流れる雲
@bagu
第1話
『私の事、何も分かってない癖に偉そうな事言わないでよ』
頭に血が上って、母親に浴びせた言葉はそんなもので。
ありきたりな文句だったが、効果は絶大だった。
その言葉を発した後も興奮は冷め遣らず、母親からどんな反論が来ようと負けるつもりは無かった。
しかし、母親は何も言わなかった。何も言い返して来なかった。
ただ、眼を向けてきた。
向けてきた母親のその眼は、どんな言葉よりも雄弁に意思を語っており。
その眼が恐ろしかった。
その眼に震えた。
これまで母親から向けられてきた、どんな感情とも異なる視線が突き刺さった。
瞳の色に込められたのは『失望』という、言葉にすれば2文字の簡潔なものだったが。
それが何よりも恐ろしかったのだ。
* * *
初夏。
6月の半ば、日曜日。所によっては梅雨もまだ開けていない季節。太陽と共に、気温も上昇の一途を辿っていた。
水崎 仙華はその日、通っている学校近くの運動公園を訪れていた。電車と自転車を乗り継いで、家から数十分のコースである。
「暑い…………やっぱり図書館にすれば良かった」
前日よりもかなり気温が上昇し、春の陽気に慣らされた身体にはうんざりするほど暑くなっていた。一週間前と比較すると、気温は全国的に5℃以上も上昇しており、夏の始まりを嫌でも実感させられた。運動公園を訪れたのは失敗だったかな、と仙華は少し後悔したが、今から市立図書館へ行く気力も無いし、家へ戻るなど有り得ない。どうせ帰っても誰も居ない。
仙華は地元の中高一貫の女子中等部に通う2年生。先月に誕生日を向かえ、14歳になっていた。引き締まった眉と気だるげな瞳の対比が妙に印象的だ。顔立ちはそれなりに整っており、総じて美人と言えた。少なくとも、あと数年も経過すれば、その評価はどんな年齢層の人間からも、揺ぎ無いものになる事だろう。
仙華はお世辞にも真面目な生徒とは言えなかった。それは髪の色を見れば、良く分かる。元々は黒だった髪の色は、今や茶色になっていた。髪の長さもそれなりに有るので、かなり目立つ。
染めたのは今年の春頃。両親との不仲が原因で…………つまりはただの反抗期である。そうは言えども、不良という種類の人間にはとても成りきれて居ない。不真面目に振舞ってはいるが根は真面目で、悪さのやり方など分からないのだ。髪を染めるという、それが一番分かりやすい両親へのパフォーマンスであり、仙華の限界でもあった。後は、学校へは行くが、授業には出席しない。それくらいか。笑ってしまうくらいに地味なセーラー服も、ちゃんと着用しているのだった。
仙華が訪れた運動公園は広大な敷地内に色々な施設が併設されたもので、全国の様々なスポーツ競技者達からそれなりの認知を受けていた。球状ではプロ野球が開催されるし、陸上競技場ではインハイやインカレ、国体なども開催される。
ちなみに、仙華は運動競技従事者では無い。中等部では必ず所属しなければならない部活動も文化部である。そして、文化部でも吹奏楽などの体力を使うものでもなく、大した理由も無く文芸部員として活動していた。部活道への出席率は絶望的に悪く、ほとんど幽霊部員扱いなのだが。まあ、それも不真面目に振舞っている事の一環ではある。
そんな仙華がどうして運動公園に訪れたかと言えば、これも大した理由は無い。
単に家に居たくなくて、この運動公園内の小高い場所にある展望台からの風景を気に入っていた、というだけだ。立派な理由と言えばそうだが、大した理由では無い。少なくとも、街で遊び歩きたい同級生達に理解されるのは難しいだろう。仙華の土日は大抵、この場所で本を読んで終わる。
ともあれ、展望台に設置されている屋根付きベンチが仙華の居場所になってから、一年と少し。そこから見える風景はこれまで何一つ変わらなかった。休日とはいえ、特に喫茶店や屋台が営業されている訳でも無い展望台に、わざわざ訪れる人間も、まあそれ程はいなかった。
しかし、今日この時に限って、仙華が何時も見渡している風景は激変した。
とはいえもちろん、現実的にはそれ程の物理的変化が有ったわけでは無い。隕石が街に降ってきたとか、化学工場が大爆発したとか、そんな事では全く無い。
何時の間にか、そこに人が居た。
日傘を差した少女が、ベンチの前方、街を一望できる柵の前に立っていた。ただそれだけ。
だが、少女が立っているというただそれだけの事が、仙華に与えた衝撃は計り知れなかった。
「綺麗…………」
思わず呟いてしまうほどに、その少女は美しかったのだ。彼女自身の容貌は少し距離があって、その仔細をこの時点で確認出来てはいなかったのだが。少女の全身から醸し出される儚さが、初夏の日差しとそれを防ぐ純白の日傘、ドレス調の、やはり純白のワンピースと合い、良く出来た写真の様にも視えたのだった。出来すぎていると言っても過言では無かったかもしれない。カラスの濡れ羽色の、腰まで伸びた長く美しい髪がまた、それを助長している。
仙華は茫然として、自分が実は熱中症かなにかで既に死んでいて、今見ているあの少女はこの世ならざる者なのでは無いかと疑った。
もちろんそんな筈は無く、少女は現実に存在しているし、仙華だって当然死んではいなかった。だが、そうでは無いかと疑わせてしまう何かが少女に有ったのは確かだ。
その少女が何をしているのかと気になった。気になって、まじまじと見てしまう。、他人の行動が気になる事など、ここ最近では滅多に無い事では有ったため、自分の心の動きに少しばかり驚いた。
少女は日傘をゆっくりと回転させて、空を仰ぎ見ていた。空に何か有るのだろうか。仙華は気になって上を向いたが、空にはまばらに雲が散っているだけで、他に何も無い。未確認飛行物体どころか、普通の飛行機すら飛んでいない。少女が仙華の見えていない何かを見ているのでなければ、純粋に空を仰ぎ見ているというだけなのだろう。もちろん、馬鹿になどはしない。仙華だって、ただ気に入っているという理由で、同年代の少女達には理解されないであろう休日の過ごし方を実践しているのだ。むしろ、風景を楽しみながら本を読む、という仙華の行動と目の前の少女の行動は(本当に少女の行動がそうで有るとするならば)似ていると言えた。
そう考えると、僅かだが親近感を抱かなくも無い。見た所、同い年くらいだろうか。他人の事を言えた義理では無いが、仙華はあの少女が、どうして日曜日にわざわざこんな人気の無い場所を訪れているのかが気になった。
声をかけるか、かけまいか。元々、仙華は人見知りをする方では無いが、自分から積極的に声をかけていくタイプでは無い。自分と何の関わり合いの無い少女に、初対面で声をかけるのは少しハードルが高かった。
しばし黙考していると、ふいに少女がこちらを見て、仙華と眼があった。その顔を見て、その眼を見て、初めてはっきりと確認出来た少女の容貌はお世辞抜きにとても可愛らしく、心臓が高鳴った。そして、どうしてだか妙な不安にも襲われた。それは少女の瞳に映し出された光が、あまりにも儚く、今にも崩れ落ちてしまいそうだったからかもしれない。
そして、実際に崩れ落ちたので、仰天した。
こちらを見て、少し微笑んだ様な気がした少女に見惚れていた仙華だが、背筋が凍り付く様な感覚に言葉を失った。
少女は地面に膝を付いて、右手で額を抑えていた。遠目から見るにも苦しそうだ。
「ちょっ、ちょっと、大丈夫?」
気後れする等と言ってはいられない。仙華は慌てて駆け寄った。日除けの屋根から日差しの下へ出ると、顔をしかめたくなる程の熱気が襲ってきた。恨み言を言っても仕方ないが、いくらなんでも暑過ぎる。
少女の状態を確認するために、仙華自身も膝を付き、彼女の肩に手を置いた。
そこで、ふわりと良い香りが仙華に届いた。それが彼女の香りなのだと気が付いたのはすぐ後だ。爽やかな清涼系の香り。芳香剤の様に下品でも無く、香水の様に上等なそれでも無い。それだけに、それがこの少女の香りなのだと意識させられて、その生々しさに頭が蕩けそうになった。
「ど、どうしたの? 具合、悪いの?」
少し動揺して、言葉に詰まってしまったが、何とか言えた。
聞いておいて何だが、見るからに具合が悪そうだった。少女の肌は病的なまでに白かったのだが、それ故に顔色の悪さがハッキリと理解出来た。暑さのせいでは無い、何だか妙な汗もかいている。
