氷砂糖

@bagu

第1話

 特別な甘さに浸り。

 硬い決意で意思を持ち。

 その脆さゆえに崩れ落ち。

 後には熱量のみが残る。

 耀華はそれを氷砂糖のようだと感じた事が有った。

 しかし、その本当を知る事は無く…………。



           1



ふと、校舎裏に佇んでいる自分に気が付いた。

(ええと……私は何でこんな所に居るんだっけ)

 耀華には覚えが無い。こんな場所まで来る意味も、記憶も全く無い。意味は有ったのだろう。そこに居るのは間違いないのだから。だが、何もかもが全く確かでは無い。

いや。

(よく考えたら、何か理由は有った気がするし、ここに居る事も不自然ではないような気がするんだけど…………何だったかな)

 何にせよ、とても曖昧だった。

『こんな場所』と表現したのにはそれなりの理由が有る。

学校に校舎の裏と表現されるべき場所は4つ有る。校舎棟がA~Dの4つ有るからそれも当然の話だ。そして、AからCの3つに関しては、校舎裏と称しても、実際は校舎棟同士が向かい合っていたり、グラウンドに面していたり、中庭が有ったりと、普通に人が居ておかしくは無い場所だ。校舎裏と称されてはいても、実際的に裏表の区別が無いに等しい。

だが、耀華が佇んでいるこの場所は違う。

D棟は古い校舎だ。美術室や音楽室を除いた特別教室の集合棟で、夜間学校の教室もまたここに在る。調理室や化学室、生物室等々だ。今学期は調理室と化学室の使用頻度がそれなりに高いが、裏を返せば学期が終了すればそれらの教室に足を踏み入れる事はもう無いだろう。

詰まるところ、一般生徒にはあまり縁の無い場所なのだ。そういった事情のせいかどうかは分からないが、学校の敷地内においては最も辺鄙であり、行く必要の無い場所に建てられていた。

耀華がこの場所をD棟の校舎裏だと直ぐに気づけたのも、以前に親友の二人と校内を探索した再に、たまたま立ち寄ったから、というだけの理由だった。

人が通らないために静かで、校舎の陰になって日が差さらないためにじめじめとしており、そもそも気分の良い場所では無かった。一昔前ならば、道を踏み外した生徒の溜まり場になっていそうだったが、そうした場所としては逆にあまりにも目立つため、故に誰も寄り付かないのかもしれない。

加えて、A、B棟とC棟の一部で四年程前から改修が始まって、今はほぼ終了しているのに対し、C、D棟の改修は後回しにされ、まだ手付かずの部分が多い。。A,B棟には生徒達の教室が主に有って、生徒への安全配慮から優先的に改修が行われているらしい。安全配慮…………というのも、改修が決定する数ヶ月前に、にA棟で三階からの落下事故未遂が起こったらしいのだ。C棟は職員室や放送室、音楽室等が有って、そちらも生徒の使用頻度が高い場所では改修が成されている。

耀華が入学した時には、既にA、B棟の改修はほぼ終了していたために、改修前の姿は知らない。だが、D棟を見れば、改修前の姿は耀華にも何と無く想像が付いた。建物は人が居なくなれば死んでいく、と良く言われるが、それを加味すれば、ほとんど使用されないこのD棟は改修前のA、B棟よりも余程死んでいるのかもしれない。

…………D棟の校舎裏には木々が乱立しており、その下は薄暗い。薄暗く冷たい土の上に、

(……………………?)

まだ新しい花束と…………黄色い花だった…………綺麗に包装された透明なビニール袋が置かれていた。無造作に放置されている感じはしない。丁寧に根元へと置かれている。

なんというか、嫌な感じがした。まるで交通事故現場に手向けられているような、そんな印象を受ける。というよりも、そのままその通りにしか見えない。

(これは…………)

ビニール袋に入っていたのは氷砂糖だった。

氷砂糖は耀華にとって馴染み深いもので、すぐにそれと知れた。祖母の家では良く果実酒やシロップが作られており、小さい頃は良く手伝ったものだ。

硬そうで、口に入れると脆く崩れる。店売りの飴よりもよほど純粋な甘みを感じられるそれを、耀華は好んでいた。祖母の家へとあまり行かなくなったこの頃になっても、家に備蓄しているくらいだ。

誰が何の目的でこれらをこんな場所に置いたのか。

見上げると、三階には調理室が有って、窓枠の一つが無くなっていた。割れでもしたのだろうか。四年ほど前に起こったという落下事故未遂の話を思い出した。しかし、最近そんな事件が起こったなどというのは聞いた事が無い。そもそも、今日の実習で調理室を使用した時点では、あんな事になっていなかったのだが。

