第2話 想い想われ



 他者に心を奪われるという事は即ち人間一人を動かしている重要な器官、心臓を掴まれたに等しい。

 もしかしたらその対象は物かも知れない。

 世に出回る多くの名画や書物の数々、それに一様に同じものなどない窓から広がる景色等もそうかも知れない。

 だが得てして人間の多くが心を奪われる対象は同じく人間なのだ。更に言えば、その感情を多くの人間が恋だとか愛だとか名前を付ける。


 そうなのだ。


 所詮は私もそうだったのだ。

 彼に心を奪われて、そしてその心は殺されてしまったのだ。

 なんて悲しいことなのだろうか。

 それでも、いくら心が殺されようと、私は私の体をも持っていくようなことはしなかった。つまりは今までと同じ、この体だけ残し、心はどこかへ行ってしまった。

 死んだ人とはもう二度と会えないのと同じで、なくした心を取り戻すことはできないのだ。

 それは同時に彼に向った恋心を無かった事にはできないという事だ。

 人によっては体調を崩すこともある。身体の一部に穴が開いてしまったのだから、身体的にも影響が出るのは思ってみれば当たり前の事なのかもしれない。

 そうなってしまう程、唯々、それは悲劇的な事なのだ。


 しかし私の場合の恋については対象となる相手も人間、その人間はまた違う誰かに心を奪われている。


 そしてその相手も彼に心を奪われている。

 きっと彼らは幸せなのだろう。唯々それは幸福的な事なのだ。

 そしてその幸福と同じだけの不幸せを私に運んでくるのだった。いつか、いつかこの凍るような思いを溶かしてくれる人が現れるまで、その時が来るまで私の心は半永久的に冷え切り、凍りついたままになるのだ。


 幼少の頃からあまり明るい方ではなかった。


 それなりに友人もいたが、それも高校へ進学すると疎遠になり、煌びやかな高校生活の中で私と友達になりたいと思ってくれる奇異な人は存在しなかった。


 目に見えて暗く、運動が苦手で体系はお世辞にも良いとは言えない。

 たとえるなら小型の冷蔵庫のようだ。かろうじて教室の机の椅子からは少しはみ出す程度で済んでいる

 黒く、肩まである髪の毛を切りそろえ、前髪は長めだがその所為で人相があまり分からなくなってしまっている。もちろん髪型については故意にそうしている部分がある。できるだけ他人に顔を見られたくないからだ。

 何を考えているか見透かされるのを恐れて、人の目を見ることもその逆も、どうも苦手なのだ。


 極めつけはこの眼鏡だ。

 あまり素材が良くはないレンズは曇りがちで、淵は何の飾り気もない。


 どこをどうとっても冴えない女子高生だった。

 それでも何とか通い続け、気づけばもう高校三年生の春を迎えることができた。

 出来るだけ目立たないように、息を殺して生きるようにすることで、今までいじめなどの対象になることはなかった。

 この年になるまで、その凄惨な行為の所為で命を落とした者も見ているし、学校と言う社会から離脱した者も見てきた。

 誰に対しても無害な人間になるために今まで努力を惜しまなかったし、どうにかやって来れたのだ。


 それだけが唯一の救いなのかも知れない。


 しかしその代償ともいうべきか、皆の興味の対象から外れた私はこの教室の中でも透明人間なのだ。

 この状況に満足しているつもりで、それでも、時々叫び出したいほどの孤独感に襲われることがある。

 このまま社会に出たとしても、自分を受け入れてくれる場所ははたして存在するのだろうか。

 勉強だけはと思い、それなりの成績は取り続けているものの、けしてトップに立つことはできないでいる。

 大学進学も考えるには考えたが、今の自分の家はお世辞にも裕福では無く、どちらかというと貧乏そのものだ。

 それこそ学費を払い、その日暮らしを余儀なくされている。

 学費の助けになればと何とかアルバイトの口を見つける事が出来たのは奇跡に近い。しかし当然の様に予想できるだろうが考えてみれば高校生の、しかもこんな私を雇う所だ。その環境も賃金も劣悪でしかない。

 女子高生と言うだけで、仕事を選ばなければきっとそれなりに稼ぐ事が出来たのだろうが、私にはそんな稼ぎ方をする度胸はまして、器量は皆無だ。誰が好き好んでこんな冴えない人間を女として見るのだろうか。