触れた手から伝わる少女の感触に、硬さと違和感を覚えたが、前者の理由は直ぐに判明した。顔色と同様、見れば分かる。痩せているのだ。病的なまでに、とは言わないが、頬がややこけている。上腕のあたりなど、人の肉から感じられるべき柔らかいそれが無い。かといって筋肉の弾力で硬いわけでも無く、柔軟性の無い、ただ硬いだけの感触しか返ってこない。後者の理由は考えても分からなかったが、これは少女の体温が低いためであった。
一瞬、病人が病院から抜け出してきたのかと疑ったが、どうだろうか、仙華には判断がつかなかった。
(病院から出てきたのなら、何か、そういう病院着みたいなのを着てるはずよね)
自問するが、当然答えが出るはずもなく、
「喋れる? 歩けないなら、救急車呼んだ方が良い?」
とりあえず、語りかける事しか出来なかった。
ふらふらと頭を揺らして、その少女はようやく仙華に眼を向けた。
「すいません、大丈夫です、良くある事で…………あの、私、ちょっと身体弱くて…………」
思った以上に、か細い声だった。気だるげで、少し落ち着いた感じの声。それが本人の精神性の高さを証明するものならば良いのだが、おそらくは単にそれ以上の声を張る元気が無いだけなのだろう。本当に大丈夫なのかと心配にさせられる声音だった。
「と、取り敢えず、日陰に行こうよ。座った方が良いって」
「有難う、ございます」
「立てる? 立てないなら無理しないで良いけど」
「いえ、立てます。…………あ、あの、でも」
「なに?」
「肩を、貸していただければ嬉しいです」
弱々しく、力なく微笑む少女に、どうしてだか気温以外の原因で頬を暑くさせられた。
肩を貸して、想像以上の軽さだった事に驚いた。いや、想像以下、か。まるで病人で…………やはり事実、病人なのかもしれない。
ベンチまで歩く少しの間、彼女の香りが鼻腔をくすぐり、仙華はしばし暑さを忘れてしまった。
「同じ学校の、同学年の方だったんですね」
「え?」
少女を屋根付きベンチへと座らせて、すぐそこに有る自販機でスポーツドリンクを二本買って、それを渡して。
大丈夫だと言った少女の言葉に嘘は無かった様で、彼女がスポーツドリンクを一口飲む頃には、顔色は元に戻っていた。とはいえ、病的に色白な事に変わりは無いが。単純に美しいとは思うのだが。
とまれ、一息ついた彼女が発した言葉がそれであり、仙華はその言葉に首を傾げた。
同じ学校だったのは意外では無い。奇遇では有るが、学校の近くに有る運動公園なのだから。しかし、同学年で有ると言われると、どうにも疑問を感じてしまったのだ。
仙華の通う学校は中等部と高等部で制服が異なり、それぞれの学年で制服のリボンカラーが異なるため、学年を見分けることは容易だ。しかし、果たして目の前の少女が同じ学年に居ただろうかという疑問。
正直に言うと、同じ学年で彼女の様な生徒が居るならば、覚えていないはずが無いと、仙華は思ったのだ。それ程に彼女は特徴的だったから。今、こうして視線を合わせるだけでも、妙にドキドキしてしまう。彼女の香りを意識すると、尚更だ。
(って、何でドキドキしてるのよ私は)
これはまさか恋だろうか、と考えるが、まさか女の子相手にそんな事が有る筈が無いと、捨て置いた。胸の高鳴りが収まらないまま、会話を続ける。
「私は白場 桂菜です。助けてもらっちゃいましたね。本当に有難うございます」
「私は水崎 仙華。ええと、白場さん。もう一度確認するけど、本当にもう大丈夫なのね?」
「ええ、良く有る事なので。眩暈とか立ちくらみとか、貧血とか」
良く有るのかと、半ば呆れた。それでは気軽に出歩く事も出来ないではないか。
「何時も、出かける時は母に付いてきてもらうんです。今日もそうなんですけど、何時の間にかはぐれてしまったみたいで」
「はぐれたって…………」
それはあまりにも不注意過ぎはしないだろうか、と呆れた。同時に、母という言葉に対して何とも言えない気分を覚える。
「その…………お母さんに連絡しなくて良いの? 心配してるかもしれないよ」
自分の母親なら、きっと心配なんてしないだろうが、と仙華は心中で呟き、自嘲気味に笑う。
仙華に言われて初めて気が付いた様で、桂奈は慌てて携帯を取り出し、母親に連絡を入れていた。勝手に居なくなった事を謝って、状況を報告して、と淀みなくやりとりが成立する辺り、もしかしてこういう事は初めてでは無いのかもしれない、と思った。
桂奈の通話が終わって、彼女は照れくさそうに微笑んだ。その顔を見ながら、仙華は彼女の母親が迎えにくるまで、どれくらい話が出来るだろうかと考えていた。
「同学年だってさっき言ってたけど、私、白場さんの事見たこと無いなあ。いや、別に疑うつもりじゃ無いんだけど」
そもそも、疑う意味の無い事でもある。
「そうですね。まあ、それは私の方も同じなので…………。一学年に240人も居れば、お互いがお互い、顔見知りになれるという事は無いでしょうし」
それは確かにそうだと、仙華は素直に思った。そもそも仙華は2年の始めから、まともに授業へ出席していないのだ。出会う確率、知り合う確率、すれ違う確率が少なくなるのは当然だ。大体にして、仙華はクラスメートの顔と名前すらおぼろげなのだ。もし仮にだが、2年のクラス割りで桂奈と同じクラスになっていたとしても、教室にほとんど顔を出していない仙華にはそれが分からない。一年の時は同じクラスでは無かったとは思うのだが。
だが、流石に桂菜の様に可愛らしく美しい同級生が居たら、そして一度でも見たとしたら、仙華は自信を持って言えるが、忘れる事は無いだろうと思った。一年生の時に見かけていたとしても、絶対に忘れてはいないだろう。
「私、良く入院するんです。熱を出して登校出来ない事も有りますし。一年生の時は、半分くらい入院してました」
「それは…………良く進級出来たわね」
お前が言うな、という声が心の中で聞こえた気がした。
とはいえ、他に突っ込むべき所はたくさん有ったのだが、敢えて話題を逸らしたのだ。彼女の病気やそれに関する事に触れて良いのかどうか、判断しかねたのだ。
「中等部ですから。例え不登校の子でも、進級は出来るんですよ。それに、学校にいけない分、テストと補修のプリントで何とか頑張ってるので、勉強でついていけない事も無いと思います」
なるほど、不登校でも進級は出来るのかと、仙華は嘆息した。いっそ自分も不登校になってしまおうか、という考えが脳裏を過ぎる。そうすればずっとこの場所で本を読んでいる事が出来る。もちろん、ただの冗談だ。
そもそも、仙華だって授業にほとんど出席していないのだから不登校の様なものだ。そして、進級の事だって他人にとやかく言える様な事では無い。まずは自分の心配をしろ、というやつだった。進級に関しては教師に確認しようと考えては居たが、それをするのはあまりにも厚顔なので、二の足を踏んでいたのだ。ここで確認出来て良かった、と胸を撫で下ろした。
まあ、ともあれ。
「一体なにをしてたの?」
仙華の脳裏に、強烈に焼きついて離れない、桂奈の横顔。空を見上げて何をしていたのか、気になった。あんなに真剣に見上げていたのだ。その視線の先に、何が映っていたのか。
その問いに桂奈は、
「空を見上げてました」
と、そのままの答えを返してきて、仙華は肩透かしを食らった気分だった。
「いや、それはまあ分かるんだけど。空に何か有ったの?」
言いながら、仙華は空を見上げる。前方に広がる街の風景。その上に広がる壮大な青と白。ここからの景色を仙華は気に入っているが、特別な何かが有る様には見えなかった。
「もちろん、有りますよ」
桂奈もまた、空を見上げて応えた。その眼は真剣で、先程のそれと同じで、やはりどうしてだか胸が高鳴る。
「な、何が有るの?」
「雲が」
雲が流れていると、桂奈は言った。
空を見上げ、流れる雲を追いかけていたのだと、言った。
「好きなんです。雲」
「雲が、好き…………? 街の風景とか、空全体じゃなくて?」
「いえ、まあここから見える街の風景も素敵だと思うんですけれど。でも、好きなのは雲なんです」
それはあまり理解できない言葉だった。自然や風景が好き。その一環として雲が好き。そういう事ならば理解出来る。それは仙華がそうだからなのだが。雲単体、それのみを切り取って好きと言うのは、仙華には何とも理解し難かった。
「ふーん、変なの」
口にして、しまったと仙華は思った。少なくとも、初対面の人間に対する言葉では無い。気を悪くしなければ良いが、と桂奈の顔を見たが、