(あんな場所の窓ガラスが割れるって、一体何が有ったのかしら)

思考した瞬間、猛烈な眩暈が耀華を襲った。

世界が上下左右の方向性を見失ったかのような浮遊感だった。

耳鳴りが酷く、その向こう側から妙な音が聞こえてくる。ギギ…………と。

きらきらとした眩い光が見えて…………光の奥底から真性の暗闇が降り注いできた。その暗闇は全てを呑み込んで、耀華の意識をもあっという間に呑み込んだのだった。



             2



ギギギギ。

ギギギギギギ。

耳に五月蝿い音が聴こえる。鈍く、重い物を引きずる音に近かったが、何かが違う。妙に聴き慣れているような気がするのだが、何の音だったのかを思い出す事は出来ない。思い出したくも無いという拒絶感に襲われ、吐き気すら覚える。

…………聴き慣れたというよりも、その音を何度も何度も頭の中で反芻したために、一度しか聴いた事の無い音が、耳に残ってしまっているという感じか。忌避感は強いのに、付いて離れない。

ともあれ、煩わしく思い、耀華は腕を振った。振って気が付いたが、その動作が妙に重い。まるで水中に居るかのような感覚に戸惑いを覚える。あるいは、全身を綿で包まれたかのような。

視界は妙に狭く、しかし暗闇に包まれているというわけでも無い。ただただ白く、一面に雪景色が広がっているかのように錯覚した。

 今の季節はいつだったか。思い出そうとしたが、思考は曖昧に流れ出して形を成さない。こんな雪景色はこれまでに視た覚えが無いと、浮かんでくるのはそんなどうでも良い事ばかりだった。

あらゆる事が判然としない中、しかし不安は覚えなかった。茫洋たる不明瞭な意識は水を吸った砂のように重く、身体に感じているそれ以上だった。先程から聴こえてくる耳障りな音に対する不快感が強い。何かの詰まった音にも似ているが、何の音なのかはやはり分からない。

しかし。

「大丈夫か?」

 その言葉が聞こえた瞬間、全感覚がクリアになった。

テレビのチャンネルが切り替わるかのように、一瞬で何もかもが変わった。通常の感覚に戻った、というだけの事なのだろうが、その落差に激しい目眩を覚える。光の明滅を覚えたが、それは気のせいだったか。少なくとも、そのような光源は何処にも無い。

耳障りな音も既に聴こえなかった。

顔に手を当てて、一体なんだったのかと、燿華は嘆息した。頭を振ると、肩甲骨の辺りまで伸びているポニーテールが慣性に従ってふわりと揺れた。

まだ少し気分が悪い。砂漠の真ん中で立ち往生しているかのような、どうにもならない感覚が身体中を支配していた。

「最近、本当に心配だよ」

 先程と同じ声。しかし、どちらも自分に向けられたものでは無いようだと知った。

声の主に眼をやって、これはその声から既に検討が付いていたが、やはり親友の百桃だった。

短髪の陸上少女。パッチリとした瞳を持っているため、短髪と相まってボーイッシュさを感じさせられる。とはいえ、その身体付きは逆に女性らしく発達しているため、妙なアンバランス感が有った。筋肉が付いていて非常に健康的な肢体だったが、柔らかく発達している部分は発達している。ちょっとずるいと、常々思っていた。彼女の口調は男らしいのだが、内面もまた逆を行っており、妙に繊細な部分を持ち合わせても居たりするのだった。

 半年前にブレスレットをプレゼントしたら、とても喜ばれたのだったか。ちょっとした縁で貰ったビーズのブレスレット。毎日付けていたそれを、どうしてか今日は付けていなかった。

桃百とは共に美化委員に付いており、最近は一緒に居る時間が増えたような気がする。何か相談したい事が有った気がするのだが、何だったか。

「心配って…………そんな、大げさよ」

 控えめに答えたのは、別の親友だった。名を美夜という。その声は燿華にとって特別なものだ。

有り体に言って、耀華は美夜を愛していた。まだ片思いなのだが。小学校低学年の頃からの幼馴染で、友情が次第に愛情へと変化していったのだ。その気持ちに気が付いたのは、一年ほど前だったが。同姓を好きになってしまった事に対してその時はとても悩んだものだったが、悩んでいる間にもどんどん好きになってしまっていて、だからもう悩む事すら馬鹿らしくなっていた。

