第4話 図書館でばったり

 秋にしては布団の恋しい寒い朝だった。

 葉一は猫のように蛇口から水を手に顔を洗う。さむい、寒すぎる。仕度を済ませると炊飯ジャーからご飯をよそいお握りにして頬張りながら家を出る。

 畑へ向かう途中でお菊の店の前を通り過ぎながら声を掛ける。店支度をするお菊の母が先に行ったと教えてくれた。

 気付けば息は白くなっており冬の近いのを覚えつつ畑に着く。すでに子どもらが集まっておりどうやら葉一が最後のようだった。

「ごめん、遅くなった」

 集まっている中からラン太郎とお菊を見つけると駆け寄る。

「おっそーい! あんた迎えに来るって言うから待ってたのに来ないんだもん」

「何だよ、先に来てたくせに」

「まあまあ」

 いつもの三人の後ろには大根、白菜、野菜畑が広がる。

「それじゃあみんなそろったところで、向かって右の人たちが大根、左の人たちが白菜を採ってください」

 畑の持ち主であるラン太郎の父がみんなの中央で指示を出す。

 ラン太郎の父は実家の農家を今でも手伝っている。そして国政のひとつである子どもの社会体験に貢献していた。簡単に言ってしまえばボランティアだ。そもそも町村ごとの義務なので、どこも人手のいる農作業の手伝いを子どもにさせるところばかりというのが現状だった。

「これから寒くなるのに畑はきついよなぁ」

「それ毎年言ってるだろ」

 引き抜いた大根をカゴまで運びながら二人は話す。少し遅れてお菊がカゴのところまで来た。

「ねえ、終わったら図書館に行かない?」

「お菊は本が好きだよなあ」

 冷やかすでなく葉一が言う。

「本はいいわよ。この世界のことが知れるんだもの」

「お菊が物知りなのも本の御利益だもんな」とラン太郎。

「俺は本読むなら外で遊んだ方が楽しいけどな。実際にこの目で見てみなきゃ信用ならないな」

「まあ葉一が本なんて読んでたら天変地異でも起きそうだもんね」

「なんだよそれ」

 午前の仕事はそんな言い合いのうちに終わり、貰った大根と白菜を家へ置きに戻り、お菊の家に集合ということになった。

「すぐ来ないでしょ。中で待ってたら?」

「いいの! お母さんは出てこないでよね」

「はいはい」

 店先の菊を剪定しながらお菊の母は嬉しそうにしていた。

「ちょっと図書館行くくらいでそわそわしちゃって、いい歳なんだからデートくらいしたら?」

 うっさい! 手に持った本で母の背を叩く。ちょうどそのとき葉一とラン太郎がやってきた。

「よ、よう」

「あ、……(最悪なところ見られたぁ)」

「あらヨウちゃん、ランくんいらっしゃい。お菊のことよろしくねぇ」

 母は娘の耳に口を近づけ、

「ねぇ、どっち? どっちがタイプなの?」などと冷やかす。

 お菊の顔はみるみる赤くなっていく。本を持つ手がふるふると震える。

「おっ母さん! もういい加減にしてよぉ」

 背をどんどん叩きながら奥へ追いやる。あらあらと言いながら退場を強いられた母は奥へと入って行った。

「もう。変なお母さんでごめんね」

「いいお母さんじゃないか。なぁ?」

「ああ」

 そうかなぁ? 葉一に言われると、あんなお母さんでもいい母親なのかとお菊は思った。

「それじゃいこ」

 三人、学校近くの図書館までいっせーので競走をはじめた。


「葉一もランも遅いよ!」

 図書館にたどり着くとけろっとした顔でお菊が待っていた。

「は、早い、から」

 息絶え絶え言う。たしかに途中までは並走していた。図書館前の長い上り坂までは。

「男二人してだらしないわねえ」

 息ひとつ乱さずお菊が言う。

「その脚力と、スタミナは、どこからくるんだよ」

 読書好きな女の子。ただしスタミナはメロス。履物はパンプス。お菊が幼い頃から全力疾走で葉一やラン太郎に家へ行っていたことはその実有名で、通りでは名物のひとつとなっていたけれど当の二人だけは知らないでいた。