「やっぱりそう思います?」
少し笑って、桂奈はそう応えた。もしかして、言われなれているのかもしれない。そう考えると、少し胸が痛んだ。
ふいに、桂奈が立ち上がった。
「ちょっと。しつこいかもしれないけど、立って大丈夫なの?」
仙華も立ち上がり、少し慌てて言った。しかし、桂奈はそれに応えず、一度振り返って、やはり少し笑った。なんというか、そういう表情が似合う子だな、と仙華は思った。儚い表情が似合う子だな、と。
「私、これまで全力で走った事が無いんです」
腕を広げて、桂奈はその場でゆっくりと一回転した。
「少しでも走ると、すぐに眩暈とかが酷くなっちゃって、何時の間にか倒れてるんですよね。もう、ほんとに全然走れないんですよ」
「……………………」
走れない、という言葉は何度か聞いた事が有る。小学校でのマラソン大会や、去年の体力測定での持久走。そんなに走れるはずが無い、という意味での『走れない』という言葉。しかし、眼の前の少女が言う『走れない』とは本当にそのままの意味なのだろう。
それがどういう気分なのかを理解するには、仙華は若すぎた。
「病室の窓から空を見てて、思ったんです。ああ、雲は自由に何処までも行けて、良いなあって。走れるようになると、追いつけるのかなあって」
それは物理的に考えて不可能だと思ったが、桂奈の言いたい事はそういう事では無いだろうから、まあ言わなかった。
空を流れる雲は自由だ。何処までも、自然の続く限りその歩みを止める事をしない。
「…………私、やっぱり変ですかね」
気恥ずかしげに笑った桂奈に、しかし仙華は息が詰まった。余裕無く、
「変じゃ、無いよ」
としか言えなかった。何も言えない、という事がこの世には本当に有るのだと、初めて理解した。何も知らない人間が、何かを知る人間に、何を言えるというのだろうか。桂奈から目を逸らしてしまったのは、自分を恥じたからでは無い。ただ、視るに耐えなかったのだ。あるいは桂奈の瞳に映る、仙華自身の姿を。
なんというか、先ほど初めて桂奈を視た時に彼女を綺麗だと感じたのは、その外見のためだったのだが…………今はもっと別の理由で綺麗だと感じていた。
その正体が何なのかは分からないが、桂奈の内から湧き出る、儚く超然とした何かだ。
「…………不思議です。初めて会った人に、こんな事まで話すなんて」
ふふ、と桂奈は初めて声に出して笑った。とても嬉しそうに笑うので、仙華も釣られて笑みを浮かべる。少し重くなっていた気分が、楽になった気がした。
「また、会っていただけますか?」
桂奈は真剣な口調でそう言った。真正面からそんな事を言われるとは思わなかったので、落ち着いていた胸の高鳴りが再び復活する。
「居ないんです、友達」
友達になって下さいと、ここまで真っ向言われたのは初めてだった。まるで告白されているみたいだと考えたら、彼女の顔をまともに見られなかった。
病弱で、学校を休んだり入退院を繰り返したり。なるほど、友達が出来づらい環境に居るのは間違い無いだろう。仙華もまた友達は居ない。以前は居たが、今はもうほとんど縁が切れてしまっているだろう、と仙華は思っていた。髪を染めて授業に出席しなくなったら、素行の良い事で知られる真面目な女子中学に通う彼女達は、当然、自然離れていくだろうと。
だから、桂奈と友達になったならば、記念すべき友達復帰第一号になるわけだ。
別にそういう事を望んでいたわけでは無かったが、単純に、桂奈と友達になりたいと考えている自分が居ることを、仙華は十分に自覚していた。
だから、
「あ、あのさ…………同い年だし、敬語とか、良いから」
「…………え?」
「普通に喋ってくれて、良いから」
「…………うん」
やや首を傾げて、はにかんだ桂奈を見て、仙華は胸の奥が熱くなるのを感じた。その熱の正体が何なのかは分からなかったのだけれども。
そのすぐ後に、桂奈の母親が彼女を迎えにきた。二人は顔立ちが良く似ていて、母親は桂奈が年を重ねたらこうなるのだろうという未来図そのものだった。品が良く、桂奈と同じ様に微笑み、そしてずっと元気だった。
桂奈と母親はとても仲が良さそうで、桂奈が少し、羨ましく思えた。親と仲が良い。そんな事を羨ましいと思うなど、認めたく無い事だったので、仙華は頭を振ってそれを否定した。
それから、後日会う約束をして、桂奈は去っていった。携帯の番号とアドレスも、ちゃんと交換した。
仙華の胸の高鳴りはしばらく収まらなかったのであった。
「……………………」
帰宅した仙華は静かにドアを開けて、何も言わずに自分の部屋へと直行した。
ただいまを言わなければ、当然おかえりの声も返ってこない。しかし、ただいま、と言った所で返事が返ってこない事は分かりきっていた。
仙華の両親は土日も忙しく仕事をしているのだから。子供よりも仕事が大事な仕事人間だと、仙華は思っていた。その事で仙華と両親は度々衝突していたし、そのせいで中途半端な不良少女になってしまっていた。
朝昼晩の食事は自分で用意していた。もう何ヶ月も同じ食卓には付いていない。たまに母親が早く帰宅して家で食べる事も有るのだが、それも見越して一緒に食事をしないで済むように、仙華は時間をずらしていた。最近、母親が早く帰宅する頻度が増えていたのが悩みとして持ち上がっていた。だがまあ、大した問題でも無い。
両親が休みの日はなるべく顔を合わせないように外へ出ていたし、平日の朝などは完全に両親を無視していた。そんな時、ふと視線を感じる事があって、視界の端でそれを捕らえると、何か言いたげにこちらを見てくる両親に気が付いて、腹が立った。毎日必要以上のお金を生活費として置いていく態度にも腹が立った。言いたい事が有るなら、はっきり言えば良いのに、と。
そうやって毎日毎日、仙華は不満を大きくしていくのだった。
その日、実は母親が休みで家に居て、うっかり鉢合わせしてしまった事は最悪だった。母親が家に居たせいで晩御飯を用意する時間が無くて、部屋に置いてあったお菓子を晩御飯の変わりにしたのはもっと最悪だった。
「なんで今日に限って家に居るのよ…………ほんと最悪」
だが最近、『今日に限って』と思う日が増えた様な気もする。
…………仙華自身は、そんな事が有っても三食ちゃんと食べる事や、自分で用意して食べる事が出来る凄さに全く気が付いていないのだった。洗濯を自分でしている事もだ。大した事では無いとすら考えていた。夜遅くまで外出したり、家に帰らなかったり、変な遊びに全く興味が湧かない真面目さにも、だ。
だから、これは後の事になるが…………その事を、不自由な身体を持つ桂奈が『凄い』と感じていた事にすら、当然気付く事は無かったのだった。
桂奈と出会って、すでに半年が経過していた。
その間に仙華は長かった髪を切っており、ショートにしていた。髪の色も黒に戻っている。
梅雨は明け、夏は過ぎ行き、秋の風は去り、冬が訪れ、すっかり気温も下がっていた。
それでも雲は流れ行く。変わらぬ調子で流れ行く。
二人はもうすっかり親友と呼べる仲になっており、これほど親しくなった他人を仙華はこれまでの短い人生で他に知らないので、すっかり夢中になっていたと言っても良い。しかし、桂奈と仲が良くなればなるほど、両親との溝は深まっていっている気もした。
仙華と両親の関係が悪いという事を、桂奈は知らない。仙華が話していないからだ。積極的にそういう話題を避けていると言っても過言では無い。自分の恥を晒すようで嫌だったし、桂奈にその事であまり心配をかけたくなかったのだ。
だが、桂奈は薄々感づいているのでは無いだろうか、とも仙華は思っていた。言動の端々で不自然だったかもしれないという事を、仙華は否定しきれない。
とまれ、今日も仙華は、桂奈が入院している病室を訪れていた。
学校の近くに有る運動公園。
その運動公園の近くに、桂奈の入院する病院は有った。学校と運動公園を線結んだら、ちょうど正三角形が作れるかもしれない。そんな位置関係。
この半年で、仙華は十分に桂奈の病弱さを理解していた。半年の間に3度も入院し、一ヶ月の半分以上も欠席すれば、誰であろうと理解出来るに違いない。桂奈の名前すら知らなくとも、そういう奴が居るのだと理解出来るだろう。これは仙華の希望的観測に過ぎないが、恐らくそれを一番理解しているのは自分だろうと考えていた。少なくとも、桂奈の家族を除いて。家族といえば、桂奈の家族…………特に母親ともすっかり顔なじみになっていた。桂奈の母は娘に親友が出来た事を素直に喜んでいる様で、出来るだけ相手をしてやってくれないか、などと頼まれたりもしていた。出来るだけ相手をして欲しいのはこちらも同じだと、仙華は口にこそしなかったが、思っていた。時折、妙にこちらの事情を把握してる事も有って、仙華は驚いた事が有る。勘の良い人なのかもしれない程度に、考えていた。