桃百とは違って、美夜は細い。モデル体系という奴だろうか。身長は耀華よりも10センチ程度大きい程度なのだが、その細さと相まって普通よりも大きく見える。隠しては居るが、胸の小ささがコンプレックスのようだ。耀華は美夜の腕に自身の腕を絡ませてしなだれる事が有るが、確かに標準で有るとすら言い難い。耀華にしてみればそうやってしなだれかかって美夜の肩に顎を乗せる事が出来るのが、何よりも嬉しいのだが。

そろそろ美夜は誕生日を迎えるので、その時に思い切って告白してみようかと、勝手に妄想していた。実際に出来るかどうかはともかくとして…………。あるいは特別なプレゼントでもして、自己満足に浸ろうかとも考えていた。

耀華にとって、美夜の髪はとても自慢だった。桃百とは対照的な長髪が…………スラリと伸びて、とても綺麗だ…………秋の抜けるような陽光に映えて、更に美しい。

…………秋。

そうだ、今は秋だったか、と燿華は思い出した。

そう、そして下校中だ。何時もの放課後だ。中学一年生から高校二年生の現在に至るまで変わらない、三人の帰り道だ。…………美夜だけに限定すれば、その付き合いはもっと長くなる。

(…………? さっきまで、校舎裏に居たような気が…………するんだけれど。いや、そうだ。あの後、二人が迎えに来て…………)

 そうして帰宅の途に付いたのだったか。曖昧だったが、そんな気がする。

燿華は美夜の顔へと眼を向けた。百桃の言葉が気になったからだ。美夜の顔は確かに疲れているようで、燿華もまた心配になった。

どうした事だろうか。確かに美夜は小心な所が有るが、心体の起伏をあまり顔に出さないタイプなので、ここまでの疲労を感じさせる表情は珍しい以上に傷ましかった。

(どうしたの、美夜…………)

 自らの不明を棚上げにして、美夜に言葉を向ける。吐き出しそうな心地だったので、ちゃんと言葉に出来たかどうかは疑わしかったが。

実際、耀華の言葉は二人に届かなかったらしい。二人共こちらに視線すら向けなかった。その事実に強烈な違和感を覚えるが、その正体こそ不明だったため、首を傾げるに止める。

やや呆然としてしまった耀華を置いて、二人は再び会話を始めた。

「寝れてないんじゃないか? …………ちょっと痩せたよ、美夜」

「…………うん。桃百ちゃんの言う通りだよ」

「やっぱり」

「でも、桃百ちゃんだってちゃんと寝れてる風に見えないよ。私が疲れてるなら…………桃百ちゃんも疲れてる」

「それは…………」

美夜の言葉に桃百は絶句した。そして、両目を右手で覆って、嘆息した。

「そう…………そうね。私も疲れてる。美夜の事、言えないか」

 何が有ったというのだろうか。確かに、二人の様子は何時もと違った。言葉を借りるならば、疲れている…………そして、傍から見れば明らかに憔悴すらしているようだった。

「寝るのが怖い。寝ても直ぐに起きてしまう…………」

 桃百の発したその言葉には微かな震えが有った。怖いというその言葉通り、何かに対して怯えているふうだった。

 何故、という耀華の言葉を、美夜が代弁した。

「何が怖いの?」

「何がって…………」

 問われた桃百は少し咎める様に美夜を見た。

「私…………私のせいだから。私が…………、でも、私は結局何も出来なかった」

 耀華は首を傾げた。桃百をここまで悔やませる何かとは一体なんだろうか。一体何が出来なかったというのか。

「考えると、怖い。恨まれてるんじゃないかって…………凄く悲しくて、でもそれ以上に怖い。あのブレスレットも、付けれない。 どうして誰も私を責めない? 私があんな事をしなければ…………」

「そんな…………そんな事考えるなんて、駄目だよ桃百ちゃん…………ほんとに大丈夫? 桃百ちゃんは何も悪くないよ」

何が有ったのだろうか。疑問を覚えると同時に、少しショックを受けている自分に、耀華は気が付いた。美夜と桃百の二人が自分の知らない何かを共有しているという事に。

そしてそれ以上に心配にもなった。耀華の知らないその事実というのは、親友である二人を甚く傷つけているらしいのだから。

美夜を心配していた桃百だったが、ダメージの度合いで言えばどちらも酷いように見える。何かを恐れているらしい桃百は話しながら半泣きになっていた。

美夜だって同じようなもので、僅かな刺激で涙を流しそうだ。美夜は決して泣き虫では無かったが、泣きそうな時にちょっとした癖を見せるのを耀華は知っていた。その長い髪を指先で忙しく弄るのだ。今、その前兆が見て取れる。