 どうしてこうもついていないのだろう。


 人間には不幸と同じだけ幸福が用意されているのではないのか。

 自分の人生は不幸せの連続だった。

 しかし自殺と言った道を選んだところで、今現在病気に蝕まれ、入院する費用もない母の面倒は誰が見るのだ。


 私には分かっている。

 こうなってしまったのは私の責任なのだ。


 どんなに環境が劣悪だろうが、真っ直ぐ生きて社交的、そして周りに愛をふりまける人間はこの世界に五万といる。

 環境に甘え、こんな性格に育ってしまったのは私の責任なのだ。


 母はまして、もっと前に死んでしまった父、つまり私の両親に何ら責任はない。

 私が母を看護し、その資金を稼ぎ、こうして孤独に苛まれるのは全て私の責任なのだ。

 

 だから、だからこそどうしてもあの時の私の行動を、私自身が許すわけにはいかない。

 期待していなかったと言えば嘘になる。

 こんな私が変われるのではないのか、こんな私でも楽しみをもっていいのかと。


 私はただ、話しかけるきっかけが欲しかったのだ。

 

 机の中に忘れた課題プリントを取りに、誰もいない教室に入り込んだ私に、それは夕日の茜色に照らされて光を放っていた。


 独特の飾りのついたシャープペンシル。


 彼の机の横に落ちていたそのシャープペンシルを見た時、これだ、と思ったのだ。何て浅はかだったのだろうと思う。

 顔を覆いたくなるような羞恥心が浮かび上がる。


 私は彼の、海島渚みしま なぎさ君の秘密を知っていた。正確には覗き見てしまった。私が所属する美術部の準備室で画材を用意している時だった。


 もしかしたら彼の性格からして秘密にすらしていなかったのかもしれない。

 けど、一般的には異常だと責め立てられるその秘密を勝手に守って、勝手に良い気になっていたのだ。

 私がその秘密を知っているという事を彼は知らない。

 けれど、私はその秘密を守る事で、彼を守っている気にさえなる事が出来た。


 この学校中の人気者で、生徒会では会長も務めている。誰とでも分け隔てなく接する彼の事を、もしかしたら女子のほとんどが好きなのかもしれない。


 そんな彼の秘密を自分だけが、この私だけが知っている。

 それで何故優越感に浸らずにいられるというのだろうか?

 そうして彼を人知れず観察している内に、彼に好意を寄せている自分に気が付いた。

 それは始まった瞬間に終わりを迎えている恋でもあった。

 私は私の心にさえ不誠実だったのだ。 


 シャープペンシルを拾うと周りを見渡した

 そうして私にきっかけをくれたそれを、愛おしいような気持ちで鞄の中に大切に大切にしまったのだった。


 駆け出していた。


 辺りはもう暗くなってきていて、町中には夕飯だろうか、良い匂いが立ち込めている。


 ふとプリントは結局持ってくるのを忘れてしまった事に気が付いた。


 しかし、もしも彼がコレを忘れた事に気が付いて、引き返してきたとしても、私にはまだ彼と話しをするだけの勇気も心構えも無い。


 だから逃げるように教室を出てきたのだ。

 何時振りだろうか、こんなに走るのは。

 身体が重く、そして呼吸もままならない。

 道行く人の注目を浴びているのも分かっている。

 汗が滲み、髪の毛がみっともなく顔に張り付いている。

 何処かで誰かに笑われた気配がした。

 きっと私の事を笑っているのだろう。

 構っていられなかった。


 いつもの私なら、絶対にこんなに目立つような事はしない。それでも変に高まった胸に後押しされながら、その時思った事がある。


 やはり彼と関わる事で、私は変わる事ができるのかもしれない、と。


 沢山の人ではなくてもいい、数人でいい。それでも無理ならたった一人でも。

 誰か私を必要としてくれる人を見つける事ができるかもしれない。


 このどうしようもない孤独な世界から抜け出す事ができるかもしれない。

 その時の私は、どうしようもないく、本当に救いようがないくらい


 胸を高鳴らせた愚か者だったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼と彼と彼女と私 古宮まこと @wada9232

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