桂奈の欠席原因の大半が発熱であり、入院の原因もそれで有った。他に貧血だったりと、色々な病状が重なっている場合が殆どであるが、やはり最大の原因は発熱であった。重篤な状態に陥った事がこの半年であまり無かったため、初めは色々と心配だった仙華も、この頃になるとやや楽観視する傾向にあり、『ああ、またか』くらいに考えるようになっていた。むしろ、桂奈と二人きりになれる時間が増えて、嬉しいくらいに思ってしまっていた。
「冷えるから、窓閉めるね、桂奈」
「うん、ありがとう、仙華」
これくらいの会話はもう自然に行える様になっていた。思えば親しくなったものだと考えると、自然に笑みがこぼれてしまう。
桂奈の何時も個室で、初めて訪れたときは物珍しく見てしまったものだった。病棟自体、初めて入ったのだ。珍しく無い筈が無い。テレビや冷蔵庫、電話にソファーや流し台、挙句の果てにはシャワー室まで設置されていて、何だか普通の部屋の様でそうで無い様な、そんな感想を抱いた。そもそも、シャワーは誰が利用するのだろうか? という疑問も抱いたが、結局誰かに聞く事もしないままになっていた。まあ、どうでも良いことではある。
大部屋の方もこっそりと覗いた事は有るが、雑多というかなんというか、縁起でもないが、入院するなら個室の方が良いな、と仙華は思っていた。どちらも無機質で無個性で、好きにはなれなかったのだが。
少なくとも、桂奈とゆっくり話をするなら個室の方が良い。それだけは確かだった。
仙華が長かった髪をばっさりと切ったのは、夏休みに入る前だったか。桂奈と出会った事を節目として、気分を入れ替えるために散発したのだ。あの時の桂奈の驚き様は、何度思い返しても可愛らしい。ショートも似合うね、と言ってくれた嬉しさは忘れられない。
ついで、桂奈に『染めない方が絶対可愛い』と言われたので、髪の色も戻す事にした。今ではすっかり元通り、髪の色は黒に戻っていた。完全に黒に戻った時、桂奈にとても喜ばれたので、もう一生髪は染めないと心に誓ったりもした。
しかし、かと言って授業へ真面目に出席しているのかと言われれば、それはそうでも無い。
桂奈が学校に来て授業を受けている時は仙華も授業を受ける。桂奈が頑張って授業を受けていると考えたら、不思議と授業に出てみようかなと思う様になったのだった。しかし、桂奈が休みだったり早退したら、その日は授業へ出なかった。
その事について、何度か桂奈に注意された。しかし、桂奈が居ないのに授業を受ける意味なんて無いくらいに考えていたので、何時も適当に誤魔化していた。
そもそも、元々は両親への反発から始まった事なのだ。授業へ出ない意味など無いのだが、なんというか、半ば意地になっている所が有った。
この日も平日の日中ではあったが、学校を抜け出して入院した桂奈のお見舞いに来ていた。防寒着のコートと手袋は学校指定のもので、手袋もそうだった。それらは病室にあっては当然脱いでおり、ソファの上に畳んで置いていた。コートの中には貴重品や鍵も入っており、忘れることは万が一にも無いだろうが(忘れていたら桂奈が注意してくれるだろうし)、一応は眼に見える場所へ置いておくのが吉だろう。ちなみに、コートの下は当然の様に制服だった。
「駄目だよ、ちゃんと授業に出ないと」
気だるそうな桂奈の声。熱が有る時や体調が悪い時は、普段おっとりとした喋り方をする桂奈の口調が、更にのんびりとだるそうになる。それで体調の程度を測る事が出来る様になったのは最近の事だ。今日の桂奈は不調ながらも、そこまで悪くも無さそうだと、仙華は安心した。
「嫌だよ。桂奈が居ないと、行く気がしないよ」
ほっとしつつも、桂奈の言葉には渋面を作った。
「勉強は自分でしてるし、テストの点も優秀だよ。心配要らないって」
不真面目を演じては居るが、不真面目に成りきれないのが仙華だった。昔からの習慣で勉強は毎日するものとなっているので、夏休み明けの実力テストや、この間の中間テストでは全く問題の無い点数を取っていた。
仙華と桂奈あ通う学校は中高一貫のエスカレーター式。高校へ進学するのに試験は必要無いが、それでも成績が悪過ぎると進学出来ない例も無くは無いが。そして普段の行いからくる内申点も考慮されないらしい。とはいえ、こちらも度を越した問題行動を起こしたならば進学出来ないのだろうが。とまれ、仙華は高校への進学を完全に楽観視していたし、事実問題は無かった。授業に出ないというのは明らかな問題だが、進学には関係が無いのだった。
「そういう問題じゃ無いよー。中学での思い出とか作らないと…………」
「うーん…………そう言われても…………」
思い出も桂奈と一緒じゃないと嫌だ。
そう答えるのはちょっと恥ずかしかったので、敢えてはぐらかした。
「ま、まあほら、修学旅行が来年有るじゃない? そこで思い出作ろうよ」
来年の6月…………まだ半年以上先の話だが、仙華と桂奈の通う学校ではその時期に修学旅行が行われる。仙華はそれをとても楽しみにしていた。もちろん、桂奈もだ。
しかし、不安が一つ有った。
「私、行けるかなあ」
不安とは、桂奈の事だ。
修学旅行へ行く際に、体調が悪ければ当然欠席となる。入院している可能性ももちろんある。旅行中に体調を悪くして帰宅する事も十分に考えられる。そうなれば、思い出を作ることなど当然不可能だ。
桂奈は小学校の時の修学旅行に参加出来なかったらしく、中学では必ず参加したいのだと、意気込んでいた。意気込んだその翌日には熱を出していたのだが。
「大丈夫だよ、桂奈。絶対行けるよ」
何の根拠も無いが、取りあえず言い切っておくことにした。あまり悲観的に話を進めたくは無い。
「それに、参加出来なくても、私が付いてるから寂しく無いって」
仙華は桂奈が参加出来なかった場合、当然の如く自分も参加しないつもりだった。桂奈が居ないのに、参加しても面白くないだろうと思っていたからだ。そんな我侭が許されるかどうかは分からないが、何とか押し通してみせると考えていた。
それは仙華としては当然の考えだったのだが。
桂奈は違った様だ。
「…………え?」
と、少し驚いた表情をして(あまり感情表現が豊かでは無いので、実は大いに驚いているのかもしれない)、
「どうして? どうして私が行けなかったら、仙華まで修学旅行に行かないの?」
そう言ってきた桂奈の眼は何時に無く真剣だったのだが、仙華はそれに気が付かなかった。
「いや、だってさ、良く知らないクラスメートと一緒に修学旅行なんて、面白くも何とも無いじゃない」
「今からでも、仲良くなればいいじゃない。どうしてそうしないの?」
「え? いや、それは…………」
確かに、そうなのだが。
仙華は答えに窮して、困ってしまった。桂奈の何時に無く強い言葉に虚を付かれたという事も有る。
今からでもクラスメートと仲良くなる事は可能だろうか? その問いに答えるのは非常に難しかった。桂奈と出会って、少しばかり授業に出席するようになって分かった事だが、クラスメートには中学一年の時、もしくは小学校の時から親しくしていた者が何人か居た。だから、そういう者達に声をかければあるいはあっさりと打ち解けられるかもしれない。
しかし実の所、事態はそれほど簡単な事では無い。一度切った縁を戻すのはそう簡単では無いし、何より、縁の切り方が不味かった。仙華は授業に出席しなくなった事を心配してくれた彼女らからの、メールや電話を悉く無視していたのだ。四月から数えて一、二ヶ月…………つまり、桂奈と初めて出会った頃までは何度もそうした連絡が届いていた。しかし、桂奈と出会って浮かれていた仙華は、そうした彼女らからの連絡を無視するばかりか、鬱陶しいという理由で着信拒否してしまったのだった。
向こうも着信拒否された事には気が付いているだろうし、久しぶりに授業へと出席した時に向けられた、彼女らからの微妙な視線を、仙華はまだ覚えている。とても気軽に話しかけられそうな雰囲気では無い。まだその頃は髪の毛の色が元に戻っていなかった、という事もあるだろうが。