美夜の泣くところは見たくなかった。

何が有ったのかと再び聞こうとしたが、膝が抜けたように姿勢を崩し、同時に強烈な眩暈が再び耀華を襲った。視界が暗転し、明滅する。

ギ…………。

ギギ…………。

まただ。

あの妙な音が聞こえる。耳元で、すぐ傍で、こちらに迫って捕まえようとするかのように、纏わり付いて離れない。

明滅する光の向こう側から、何やらキラキラとした幾つもの白い何かが見えたような気がした。それはとても美しく思えたが、同時に、耳について離れないあの音よりも、もっと忌避感を煽る何かだった。

その光の向こう側からはやはり暗闇が押し寄せ、妙な音の奔流と共に押し流され、呑み込まれ、意識すら曖昧になって…………。

気が付くと、耀華は自分の部屋に居たのだった。



              3



(……………………?)

 耀華は現況の不思議に首を捻った。

先程まで美夜や桃百と下校していたはずなのだが、どうしていきなり自分の部屋に居るのだろうかと。

(あの変な音が聞こえて、視界が暗くなっていって…………)

 気分が悪くなって、膝が抜けた。だから、美夜や桃百の手を借りて、何とか家まで辿り付いたのだったか。

(そう…………だったわね。そう、確かにそうだった気がする)

 曖昧だが、それを否定する意味も無い。今ここに居る以上、確かにそうなのだろうとしか言いようが無かった。あの二人も調子が悪かっただろうに、無理をさせてしまったと、耀華は反省する。

あまりにも呆としていたせいか、未だ制服のままだったが、着替えるのも億劫だったので、風呂に入るまではこの格好で居ようと思った。

妙に暗いと思った。

時計の音が一定のリズムを刻む。音はそれだけで、静かだった。時計を見ると、18時を指しており、家に誰も居ないはずは無かったのだが。耀華の部屋は一戸建て住宅の二階に在って、夜になると、リビングからテレビの音や母の声が聞こえ…………隣の部屋からは妹の生活音や電話の声が聞こえてくる。だがそもそも、帰宅してきた時に、その母親や妹は居ただろうか。

(居たような…………気がする)

 やはり曖昧に、そう思う。

ギ、と音が聞こえたような気がした。

ベッドに腰を下ろし、そろそろ晩御飯の時間で在る事を時計で確認する。あまりお腹が空いているという感じでは無いので、今日は別に要らないかな、などと考えたりもした。…………考えただけだ。実際には、そんな事は許されないだろうが。

(何だか、妙な気分…………)

 不調が続いているようで、何とも形容し難い浮遊感に襲われていた。世界そのものが歪んでしまっているかのような錯覚。そこまで強いものでは無いが、緩やかに視界が揺れているような、そんな感覚。

宿題は出ていただろうか。思い出せないが、もし出ていたとしたら、今日は取り掛かれそうに無い。

額を押さえて、耀華はベッドに座り込んだ。

普段なら柔らかく迎えてくれるそれは、どうしてか無機質で味気無い感触で、一層気分を憂鬱にさせた。

嘆息して、美夜と桃百の様子を思い浮かべる。あの様子は只事では無かった。長い付き合いになるが…………その中で喧嘩になった事だってもちろん有るが、そうした険悪な雰囲気とは異なる、何か異様なものを感じたのだ。

(そうだ、電話…………)

 美夜に電話をして、何が有ったのか聞いてみようか。

携帯は何処に置いたのだったかと思考する。制服のポケットには無いようで、では何処なのかと探すと、机の上に置いてあった。所謂ガラケーと呼ばれているものだ。こんな所に置いただろうかと不思議に思う。いや、帰宅直後、携帯を机の上に置く事自体は良く有る事なのだが、机の中央にピシッと置かれていた事に対して、違和感を覚えた。普段は適当に放り投げるようにしているだけなのだが。

とまれ、それを手にとって、またしても訝しんだ。

電源が切れていたのだ。

何時切っただろうかと不思議に思いながら電源を入れなおすと、それが勝手に切れただけだと知れた。ディスプレイに表示されているバッテリーの線は一本。それが点滅しており、バッテリー残量が切れ掛かっている事を示していた。一度バッテリー切れで電源が落ちたが、放置しておいたために少しバッテリー残量が微量ながら戻ったという事だろうか。

