6話 うちの父はおかしくなってしまったんですよ!
朝、窓から差し込む光はおぼろで輝喜はまだ六時過ぎかと思ったが、目覚ましを見ると七時過ぎだった。どうやら夜中に雨が降ったせいだろう。放射されなかった熱が地中に残り、朝方の気温の低下で一気に冷え霧になったに違いない。窓を見ても爽やかな風景ははっきりと見えず、かすかに朝日が差しているだけであった。
仕方ない。昨晩寝つけずにあれこれ仮定を立ててみたもののどれも実証がなく意味をなさなかった輝喜は実験をしてみることにした。
実験というのは、対象の前後を観察し、いかなる条件が変化に関与しているかを見るものだ。この場合はもっと簡単に電磁気学を本当に理解しているのか質問をしてお菊の反応を見ようというにすぎない。
早々に仕度をするとまだ霧の晴れ切らぬ通りを横切り、風車小屋へと向かった。
風車小屋は以前来ていたころのままそこにあった。大きく感じた戸は小さくなっており、それゆえか入りにくさを感じさせた。
コン、人差指の間接で一度だけ叩いた。
「アマ」
中には聞こえないと思っていたのに、合言葉が返ってくる。
「カワ、――ヤギ」
「ヘイ」
戸が開くとラン太郎が顔を出した。
「来てくれたんだな。入れよ」
中は昔より物が増えていた。自分が来なかった間もここで三人の何かが詰め込まれてきていたことが窺い知れる。
「お菊と葉一はまだか」
「お菊は今朝捕まったよ――」
ラン太郎がぽつりと言う。
「捕まったってなんだよ? 悪事はたらいたわけじゃあるまいし」
「あのときと同じだ。――俺が、俺がお前に声掛けちまったからまたこんな」
「あのときとって、お菊が捕まったのって、うちの親か?」
輝喜には思い当ることが過去に一度だけあった。それはラン太郎も同じく、その一度で輝喜は風車小屋を遠ざけていたのだった。
「なんだよ――また、またぼくのせいじゃないか。ぼくが昨日余計なことを聞いたからきっと父さんは確かめに行ったんだ」
「確かめるって何をだよ」
二人は重たい物を床に置くように言葉を口にしていく。
「昨日、お菊が勉強できるから親の実家は何屋なんだって聞いたんだよ。そしたら電気屋のわけはないって言うんだ。たぶんそれで確かめに――」
「そんなことのためにか」
「そんなことのためにだと思う」
戸の下の隙間から朝日が少し入りこむ。二人の足元はまだ夜が掃溜められたように冷たかった。
「だからラン太郎のせいじゃねえよ。今回も昔も」
輝喜は抱えた膝に爪を喰い込ませた。
「あのときだって、ランの親のときだって原因はぼくだ。ぼくさえ余計なこと言わなければ――」
「輝喜は悪くねえよ。少なくともうちの親のときは違う。俺がもっと早く気付いてればよかったんだ。母ちゃんの病気のことも、その看病に疲れていた親父のことも――」
「でもぼくらはあの頃あまりにも無力だったんだよ。ぼくは、気付いてたんだ。――うちの親がランの両親の仲を妬んでいたって知ってたんだよ。それを知っていながらぼくは、余計なことを言ってしまったんだ」
ラン太郎は顔を上げると、そっかと言葉を漏らした。
「俺の親父も馬鹿だったけど、母ちゃんも馬鹿だったのか。それを勘違いした親父が弱かったんだな。俺さ、今朝親父とケンカしたんだ。お菊の家に輝喜の親が来たって聞いたからさ。何とかしてくれって頼んだんだよ。そしたら親父、間違ったことはしてないはずって、それしか言わないんだ」
ランの両親が離婚したと聞かされた日は今日のような冷える日だった気がした。
戸から伸びる朝日が二人の足元の数尺手前まで届いていた。
輝喜はラン太郎の手を引き寄せるとその戸へと引っ張った。
「なあ親父からも言ってやってくれよ」
「喜助は間違ったことはしてないんだよ。そのはずなんだ……」
ラン太郎は何かが気に入らなかったのだろう。
「何だよ! この前は大口叩いておいて人の家のことだとなんでそんな冷たいんだよ」
私にはわかっていた。よそ様のことに余計な憶測で口出ししてはいけないと――。
今朝、ラン太郎は言いたかったのであろうことを吐き出して家を飛び出していった。
家内は実家に戻ると言ってからすでに半月経っていた。内心、もう戻ってこないかもしれないとさえ思ってしまうのだが、そう決めつけることは裏切りだ。私には彼女を信じて待つことしかできないのだ。
つま屋はつま屋らしく、こうして大根を切っていればいいんだ。そう言い聞かせるように大根の葉をばさりと切り落とした。
前妻と別れたのは今日のような底冷えのする朝だった。あれもそうだ、私の不信が招いたただの誤解だった。
大根をかつらむきにする要領で薄く切っていく。ビデオテープを巻き戻すように。
振り返れば自分が愚かだったとわかることもその時は気付かない。妻が病床に伏していた日々が続くほどに、彼女と一緒にいる意味を歪曲させていた。治ると信じていた希望が、いつまで続くのかという不安へと変わり、治らないのではないかという絶望感へと変わっていた頃、偶然見かけたのが彼女と、喜助の姿であった。喜助の家から出てきた彼女を見たとき、なぜか私は、妻の気持ちが私から離れているのだと考えた。刹那的な悟りのような衝撃だったのかもしれなかった。私は浮気、不倫といった行為に対して嫌悪していた。それは若い頃のどろどろとした経験がそうさせたのかもしれなかった。人は苦しいときほど薄情なもの言いをし、気付けば気持ちも身も離れていく。洛陽の西門、夕日の中に呆ける青年のようなものだった。私の場合、仙人など現れなかったわけだが――その日から私は妻を疑った風な物言いしかできなくなっていた。相手を責めている自分を責めることが苛立ちとなり疑念と不信が絶望を彩る。毒蛾の汚い翅のように目をぎらつかせ、事あるごとに妻を罵った。彼女の弁解は私を疑心を増長させるのみで言葉としての機能は果たしていなかった。