よくよく考えなくても悪いのは仙華だったし、自覚もしていた。何かしらのプライドが邪魔をして彼女らに声をかける事を躊躇っているのでは無くて、何と言うか、そう、怖いのだろう。彼女らに拒絶される事が。
自分で拒絶しておいて全く勝手な言い分だが、それが正直な気持ちだった。縁を切って時間が立つと、自分のそうした行動があまりにも身勝手で、恥ずかしくて死にそうになる。だから今更の様に彼女らには簡単に声をかけられない。仙華は桂奈との時間が有ればそれで良かったから、それで良いか、とも思っていたのだった。
「ま、まあ…………私はほら、一人でも大丈夫、だし」
誰に言い訳をする必要も無いのに、どうしてかそう答えてしまった。それも答えになっていない答えだ。仮に言い訳をしているとしたら自分の心に、だろうが、それを自覚出来る程、仙華は大人では無かった。
「…………うん、そうだね。桂奈は何でも一人で出来るもんね」
それに対する桂奈の反応は実に微妙だった。当然と言えば当然だ。
仙華も自分の答えが決して良いものでは無かった、という事くらい分かっているので、何とか別の言葉で分かってもらおうとしたのだが、都合良くそんな言葉が浮かんでくるはずも無い。
桂奈はやや俯いて、その表情からは何を考えているのか、読み取りづらかった。何か達観した様な印象を受けるが、物欲しげな子供の様な印象も受ける。桂奈はたまに、そういう表情をする。
そう、彼女はこういう表情をする時に取る次の行動は大体決まっている。
ふい、と病室の窓の外を見るのだ。…………つまり、空を見上げる。今もそうだ。桂奈は空を見上げていた。
あの日と同じ様に、桂奈が眼で追っているのは雲だろう。空を流れる雲。
「雲は良いね」
眼を細めて呟く桂奈と、初めて出会った時の桂奈が脳裏でダブった。
これも半年間の付き合いで理解した事だが、桂奈が自分で言う様に、良くそうして空を眺める事が多かった。例えば会話が途切れた時、ただ二人で居る時。ふと桂奈を見ると、視線は雲を追っている。そんな事が良く有った。
「仙華は雲に似てるね」
「え?」
言われて、しかし仙華にはそれが何を意味するか理解出来なかった。
「仙華は何でも一人で出来て羨ましいよ」
「いや、そんな事は…………」
突然褒められて、照れくさくて、頬をかいた。しかし、次に発せられた桂奈の言葉で、一気に熱が引いた。
「ずるいよ、仙華は。私と違って何でも出来るのに、どうして私と同じ場所に立とうとするの?」
「……………………!」
熱が引いた、というよりも。
液体窒素で冷やされた様に、仙華は硬直した。頭が冷めて、血の気が引いた。眩暈の様な感覚を覚える。緊張して動悸が激しくなった。
桂奈に非難されている、と理解したのは、ほんの一拍程度の間を空けてだったが、その時間がとても長く感じられた。
空気が少し、重くなった様な気がした。
「いや、私は…………そんな、違…………」
言い訳の言葉を述べようとするが、頭が混乱して何を言って良いのか分からなかった。桂奈に非難されるなど、今まで無い経験で、何時ものんびりとしている桂奈がそんな事を言うなど、思いもしなかった。
桂奈の眼はこれまで見た事が無い程に悲しげだった。彼女が元来持っている儚さと相まって、今にも消え入りそうですらあった。それを見て、仙華の胸が酷く痛んだ。桂奈のそんな顔を見たく無かった、桂奈にそんな顔をさせたく無かった、と。
「違うよ、桂奈。私は…………」
何が駄目だったのだろうと、仙華は先ほどの会話を辿って、修学旅行の会話を始めた辺りから、思えば何と無く桂奈の様子がおかしかった気がする、と思い至った。
仙華の頭は悪くない。むしろ良い方だ。頭の回転は速い。故に、自分の何気ない言葉が桂奈を傷つけてしまったのだと気付く事が出来た。しかし、仙華は未だ中学生。まだまだ子供だ。思慮が足りない。思慮は足りなければ後悔に至るのだ。覆水盆に帰らずとはこの事だった。言葉には責任が宿るのだ。
(私は……………………)
だって、桂奈はそういうイベントに参加する事に、ある種の憧れを抱いているだろうから。
それに思い至れたのは仙華にとって幸運な事だったのだろうが、しかし、弁解の言葉を口にするには時間が足りなかった。そもそも、何と言って謝れば良いのかも分からなかった。これがもっと身近なケースだったならば言葉も思いついたかもしれないが、今回に至ってはそうもいかなかった。
言葉が見付からないまま、数分が過ぎた。俯いたままだった仙華は、桂奈の身じろぎする音で、身体を震わせた。握り締めた掌からはじっとりと汗が吹き出ていた。
数分を考えている間に、桂奈が言った先ほどの言葉の意味を何と無く理解出来てきた。
『雲に似ている』と言ったのだ。『何でも一人で出来て羨ましい』とも。
桂奈は雲が好きだった。空に浮かぶ雲が。憧れているとすら言っていい。自由に何処までも行ける雲が羨ましいと。ならば、桂奈は仙華のそんな部分に憧れているという事なのだろう。何でも一人で出来る仙華を、確かに羨ましいとも思っているのだろう。
だから許せなかったのだろう、桂奈は。何も出来ない自分をもどかしく感じているからこそ、自由な雲に憧れたのだ。そんな仙華が敢えて何もせず、何も出来ないと信じている自分に付き合って行動を制限する事が。
自分が楽しみにしている修学旅行に、敢えて行かない仙華が。友達も作ろうと思えば簡単に作れるのに、そうしない仙華が。自由に走り回る事が出来るのに、そうしない仙華が。
許せなかったのだろう。
しかし。
(違う…………違うよ、桂奈)
違うのだ。
(私が何でも出来る人間だなんて、そんな…………)
先ほど、自分は一人でも大丈夫などと言った事を、仙華は思い出した。
そんなのは嘘だ。
仙華は自分が何も出来ない人間だという事を知っていた。
両親と喧嘩をして、中途半端に不真面目を演じるしかない程度の人間だと、知っていた。普段は意識の外に置いていたその事実と、仙華は今、正面から向き合っていた。
だからだろう。
別に、言おうと思って言ったのでは無いのだが。
「私も…………私も桂奈みたいに身体が弱ければ良かった。そうすればお父さんとお母さんも…………」
そこまで言って。
やってしまったと、気が付いた。明らかな失言。するりと口から流れ落ちた。
自分が言うべきでは無い事を言ってしまった事に、仙華は気が付いた。
「あ…………」
頭が真っ白になった。一瞬だが、思考能力の全てが失われてしまったかの如く、何も考える事が出来なくなってしまった。
自分が今、取り返しの付かない事を言ってしまったのだという事だけ、辛うじて認識出来てはいたが。
それ以上の事は何も分からない程に、一瞬、思考が抜け落ちた。
「ごめ…………私、ほんとに…………」
上手く言葉に出来ない。言葉が纏まらない。
仙華はそこで、自分が涙を流している事に気が付いた。言葉が詰まっていたのは嗚咽がこみ上げていたからだと知った。
ショックを受けたから泣いているのだろうかと思ったが、それでは言われた当事者である桂奈はどれほどショックだっただろうか。
本当にショックなのは桂奈の方だろうと、涙を流しながら、仙華は桂奈の顔を、恐る恐る見た。
仙華はまず、桂奈が怒った可能性を考えて、恐れた。
次に、怒らせただけならばまだましだと気が付いた。本当に恐ろしいのは幻滅されて、見限られる事だ。
見限られる…………そんなのは嫌だ。桂奈に嫌われたくない。あんな眼で、桂奈に視られたくない。あの時の母親と同じ様な眼で、桂奈から視られたとしたら。
もしかしたら、泣くだけでは済まずに、ショックで死んでしまうかもしれない。
だが、桂奈の顔を視て、仙華は呆然としてしまった。
桂奈はいっそ穏やかな表情でこちらを見ていたのだ。
そして、
「ごめんね」
と、桂奈が呟いた。
仙華は眼を見開いた。どうして桂奈が謝るのか。
「言い過ぎたよ。…………ほんとにごめんね、仙華。泣かないで」
優しく声をかけられて、桂奈の手が仙華の頬に伸びた。優しく頬を撫でられて、涙を拭われた。それが病気による熱のせいだと思えないくらいに、その手に愛しさを感じた。掌から伝わる桂奈の体温が、何時もよりもずっと熱を帯びている様な気がしたが、気のせいだろうか。
「あ…………」
仙華が悩んでいる数分の間に、桂奈も冷静になったのだろうか? それとも、桂奈は元々、本当は怒っていなかったのだろうか?