(学校を出る時はまだ余裕有ったような気がするんだけど…………ううん、そもそも今日は忘れていったんだっけ)

 バッテリー残量を示すマークの隣に、日付が表示してあって…………それを見て、首を傾げる。今日は20日の筈だったのだが、日付は29日と表示されていた。何かの設定ミスだろうか。一度バッテリーが切れたせいで、不具合が起こっているのかもしれない。

 充電機を探したが、普段ならコンセントへ差しっぱなしにしているそれが見当たらない。仕方が無いので、電源が切れる前に取りあえずメールだけでもしておこうと考えた。バッテリー残量から考えて、電話は無謀だ。メールを送った後に充電機を探して、然る後に電話をしよう。

(今日、元気無かったね。桃百もそうだったみたいだけど、何か有った? 相談に乗らせて欲しいな。また後で電話するけど、良いかな?)

 という文面を書いて、送信するかしないか少し迷った。というのも、耀華は美夜に片思いしている。そうした思慕が美夜の内面に踏み込む事に若干の気後れを感じさせるのだ。とまれ、幼馴染である。もう長い付き合いだ。バッテリーもそう持たないだろうし、気後れを振り切り、送信した。メールも気軽に送れないようでは、告白など夢のまた夢だ。

少し頬を赤らめながら嘆息し、耀華は携帯を机に置いた。

途端、なんだか全身から力が抜けてきた。とても疲れた。身体が重い。

ギギ…………と、音が聞こえた…………ような気がした。本当に気のせいだったのか、それとも本当に聞こえていたのか。何れにせよ、疲れていることだけは確かだった。

たかがメールを送るのに、エネルギーを使い果たしてしまったかのような…………。好きな人にメールを送る、というのは緊張感からの疲労を招くだろうが、そんな事でここまでは疲れないだろう。

…………充電器を探さなくては。

嘆息して部屋を見回して…………ぎょっとした。とある事に気がついて絶句した。

真っ暗だった。

部屋が暗かったのだ。

どういう訳かこれまで気がつかなかったが、部屋の電気が点いていなかった。それだけの事だったが、それだけでは済まされない異常だった。

(何時から…………消えてた? 最初から? そんな…………)

呆然としつつも記憶を探ると、そう言えば最初から電気は点いていなかったような気がする。その事に違和感を覚えなかった事が一番の異常だった。

しかし、秋とは言えども時刻は未だ18時。日没により薄暗くなっていてもおかしくは無いが、昨日はここまで暗くなっていただろうか。

(なってた気がするし…………なって無かった気もする)

記憶を探って愕然とする。

(ちょっと待ってよ。いくら何でも…………)

曖昧すぎる。

先程から何一つ確かなことを思い出せていないではないか。

何かがおかしい。そう思い始めると、これまで曖昧に流してきた事の全てがおかしいような気がしてきた。

記憶が曖昧な事に対して明確な異を感じ始めると、帰宅途中から流してきたこれまでの出来事全てが妙だと思えるようになってきた。

適当に理由を付けて本気で納得しかかっていたが、学校を出た記憶がそもそも無いし、あの帰宅路から部屋までの記憶もぶつ切りだ。

そうだ。一度意識が途切れて、気がついたら部屋に居たのが、本当だ。

先ほど、美夜と桃百の様子がおかしかった事にも、自分は本当に心当たりが無かっただろうかと、燿華は自問した。

(わからない…………なんだろ、頭に靄がかかってるみたいな)

しかし、何か非常に重要な何かを忘れているような気がしてならなかった。

(電気…………)

 真っ暗な部屋にも関わらず、何の不都合も無く行動出来ているという事に…………身体の不調を除いて…………違和感しか覚えない。

そろりと動き始めて、携帯の着信音に度肝を抜かれた。

着信は二度ほど鳴って、途切れた。画面がブラックアウトしたので、バッテリーがいよいよ完全に切れたのだろう。画面には美夜の名前が有った気がする。美夜からすれば、着信を切られた格好なので、気を悪くしていなければ良いがと、燿華は不安になった。

今、自分の身に降りかかっている妙な違和感の方がよほど不安を掻き立ててはいるが。まだしも日常の不安に思考を傾ける事で、僅かながらの安心感を得ようとしているのかもしれない。

…………隣の部屋のドアが開く音に気がついた。では、やはり妹は居たのだ。それにしては妙に静かだったが。

(……………………?)