私がここまでになったのはその一度の目撃でなかったのだ。喜助の家から出てくる妻を目にした翌日、その翌日、さらに翌日、翌日、翌日、翌日、翌日。おそらく目撃する前日もその前日もそうしていたに違いなかった。となるとその思考は誤った帰納法に従って過去未来に横たわる。その直線を現実という一点から感じた私は、彼女の何もかもが信じられなくなったのだ。
そして確信へと至ったものは、彼女にそれを打ち明けたときの、唯一機能した一言、それであった。
彼女は確かに言った。喜助とは幼いころから馴染みであった。一度は縁談もあった。彼は職もよかった。ただ――。
言葉が機能したのはそこまでだった。本当ならしっかりその言葉を最後まで聞くべきだったのだろうけれど、その時の私はすでに心を侵されていたらしい。葉太郎には心が腐ってるとまで言われた。改めて思えば確かにそうだったのだ。
それからの私は酒におぼれ、暴力を揮う亭主ずらだけの腐った野郎になり果てていた。それをどこから知ったのか、彼女の両親が落ち着くまでといって彼女を家に戻してしまった。それからも彼女は喜助の家に通い続けていたのを見かね、私は離婚を申し込んだのだ。
なんと浅はかで愚かだったのだろう。今となっては笑い話にさえできぬ話だ。
そんな腐れ野郎だったときに手を付けたのが今の家内だった。一度の関係を理由に彼女は身ごもったと言い私の家に転がり込んできた。妻が、前妻が実家へ戻っていった翌日のことだった。
あの時もラン太郎は何か叫ぶように私に言い放って飛び出していったのだった。思い出せないが、その後電気屋が来てこっぴどく責められたんだ。そして私はやっとすべてが誤解と嫉妬心の生んだ喜劇だったと知ったのだった。電気屋は、ただ自宅の専属医に妻の病気を診てくれるようにしていただけで、妻が言っていた言い訳は真実だったのだ。
それから私は慎重に行動するようになったのかもしれない。自分のことに関してはそれほど変わっていはいないが、家内がこうして戻らないこともまた理由があるのだろうと思うと何も言ってはならないし、お菊の家のこともそれ相応の事情があるのかもしれない。それを知らない私がとやかく首を突っ込める話ではないのだ。何かの時には葉太郎が助けてくれるだろう。いつでもあいつが真ん中に立って何とかしてくれていたじゃないか。昔も今も。――私はつま屋なんだ。
今朝開け放たれた戸からラン太郎ともう一人の少年のシルエットが入ってきた。
その影が手を伸ばす。
「親父、行こう」
ラン太郎が言う。隣の影も手を差し出す。昔の自分がそう言っているようにすら聞こえた。
「私はつま屋になったんだ。表立ってどうこうする役じゃないんだ」
己に言い聞かせるように答える。
「つま屋だから何ですか。つま屋だろうが電気屋だろうがこの町にひとつしかない職をやってきたんじゃないんですか? 代々継いできた職というだけでえらさなんて決めちゃいけないんじゃないんですか?」
影が言う。
「もちろんそうさ。理由があるのは私個人でのこと、つま屋も電気屋も関係ないよ」
人影にぼうっと顔が浮かぶ。それは、間違いなく電気屋の息子であった。
「輝喜、くん。ラン太郎、お前たち仲違いしていたんじゃ――」
その組み合わせに驚いた。ついこの間まで何年もいがみ合っていた二人が何をどういう風の吹き回しか並んで立っている。私を連れ出すために。
「そんなことはもう関係ないんだよ親父。今は輝喜の親を止めに行くのが先だろ」
そんなことと言えるあたり子どもらしかった。いざこざなどなかったように、ケンカしても次の日にはもう仲直りしているような、子どもらしい――私はいつから大人になってしまったのか。この子ができてから、いやもっと前からか――子どもなのは私の方だと感じた。子どもが助けを求めているんだ。簡単なことじゃないか。そう思う反面体は意固地になったまま動かない。
「それだったら葉一くんのお父さんに頼んだ方が、それに輝喜くんのお父さんは何も間違ってなんか――」
「うちの父はおかしくなってしまったんですよ!」
輝喜が声を張り上げる。
「あなたには父を正気にしてもらう責任を果たしてもらわないといけないんです。子どもの我がままかもしれないけれど、どうか父を説得してもらえないでしょうか」
電気屋の息子はそう言って頭を下げた。親の問題だというのに――。この子たちはいつから大人になっていたのだろうか。
たかだか喜助に一言言ってやるだけじゃないか。この前だってそうしてやったんだ。こいつらはこの町の子だ。ってことはうちの子じゃないか。
一歩足を前に出すと体は自然と前に出た。何の違和感もなしにあたり前のようにぐいぐいと踏みだし通りを歩ける。――なんて天気のいい朝なのだろう。
ラン太郎と輝喜は顔を見合わせるとにんまり笑って父の後を追いかけた。
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