ともあれ、桂奈は怒ってなどおらず、仙華を慰めているのだという事だけは確かだった。
それが。
どれだけ仙華にとって衝撃的だったか。
どれだけ仙華にダメージを与えたか。
だって、仙華は謝れなかったのだ。桂奈に非難されて数分間。言葉を捜してうろたえるだけで、たった一言の『ごめんね』すら言えなかったのだ。
桂奈には想像も付かなかっただろう。いや、仙華としては、そんな事を想像させたくも無かったが。
その瞬間、仙華は本当に理解したのだ。桂奈は仙華を憧れの対象に例えたが、実際的に己が全く小さな存在であるという事を。桂奈にとって、己が憧れの対象でいられる筈が無いという思いを。
余裕を持っている。器が違い過ぎる。大げさだが、そんな風にすら感じた。
病室に金属音が響いた。
立ち上がった仙華が、座っていたパイプ椅子を倒した音だった。
仙華はそのまま病室から逃げ出した。とても桂奈の前には居られない、居たくない。
穴があったら入りたい所では無い。自分で穴を掘りたいとすら思った。それも、決して脱出する事が出来ないレベルの穴を。もしくは、それこそ雲になって何処かへ飛んでいきたいと思った。
色々な事が頭を過ぎり、逃げる様な早足で仙華は病院を出ていた。
病室にコートや手袋を忘れてきた事に気が付いたのは、自動ドアが開いて冬の冷たい空気と対面してからだった。しかし、その寒さも気にならない程に、心の方が何倍も冷たいのだと感じていた。
病院の自転車置き場で、自分の自転車に手をかけて、そういえばコートの中に自転車の鍵を入れていたのだと、思い出す。どうしようかと思案して、しかし実際はほとんど何も考えられないまま、しばらくじっとしていた。今更病室に戻るわけにもいかない。いや、しかし取りに行かなければ帰れない。そんな事を考えるたびに、桂奈の顔が頭を過ぎって、思考が中断されるのだ。
このままいっそ、凍え死んでしまった方が救い様が有るかもしれないなどと、馬鹿な事を考える余裕が出来た頃だった。
病院の入り口辺りが何やら騒がしい。
「…………?」
訝しげに思いながら、しかし嫌な予感もまた、覚えていた。
自動ドアから病院へと入り直すと。
桂奈が受付の辺りで倒れていた。
仙華のコートと手袋を抱えて、横たわっていた。
あまり気にしないで、と駆けつけた桂奈の母親に言われた。
対面して初めての言葉がそれだった。それほど自分は酷い顔をしていたのだろうか、と他人事の様に思って、ああそうなのだろうと思うのだった。やはり、他人事の様に。正直、今は自分の事などどうでも良かったのだ。
しかし、何度視ても似ている親子だと、仙華は思った。性格も似ているのか、のんびりした話し方もまた、似ていた。
仙華はまず、母親に謝った。どうして謝られるのか、桂奈の母としては訳が分からないだろうが…………それでも自分の娘と仙華の間に何かあった事くらいは察したのだろう。それを受けての『あまり気にしないで』だ。母子共々、人間が出来ていると思わざるを得なかった。
その桂奈の母の態度に、先ほどの桂奈を思い出さずにはいられず、仙華はつい口を開いていた。
「私、友達居なくて…………自分で勝手に壁作ってるのが悪いのは分かってるんですけど、他にどうしようとも思わなくて。でも、桂奈だけは違って、あの子の体調が悪い時、私、二人でお喋り出来るって、喜んでました」
自然と、涙が出てきた。今、この状況で、桂奈の母親にこんな事を言って良いのかどうか。そんな事にも気が回らなかった。普通に考えれば、言うべきでは無い言葉なのだろう。だが、あまりにも余裕が無さ過ぎて、もう思いのままに言葉を出していた。
「すいません。…………最低です、私」
こんな事になるなら、親しくなんてならなければ良かった。そんな事すら思ったが、桂奈の母親は首を振った。『仙華のおかげで、桂奈は以前よりも随分明るくなった』と、言った。
だから、有り難うと言われた。『娘と友達になってくれて有り難う』と。
そして、『仙華ちゃんは真面目で、ちゃんとしてるから安心してあの子を任せられるのよ』とも。
桂奈の母が病室へ入って、病院の廊下で一人になって。
何だか、取り残された様な気分になった。
仙華の口から嗚咽が漏れ出た。堪え切れなくなったものを吐き出せばすっきりするだろうか。
いや、するはずが無い。
してはいけない。この罰は、もっと自分を苦しめるべきだ。もっともっと、何かを出し切らなければきっと終わらない。
「あー…………」
涙を拭うが、拭った傍から溢れ出る。
溢れ出る涙が鬱陶しくて、少しの清涼感を味わいたくて、顔を洗いに行く事にした。
病院のトイレ、手洗い場で顔を洗いながら、その水の冷たさを有り難く感じた。きりっと肌を締める様な刺激が頭を冷やしてくれる。
自分が今どんな顔をしているのかと、仙華はふと気になった。どんな無様な顔を晒しているのか、自分で笑ってやりたくなった。それで少しでも溜飲が下がればしめたものだが、そんな効果を期待する辺り、かなり自虐的になっているのだという事が何だかおかしかった。
水で塗れた顔を手で拭い、鏡を見ると。
「……………………!」
そこに映った自分の顔は仙華の想像を絶しており、全身が震えた。
いや。
顔というよりも、眼。
眼だ。
悲しみのどん底に居る自分の心情が十二分に現れたその眼は。
あの日、母が自分に向けてきた瞳の色そのままだった。
桂奈と彼女の母は良く似ていると、仙華は常々思っていた。もしかしたら、桂奈が仙華と仙華の母を視ても、同じ様な感想を抱いていたかもしれないと、これまで考えもしなかった事が頭に浮かんだ。
(あの時…………お母さんは…………お母さんは…………)
失望を瞳に現していたでは無く、ただただ深い悲しみに震えていただけでは無かったのだろうか。
そう考えるとたまらなくなって、走り出していた。
先ほど、桂奈の病室から逃げ出した時とは違う。
当ても無く、仙華は病院を飛び出し、全力で走っていた。
夕暮れの空。茜色の陽が射して、空を流れる雲を、鮮やかに染め上げている。
流れる雲を目指して走った。追いつくまで走ってやると、そう思って走った。
走って、走って、走って。涙を流しながら走った。
頭の中がぐちゃぐちゃで、ただ走る事しか考えていなかった。
フォームもでたらめで、ペースなんて考えていない。それでも走り続けた。
当然、そんな走り方がそう長く続くはずも無い。
限界は当然、訪れる。
「はぁっはぁっ…………! あ…………う…………ぅっ」
掌を膝について、荒々しく呼吸した。
呼気は白く、ただ流れて宙に溶けた。
吐きそうな程に気分が悪い。喉の奥が妙な感覚で、息は笛を鳴らした様な音を立てていた。手の指先が痺れ、足はガクガクと震えていた。
随分と長い間走ったのだと思ったが、冬のこの時期、未だ空が夕暮れの終わりを告げていない。夜の帳が降りるまで、まだ時間がありそうだった。
とんでもなく長い時間走った気でいたが、時間にすれば数十分の事だったのかもしれない。何とも情けないが、もう身体が動かない。歩きたくすら無い。座りたくすら、無い。