 階下へ足を運ぶのだと思っていたが、どうやら耀華の部屋の前で立ち止まっているようだ。何をしているのかと思ったが、ドアノブが回され、ゆっくりとドアが開いた。

ノックも無しにいきなり開けるな。そう何時もなら言っている所だが、ドアの開け方が異様で、耀華は絶句していた。

ドアの開け方…………恐れのニュアンスすら感じさせるほどに、ゆっくりと開いていた。ホラー映画で、何かが待ち受けている部屋のドアを開く時のような、そんな感じだった。ギ、ギ、ギ、と開いていく鈍い音に、強烈な忌避感を覚え。思わず一歩下がる。

真っ暗な部屋に、廊下の光が少しずつ入ってきて、金属製のドアノブに反射した光が耀華の眼を眩ませた。

(この眩しさ…………何か、嫌だ。怖い)

 眩しさと音。何かを思い出しそうな…………それを思い出す事が恐ろしいのか、思い出す内容が恐ろしいのか。

判断は付かなかったが、とにかく恐ろしかった。光が恐ろしかったのでは無い。その鋭さに恐怖したのだ。音が恐ろしかったのでは無い。その鈍さに恐怖したのだ。

キィ…………とドアが開かれた。そこに立っていたのはやはり妹だった。

名を蓮華という。二つ下で、耀華にとっては目に入れても痛くない程に可愛い妹だった。後ろで一本の大きな三つ網を作っている。耀華はどちらかと言えば活発な方だったが、妹の蓮華は見た目通りに大人しい。小さい頃は美夜と三人で良く遊んだものだった。

蓮華は誰かと電話をしているようで、うん、うん、と頷いていた。

電話をしているというのに、しかし蓮華はおどおどとした様子を隠そうともしなかった。それは彼女にしては珍しい事では無いのだが、何時もより何か、怯えの表情が強かった。電話先の相手に怯えているような感じでも無い。

このような表情は見た事が有った。

(…………さっき、美夜と桃百も、こんな顔をしていたような)

蓮華は徐に電気を付けた。落ち着いているように見えて、その実、緊張しているのは明らかだったが。

明かりが部屋を照らしたが、何だろうか、妙な感覚だった。一瞬前まで真っ暗だったのだから、明るさに目が眩んでもおかしくは無い筈だが、全くそんな事は無い。明るさと暗さに境界など無いかのように、耀華の感覚は変化に鈍かった。

(蓮華?)

 耀華は妹に呼びかけたが、どうも聞こえた素振りを見せない。どころか、姉がすぐ傍に居る事すら気がついていないかのようで…………。

そして、突然に。

弾かれた様に、連華は歩き出した。机の上に置かれていた、姉である耀華の携帯に近付いて、それを手に取った。

その行動に耀華は驚いた。そんな忙しく動く妹を見たのは初めてだったからだ。

(いや、そんな事より…………やっぱり何かおかしい。何がどうなってるの? 蓮華? 蓮華!)

 焦燥。…………以上に、恐れを抱いた。何かがおかしい。何がおかしいのかと問われれば、はっきりしている事が一つ有る。

(蓮華…………私の事が見えてない、みたいな…………もしかして、さっきの美夜も桃百も…………)

 憔悴した二人の顔を思い出す。二人を心配して声を掛けた耀華だったが、先程も今と同じで身体に不調を来していた。そのために上手く発声出来ず、故に声が届かなかったのだろうと思ったのだが。そもそも彼女らにとって、耀華はそこに存在していたのだろうか?

(蓮華…………蓮華……………………)

喘ぐように、耀華は妹へと手を伸ばした。妹の身体は震えていた。何かに怯えるように、震えていた。

 そうして気が付いたが、身体の重さが先程よりも増しているような気がする。再び水中に居るかのような不明の感覚を覚えていた。絶対に破れない薄膜に覆われて動きを制限されているような…………。

 暗く、冷たく、重い。

覚える何度目かの感覚。

暗闇が押し寄せて、何もかも押し流してしまいそうな感覚の中、鈍く光るガラスの砕片を見た気がした。




              ※    ※



ギギ。

ギギギ…………。

(ああ…………)

 暗闇から意識が抜け出して、妙な音が引いて行く。感覚が戻ってきて、身体の重さも徐々に無くなってきた。意識も少しずつ明確になってきて…………。

 気が付くと、耀華は学校の廊下に佇んでいた。

また記憶と意識が飛んでいたようだ。現在時刻は朝の七時半。かなり早いと言っても過言では無い。もう少ししたらちらほらと生徒達が登校してくるのだろうが。

(私…………何時の間に学校へ…………さっきまで夜だったのに)