 図書館は受付兼事務員が一人。児童書と専門書の二部屋のスペースがあるだけのそれほど広くはないものである。ただ、近隣の町村と書籍の入れ換えをするため、スペースの割りに通いごたえがあるらしい。

 葉一は児童書部屋にある小さい椅子に腰かけて何やら眺めていた。お菊は受付で返却を済ませ、そっと後ろから覗きこむ。

「なぁに見てんの?」

 自然とあごを乗せやすい頭に置く。

「なぁ、このオーロラって本当に空に見えるのか?」

「葉一はあほだなぁ」

 ラン太郎が本を手にやってきた。持っているのはどうやら調理の本らしく『かつら剥き入門』と書いてある。

「あほって言った方があほなんだよ、知らねえのかー」

 葉一は図鑑に夢中らしく、とりあえずといった感じで返すだけだった。頭の上のお菊すら気にもしていなかった。

「オーロラはねぇ、南極と北極でしか見れないんだって」

 頭の上であごをカクカクしながら喋る。

「寒くないと見れないのか? 冬になったら見えないかなぁ」

 頭蓋骨に響かせているはずなのに葉一はまったくお菊の存在に無関心だった。

「寒さじゃなくて太陽風? 磁気? なんかそんなのが関係してるらしいわよ(早く反応しなさいよアホ葉一ぃ)」

「へぇ、お菊は物知りだなぁ。それにしてもこんなカーテンみたいのが空にぶわぁってなるんだろ? すっごいなぁ」

 目をきらきらさせ夢中になる葉一を子どもっぽくてかわいいなと思ってしまう。何かに夢中になった葉一は周りが見えなくなってしまうことはよく知っていた。

「オーロラかぁ。見たいなぁ、すげぇなぁ」

 図鑑は様々なオーロラの姿を載せていた。気温や大気の様子によって色形を変えるそれは、葉一でなくとも心奪われるもので三人はしばし何も言わず見入っていた。

 時計が正午を告げる。町のサイレンが十二時を知らせる。

「お昼だからそろそろ帰らなきゃだな」

 ラン太郎が言う。

「もうお昼かあ、午後はどうするの?」

 葉一も図鑑からやっと目を離した。

「そうだよ、輝喜討伐会議!」

 本気で忘れていたのだろう。お菊は呆れつつ言う。

「まだやる気だったの? 放っておけばいいじゃない」

「いやいや引き下がれないでしょ」

「いやいやってあんたたち昨日おじさんたちに迷惑かけたばかりじゃない」

「なに、親父たちだって昔からの付合いだ。気にすることはないさ」

 お菊はふと思った。

「おじさんたちなら何か知ってるんじゃないかしら。だって、だって輝喜と疎遠になったのだって……」

 お菊はそこまでしか言えなかった。

「輝喜との関係は別に親父は関係ないと思うけどな。もとはと言えば、あの人――俺のお袋が悪いわけだしさ」

 ラン太郎は何食わなそうな顔で言う。

「まあランがそういうんだからそうなんだろう。とりあえず昼飯食べに帰ったら父ちゃんに聞いてみるよ俺」

 葉一がそう言って立ち上がったちょうどその時、

「あれあれ? 昨日ぼくの親に叱られたラン太郎君じゃないですか」と輝喜が現れた。

「輝喜! あんたまたそうやってケンカ売るようなこと言う」

「げっ、お菊もいるのかよ」

「げっとは何よ!」

 お菊の勢いに押されるように輝喜の強気な態度は消えていく。

「――輝喜。お前さ、昔みたいに――」

 葉一がぽつりと言う。

「ん? 葉一なんか言ったか?」

「いや、何でもねえ」

「何だよ、人の名前呼んでおいて。まあいいや、俺はお前らみたいに暇じゃないんでね。電磁気学の本を借りに来ただけだから」

 そう言って去ろうとする輝喜に、お菊は聞き慣れない言葉を唱え始める。

「rot H=j+dD/dt rot E=-dB/dt div D=0 div B=ρ アンペールの法則、電磁誘導の法則、電場、磁場に対するガウスの法則、この四つであってたかしら」