ふと、辺りを見渡すと、自分があの運動公園の展望台に居る事に気が付いた。習慣なのか、なんなのか。めちゃくちゃに走っていたつもりが、身体が覚えている場所を走っていた、というわけだ。
「寒い……………………」
夜が近付き、昼間でも冷たかった風は一層身を切りそうな程に痛かった。走っている間はまるで気にならなかったというのに。
桂奈の母親に言われた事を思い出していた。
仙華は真面目だとかちゃんとしているとかなんとか、そんな事を言っていたか。
馬鹿な。
この体たらくだ。そんな事を信じる事が出来る筈も無い。
仙華は自分の父親や母親についても、思い出していた。
もう半年もまともに顔を視ていない。その間、両親は一体どんな気持ちだっただろうか。
本当に馬鹿だ。
「私はやっぱり、雲みたいになれないよ…………全然、追いつけない」
展望台から視える街の風景。
視ている風景は以前と同じなのに、全く異なった印象を受けた。桂奈の影響を受けているのか分からないが、空を流れる雲が、やたらと眼について。それはもちろん、先ほどまで雲を追いかけて走っていたのだから、眼につくのは当然なのだろうが。
それだけでは無い印象を受ける様になっていた。
「綺麗だな…………」
と、呟いて、あの日、初めて桂奈に出会った時の事を…………正確には初めて桂奈の姿を視た時の事を思い出していた。
儚げなその姿。日傘を回して、雲を眼で追い続けていた。何処までも幻想的で、何処までも綺麗。
桂奈が追いつきたいと言った、あの空を流れる雲。
しかし、仙華にも全く追いつける気がしなかった。
それは物理的に考えて当然なのだが、やはりそういう事では無くて。
(私も桂奈に、憧れていたのかも…………)
桂奈は、自由に行動している仙華を雲に例えて憧れたが、あるいは仙華にとっての桂奈もまた、同じだったのかもしれない。
仙華にとっての桂奈もまた、空を流れる雲の様に、何処までも広がって何処まででもいける存在なのだろう。
あるいはその精神性において、仙華は桂奈に魅せられていたのかもしれない。
あの時、初めて出会ったときに、桂奈に対して覚えたあの超然とした雰囲気の正体が、今、分かった気がしたのだった。
「謝ろう。帰って、桂奈に謝ろう」
病院へと戻った時には、すっかり陽が落ちていた。財布は持っていたが、コートは桂奈の病室へ置いたままだったので、道中の寒い事と言ったら無かった。バスを利用しようかと考えたが、止めておいた。普段乗りなれていないため、乗るのが怖かったのだ。全く見当違いの場所へ着いてしまったら、眼も当てられない。病院への道順は分かっているのだが、万に一つ…………いや、万に百以上の確率で乗り間違えてしまう様な不安を想起させられるのだった。
道中、あまりにも寒すぎて、途中で2度、自販機を利用してしまった。ホット缶コーヒーとホットココアの二つ。一瞬の暖かさを提供してくれはするものの、一瞬だからこそ、身体が直ぐに次の温かさを求めて不満を訴えてくる。
ともあれ、だから病院へ着いた時にはもう寒くて仕方が無くて、すっかり頭も冷えていた。
幸い、面会時間はまだ過ぎていなかった様だ。受付で面会バッジを貰って、桂奈の病室へと足早に急いだ。
病室の前には桂奈の母が居た。どうやら何処かに電話をかけている様だった。携帯電話を病院で使って良いのかと疑問に思ったが、壁に携帯電話OKのマークが貼られているのを見て、納得した。
仙華の姿を見ると通話を切って、嬉しそうに、それでいてのんびりと立ち上がった。仙華の身体が冷えているのを見越したように(事実そうなのだろうが)カイロを手に握らせてくれた。何というか、そうした細かい配慮が実に良く似ているなあ、としみじみ思う。
貰ったカイロを冷たい手で握ると、暖かさと同時に痛みを感じ始める。右手と左手で交互にお手玉して、時折、頬にも当てたりしながら、
「あの…………桂奈は大丈夫なんですか?」
恐る恐る聞いた仙華に、しかしあくまでも桂奈の母はのんびりした声で答えた。
病状的には全く問題ない。倒れたのも貧血と同じ様なものだ。熱が上がっていて無理をしたのが良くなかったのだと。
その無理をさせた当人としては、責任を感じざるを得ない。
項垂れる仙華を見て、桂奈の母は大げさ過ぎると笑った。確かにそうなのかもしれない。事を大げさに捉え過ぎると良くないと聞いた事は有る。しかし、気にするなと言われてもそれは無理が有るし、気にし過ぎる方が良い事も有る。桂奈に対する友情の証、という訳では無いが、仙華は彼女に謝るまで、気にし過ぎる事に決めたのだ。
と、そこで気が付いた。
謝ると決めて病院まで戻ってきたわけだが、桂奈は今、寝ているのだろう。眼を覚ますまで待つのは一向に構わないが、病院の方はそうもいかないはずだ。面会時間の超過は余程の事態で無い限り認められない筈だし、かと言って明日仕切り直してくるのも、何とも間が抜けている…………というか、すっきりしなくて嫌だった。
そんな仙華をじっと見ていた桂奈の母は、続けてこんな事を言ってきた。
自分は帰るから、桂奈が目を覚ますまで、あの子の傍に居てくれないだろうか、と。目が覚めて仙華が居なかったら、きっと残念に思うだろうから、と。
さらっととんでもない事を言われた気がして、本当にとんでもない事を言われている事に気が付いた。
「えぇ? でも、もうそろそろ面会時間終わっちゃいますけど…………」
そう言うと、この病院には付き添いのシステムが有るのだと聞かされた。シャワーも付いているし、寝具セットも有るから大丈夫らしい。なるほど、シャワーはそのための設備だったのかと、得心する。余程の事では無い限り、桂奈の母も利用しないらしいのだが…………今日は余程の病状では無いと先ほど言われたのに、どうして付き添おうと考えたのだろうか? 不思議だったが、妙な押しの強さで納得させられてしまった。
まあ、仙華としてはそれでも良いのだ。その方が気持ちを切らさずに済むのだし。
だが、家へ電話しないといけないのは気が重かった。
(…………何て言えば良いのよ)
何せ、両親とは半年間もまともに口をきいていないのだ。何と言えば言いのだろうか? 久しぶり、とでも言えば良いのだろうか? 悪い冗談としか思えない。何だか、全てを包み隠さず話しても、信用してくれない気もした。それは自業自得なので仕様が無いが、本当にどうしようも無い気がしてきた。
普通に考えれば激怒されるに決まっている。
それを想像すると、携帯電話を片手に、メモリーを呼び出しては消し、呼び出しては消し、という動作の繰り返して、一向に電話をかけられる気がしなかった。
そんな仙華を見かねた訳では無いだろうが、桂奈の母はまたしても笑った。やはり大げさ過ぎると。素直に全部話せば、分かってくれるだろうと。
そして、事も有ろうに仙華の持っていた携帯電話をサッと取り、勝手に通話ボタンを押してしまった。
「え? え? か、掛けちゃったんですか!?」
携帯を仙華にふいっと渡して、桂奈の母は、『じゃあ後はよろしくね』と去っていってしまった。普段ののんびりとした様子からは想像も出来ない鮮やかな動きに、すっかり反応が遅れてしまった。
慌てて携帯の画面を見ると、まだ呼び出し中だった。
切るか?