 自問しながら、もう決定的な何かに対して気が付いているような思いは有った。自分の中で曖昧だった部分が明確になり始めているような、そんな感じ。故に、昨日の夜に感じていたような焦燥は無く…………感覚的にはつい先ほどだが…………ただただ心は醒めていた。

(私は…………私は…………)

 隣には美夜と桃百が居た。

 何時からそこに居たのだろうか。恐らくは耀華がここに来る前には既に居たのだろう。あるいは、彼女らがここに居たから耀華がここに来たのか。

美夜と桃百の二人は、深刻な顔をして廊下の窓際に背中を預けていた。こうして二人で並んでいると、その対照的な身体バランスが目立つ。

廊下には彼女達以外の姿は見えない。

そして二人共、傍に居る筈の耀華に気付いている節は無い。

「美夜。その…………昨日の話は本当なの?」

 桃百の表情は困惑の極みに有る様だった。昨日よりも更に疲労の色が濃くなっているような気がする。…………酷い顔をしている。

問われた美夜の顔も同じ様なものだった。一昨年の文化祭で徹夜した時の様な…………つまりは寝不足なのだろう。

「うん、昨日…………」

 言いかけて、美夜は口を噤んだ。一度口に手を当てて、気持ちを落ちつかせる素振りを見せた。しかし、上手くいかなかったようで、

「…………昨日、耀華からメールが、来たの」

 その声はやや上擦っていた。

「そんな…………本物なのか? 誰かのイタズラとかじゃなくて」

「その…………その後、すぐに電話したんだけど、切れちゃって。直ぐに蓮華ちゃんに電話して…………だけど、あの子も良く分からないみたいで…………凄く怖がってたし、動揺してて…………だから、あんまり突っ込んで聞けなくて」

「メール…………」

「え?」

「そのメール、見せてくれないか」

 桃百の言葉に、美夜は頷いて彼女のスマートフォンを取り出した。…………三人の中で旧世代の携帯を使用しているのは耀華だけだった。それをずっと羨ましがっていた覚えが耀華には有る。

メールを確認していた桃百はしばし呆然としていたようだった。しかし、こんな言葉を漏らした。

「…………どうして私の所には来ないのかなあ」

 眼を細めて、泣き出しそうな声だった。

美夜は首を傾げて、

「桃百ちゃん…………?」

「どうして、美夜にはメールが来て、私には来ないのかな…………」

「それは…………」

「知ってた? ねえ、美夜。私は耀華の事が好きだったんだ。…………友達としてじゃなくてだよ。分かる? ずっと、恋してたんだ」

 美夜はその言葉に絶句していた。眼を見開いて、そして、桃百から視線を逸らす。

 桃百はその場に崩れ落ちた。美夜のスマートフォンを胸に抱えて、背中を付けていた壁をずるずると下降し、緩やかに膝を折って、左手で顔を隠すようにしていた。隠した顔の隙間から、涙が見えた。

「なあ、美夜は? 美夜はどうだった? 友達としてじゃなくて、耀華を好きだったか?」

「私は…………」

視線を逸らしたまま、美夜は答えない。

(……………………)

 そんな二人を見ながら、耀華は桃百の言葉に驚きつつ…………本のページが捲られるように、次々とあらゆる事を思い出してきたのだった。

 そして、

「…………耀華が死んでもう十日も経つっていうのに…………今更こんな告白がなんに成るっていうんだろう」

 決定的に。

桃百の口からはっきりと真実を聞いて、耀華はしかし、それに対して感情の昂ぶりなど覚えず、ああ、と納得していた。

(そうだ…………私はあの時…………)

 眩暈を覚えた。もう慣れたそれに身を委ねつつ、意識を混濁させていく。

 頭上には眩い光。その向こう側から迫り来る暗闇に眼を向けながら、耀華は思い出していた。

(私はもう…………死んでいるんだ)

 暗闇に呑まれながら意識が混濁していく中で、あの時の記憶もまた、鮮明に耀華の中を駆け巡っていた。



           4



今はもうはっきりと思い出せる。

それは10日前の事だった。

美夜への告白を考えていた、そんな時だった。胸が苦しくて、ずっと一緒に居たいと思っていて、でも今の関係が壊れるのも怖くて…………そんな事を考えていたのだ。

今学期の家庭科では調理実習がメインに行われており、その日もそうだった。

渡り廊下を使ってD棟へと行き、階段を昇って三階まで。どうしてこんなに移動しなくてはならないのかと、不満に思ったものだ。

調理実習後はクラス毎に少し清掃が行われる。しかし、それ以外に全体清掃も行われるのだ。当日に実習が行われた最後のクラスから、二名が選ばれる。そして、大抵は美化委員がその役に付くのだ。