「なんで菊屋がマクスウェル方程式なんて知ってんだよ!」

 驚きの声を上げて輝喜はお菊の方を振り返る。

「何でって、図書館に置いてある本だからに決まってるじゃない」

「いやいやいやいやおかしいだろ。一般書向けじゃないんだぞ? なんでお前なんかが読めるんだよ」

「物理書も数学書も読むだけなら簡単じゃない。書いてある通りに意味を汲んでいけばいいんだから。あと言ってなかったかしら? 私のお母さん嫁いだから実家はそっち系なのよ」

 輝喜は口をぱくぱくさせている。言葉が出ないのだろう。

「なんだかわからなかったけどお菊ってすごいんだな」

 葉一に言われ、お菊はえっへんとポーズをとって見せる。

「俺もこっそり勉強してるけど、まだまだお菊には敵わないな」

 とラン太郎は知っていたふうに笑っていた。

「え? 二人ともそんなに勉強してんの?」

 輝喜と同じ口になってぱくつかせる。

「だって葉一勉強一緒にしようって前に何度か誘ったけどその度に断るんだもの。それに昔から言うじゃない? 貧しい家の子ほど賢いって」

「輝喜も何か言ってやれよ! こんなの絶対おかしいだよ」

「葉一、喋り方がおかしくなってるからってそうじゃなくて、何で大学レベルの知識あんだよ! ぼくですらまだ高等学校レベルの勉強だけで遊びで物理読み進めてるだけだぞ」

 お菊の知識レベルと家業の両サイドからショックを受けた輝喜はすでに敵意もしがらみも忘れていた。

「なあ輝喜、俺も二人に追いつきてえよお」

 二人においていかれていること、出されたドリルだけやって中三レベルで満足していたことの両サイドからショックを受けた葉一も敵意もしがらみも忘れて輝喜にすがりついていた。

「いや、葉一。ラン太郎ならまだしもお菊には追いつけない。残念だが諦めるんだ」

 輝喜は膝を落とした葉一の肩を掴んで言う。

「ひどいやお菊。腕っぷしだけじゃなくて勉強まで俺以上だなんて」

 ゴチンと☆が飛ぶ。

「誰が腕っぷしが強いって?」

「いいえ、なんでも、ありません」

 それを最後に葉一は床に伏した。

「くそお。葉一はともかくお菊に先を越されてるのは電気屋としてもぼく個人としても悔しいな」

 腕組みをしてぶつくさ言っている輝喜にお菊はにっこりとほほ笑んで見せる。

「あら、悔しいならお勉強一緒にしてあげてもいいのよ?」

「はい! はい! はい! やる、やります。いつですか? 今でしょ! いや、いつやるんですか?」

 がばっと葉一は起き上がりお菊に土下座をするような格好でたずねる。

「葉一も来るの? いいけど、あんた算数ドリルとかじゃないわよね?」

「大丈夫です。算数は卒業しました。数学です、さんぺいがたの定理です」

「……あぁ、三平方ね。ならすぐラン太郎に追いつきそうね。いつも木曜の午前に秘密基地でやってるから。ね、輝喜もいらっしゃいよ?」

 秘密基地と聞いてか、輝喜がぴくりと反応した。

「まだあんな場所使ってたのかよ。まぁ気が向いたらな」

 そう言って輝喜は今度こそ立ち去ろうと背を向けた。

「合言葉、変わってないからな! 来いよ」

 ラン太郎が、輝喜の背に向かって声をかけた。

 聞こえなかったのか、聞こえたのか、輝喜は反応を示すことなく本棚の向こうへと行ってしまった。

 葉一はさんぺいじゃないのかよと、まだお菊に泣きついていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る