そんな考えが頭を過ぎるが、着信記録は向こうに残るだろうし、そうしたら掛け直してくるだろうし、何にせよ電話は絶対にかけないといけないし、でわたわたとしている間に、画面の呼び出し中が通話に切り替わった。
ドキドキしながら、仙華はもう観念して、
「…………もしもし」
と言葉を搾り出した。人生で一番緊張したのでは無いかと思うくらいだった。口から心臓が出そうになる、という表現はこういう時に使うのかと。指先が痺れる感覚に襲わた。呼吸が速いために、過呼吸気味になったのだろう。
電話の向こうからの、母のリアクションを待つ間も同じだった。何を言われるのだろうかとか、こんな時間まで何をしているのかとか、今更電話を掛けてくるのかとか、色々と考えたが。
『もしもし? どうしたの?』
と、思いの他に普通で、優しい声だった。
拍子抜け…………というかほっとした。そこから、病院に居る事を伝えたりで二言、三言かわしたのだが。
仙華は、母親の声を久しぶりに声を聞いた気がしていた。実際、一つ屋根の下暮らしているのだから、もちろん声自体は聞こえていた。しかし、こんな風に普通に話をしていると、改めて、こんな声をしていたのか、と変な感慨を抱いてしまった。何だか、少し緊張が解れた気がした。指先の痺れも、取れてきた。
だが、普通に話しているからこそ、次の言葉を発するには、少々、いやかなりの苦労を要した。
「ごめんなさい。今日…………今日、は外で…………えー、病院に…………」
何かを話そうとする度に、言い直そうとする度に意味の無い文章になる虚しさを味わっていた。何と言うか、傍から見れば面白いのだろうな、と冷静に感じている部分も有った。仙華の母は…………仙華の言葉を待っていた。
「今日は、友達に付き添って病院に泊ま…………止まりますから!」
何とか言葉を纏めて言い切ったが、どうしてだか最後は丁寧語だった。そこでどうしてそうなると自分で突っ込みを入れつつ、母のリアクションに戦々恐々としていた。
仙華の母は『どうして?』と至極単純に理由を求めてきた。頭ごなしに否定してこなかった事が意外だったが、有り難くは有った。まあ、説明しても駄目だと言われるかもしれないが。そもそも、理由が何だか嘘くさいと、自分の事ながら仙華は思っていた。
だが、仙華はもう、母親に何一つ誤魔化さないと決めていた。
だから、ちゃんと話した。
桂奈の事や、彼女が病弱な事。自分のせいで彼女が倒れてしまった事。病状は大した事は無いが、それでも一晩付き添ってあげたい事。そして、彼女に謝りたいという事。
真剣に言葉を紡いだと、仙華は思った。人生で初めてだろう。これほど真剣に語った事など。
それが桂奈の事だからなのか、両親に対しての垣根が少し下がったからなのかは分からない。あるいはその両方なのか。
話し終えて、仙華は、駄目だと言われたらどうしようかと考えていた。この半年間、散々に反抗してきたのだから、外泊を強行しても今更な話なのかもしれない。今日の昼までの仙華ならば、そう考えていただろう。しかし、仙華はもう、両親にそこまでの反抗心を持てなかった。それは…………まだ不満は有る。しかし、不満の原因だった一つは解消されたと思っているのだから。
だから、駄目だと言われたら素直に帰るのが正しいのだろうと、思った。桂奈の母には悪いが、電話をしてそう伝えようと。
だが。
母親は『友達は大切にしなさい』と言って、あっさりと了解して。
その声があまりにも優しい響きを持っていたから、仙華は驚いた。
「あ…………ありがとう……………………」
明日は気を付けて帰ってきなさいと言われ、通話を切って。
あまりにもあっさりと事が運んで、少し呆然としながら、気が付いた。そう言えば、母親が仕事から帰宅する時間が、喧嘩をしたあの時から少し早くなってはいなかったか、と。父親の休日も少し増えてはいなかっただろうか? と。
「……………………」
全部終わったら、一度ちゃんと話そう。
そう思いながら、仙華は桂奈の病室へと足を踏み入れた。
桂奈は安らかに眠っていた。少なくとも、悪夢は見ていて欲しくないな、と仙華は思った。
それを確認してから、仙華は取りあえずシャワーを浴びた。狭い上に、ガラスがスリットなので落ち着かないが、不満は言えないし、こんな時間では誰も来ないだろう。下着等の着替えはもちろん無いし、制服のままだが、お湯を身体に浴びるだけでも、気分がすっきりとした。
病室は静かで、少しの物音を立てるのも躊躇われた。なので、ロングだった髪をショートまで切っていて良かったと、仙華は改めて思った。ドライヤーで音を立てる訳にもいかないだろうし。
こんな時間に桂奈と二人きりで居るというのは何だか変な感じだったが、彼女を独り占め出来ている感じがして、妙にぞくぞくしてしまった。
その夜、仙華は寝具セットを使わなかった。ソファーにも座らなかった。
パイプイスに座って、ずっと桂奈の横に居る事にしたのだ。
「綺麗…………」
呟いて、桂奈の顔を手でなぞる。起こしてしまわないかとも思ったが、触らずには居られなかった。顎から唇、唇から鼻筋、眼底、眉、おでこと触って、彼女の髪に触れる。
意外に起きないものだ。
仙華はそうやって時間を過ごしていった。
時折うとうとして、気が付いたら一時間ほど立っていた事も有った。そして、思いついたように桂奈の顔に触れたり、手を握ったりした。
朝陽が顔を覗かせるまで。
そうやってずっと過ごしていた。二人だけの時間。
桂奈が眼を覚ましたのは、朝の陽射しが桂奈の顔に触れる頃だ。
「おはよう、桂奈」
仙華は思い人を千年待ち焦がれたかの様な熱の入った声で、桂奈を呼んでいた。
桂奈は起きがけでぼんやりとした様子だったが、
「おはよ、お母さ…………」
やがて眼の前に居るのが、朝の挨拶をしてきたのが仙華だと気付き、頬を紅く染めていった。
そして、両手を顔に当てて、
「うが…………恥ずかしい。仙華に寝顔見られた」
ぱたりと仙華に背中を向けるように、寝返りをうった。その動作が可愛くて、仙華も何だか気恥ずかしく感じてしまった。
「な、何で仙華が居るの…………?」
衝撃を受けているようでは有るのだが、桂奈は普段のんびりとしているし、起き掛けの声だったので、今一それが伝わり辛かった。だがまあ、焦っている事だけは分かった。それくらいは、もう半年の付き合いで分かる様になっているのだ。
「…………桂奈のお母さんに、ちょっと無理言って、付き添い変わってもらったんだ」
説明を省くために色々と省略して、そう言った。
「あの…………昨日の事、謝りたくて」
「昨日の事って…………どの事?」
「その…………桂奈みたいに身体が弱ければ良かった、とか、修学旅行いかないとか、そういうの」
ふふ、と桂奈は笑った。口元を布団で隠して、
「…………じゃあ、授業に出ない事も謝ってよ」
思えば、桂奈に対して、何かをこういう風に謝るという事は今まで無かった事だった。桂奈は仙華の態度を面白がっているのかもしれない。隠した布団の下の口元は、絶対に笑みで形作られているに違いない。
腹は立たなかったし、むしろ可愛いと思ってしまったが。
「うん。謝る。ほんとにごめん。だから、その…………」
「うん?」
「これからも、友達で居てくれますか?」
「もちろんだよ。私からお願いした事だよ?」
桂奈は上体を起こして、仙華の頬に手をやった。昨晩、何度も仙華が桂奈に対してやった様に、髪をかき上げられたりもした。もしかして、桂奈は起きていたのでは無いかと疑ったが、敢えて聞かなかった。
「仙華は…………一番大切な友達で、私の憧れだよ」
こん、とおでこ同士を軽くぶつけてきて、そのまま肩に腕を回してきたので、仙華もそれに答えて、彼女を抱きしめたり。
入院生活で、身体は拭いていたようだが、風呂には入れていなかったはずなのに、不思議と何時も感じる桂奈の香りと同じだった。伝わってくる鼓動は、仙華の体温を確実に上昇させた。仙華はもうたまらなくなって、このまま押し倒してやろうかという衝動にかられたが、本当にぎりぎりで止まった。
ぎりぎりで踏みとどまれたのは、桂奈の言葉に因る。
(…………まだ私を、憧れだと言ってくれるんだね)
それが嬉しくも有り、荷が重いと感じなくも無く。
しかし。
一人では追いつけなくても、二人なら何時か、憧れに追いつけるかもしれない。あの空を流れる雲に、追いつけるかもしれない。仙華もまた、桂奈に憧れの念を抱く様になったのだから。
一緒に追いかける事だって、もう出来るのだ。
「桂奈が走れなくても、私が手を引いていくから」
仙華は桂奈から身体を離して、彼女をベッドの上に座らせて。それから桂奈の手を握って、自分の額の方へ寄せた。熱が落ち着いたのか、彼女の手は冷たく感じたが、実際的では無い、別種の温もりを感じた。
「桂奈は私の傍に居てよ。たまに前に立って私を注意してくれたり、私を慰めたりしてよ」
仙華のその言葉に、桂奈はたまらなく嬉しそうな笑顔で答えた。
その笑顔を見て、仙華は胸が苦しくなって、ドキドキしてきて。
ふと、気が付いた。
もしかしたら、初めて桂奈と出会ったその瞬間から。
自分は桂奈に恋をしていたのかもしれない、と仙華は思った。
桂奈が寝ている間に、キスの一つでもしていれば良かったと、冗談半分に後悔した。
温もりを感じながら、窓の外へと眼を向けた。
昇る太陽、射しこむ朝陽。
空に浮かんだ流れる雲は、陽の光を浴びて黄金色に輝いているように視えた。
流れる雲 @bagu
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