この場合、耀華と桃百がその役回りだった。

その日の実習内容はクッキーの製作だった。午後の授業の二時間を丸々取って行われるそれは、むしろ時間が余り気味だったので、その間に教育ビデオを見せられたりもした。とまれ、こうした実習は基本的に皆嬉しいようで、和気藹々と実習は進んでいた。何せ、小腹が空く時間に菓子が完成するのだから。

薄力粉をふるいに掛け、ガスで沸かしたお湯でバターを溶かし、卵黄や生クリームを使って…………と、経験の無い生徒建ちはマニュアルに従って作っていたが、自宅で作った事のある生徒もちらほら居て、そういう生徒達は自分なりにアレンジしていたようだった。

耀華は…………美夜も桃百もそうだったが、マニュアル通りに作った組だ。

「ねえ桃百、清掃って言っても、もう普通に綺麗だよね。なーんでわざわざ二回も掃除しなくちゃ駄目なのかなあ」

特別教室ばかりが集まるD棟には放課後、基本的に人が居らず、校舎全体が静まり返っていた。そこに、耀華の愚痴混じりの言葉が僅かに響く。

「二回も、じゃ無いな、耀華。今日は午前に別のクラスも実習してたから、三回目」

「どんだけ綺麗にさせれば気がすむのよ。いっその事、清掃業者を雇ったら良いんだわ」

「美化委員が…………」

 言いながら、桃百は取り出したクッキーを耀華の唇に押し当てた。

「清掃の問題であまり文句を言うな」

 その動作で、手首に付けたライトイエローのブレスレットが揺れる。半年前、耀華が彼女の誕生日にプレゼントしたもので、以来ずっと付けて居るところを見ると、どうやらとても気に入ってくれたようだった。プレゼントをした側としては嬉しい限りである。元々は貰い物なので、耀華としてはそこまで感謝されるのも悪い気がしてしまうのだが。

ハート型に切り取られたそのクッキーは耀華達三人で作ったものだ。紙袋に三等分してそれぞれが持っていた。実習直後は粗熱が残っていたために、まだ味見をしていない。

ほんのりと熱が残っていたが、十分に甘さが感じられバターの風味と共に鼻を抜けていく。食感もさくさくとしていて、耳に心地良かった。

「うん、美味しいわねー。初めてにしては上出来なんじゃない、これ。将来は皆でお店でも開こうか」

耀華の言葉に苦笑しながら、桃百自身も口に放り込んでいた。その頬が少し赤かったのは気のせいだったか。

「…………氷砂糖とどっちが好きだ?」

「あのね、そんなにしょっちゅう食べてるわけじゃ無いのよ。私だって、普通のお菓子の方が好きだって。ただ、たまーに食べたくなるだけで」

「じゃ、じゃあ…………今度、私が何か作ったら食べてくれるか?」

「そりゃあ大歓迎だけど…………何を作ってくれるの?」

 お、と珍しい提案に嬉しくなった耀華だった。美夜は料理が得意だったりするが、菓子を作る事は無かった。なので、桃百が菓子作りに目覚めてくれたら、色々と作ってくれるのではないだろうか、などと都合の良い事を事を考えたりした。

桃百は少し思案して、

「氷砂糖は使わないだろうな」

「…………是非そうして下さい」

桃百の言葉に口を尖らせた耀華を微笑ましげに見ながら桃百は、

「とにかく、自分達で出来る事は自分達でやる。使ったら綺麗にする」

「はいはい、流石はスポーツ少女だね、桃百は」

部活動に所属していればそういう思考が身に付くのだろうか? もちろん、耀華だって自分達で汚した場所は責任を持って清掃するのが義務だとは思っているが、それにしても三回も掃除する意味は本当に有るのだろうかと思わざるを得ない。

「桃百、窓開ける?」

「ああ、埃は舞わないだろうけど…………まあ、一応掃除だし、一つくらい開けておこうか」

「じゃ、適当に…………って、ほんとに開け辛いわね」

 サッシは錆だらけで、あるいは経年劣化で歪んででも居るのだろうか。思っていた以上に立て付けが悪く、ガタガタと揺らしてようやく半分程度のスライドに成功したのみだった。無理をすればもっと開くのだろうが。

「それくらい開いておけば良いんじゃないか。あんまり無理して締まらなくなっても嫌だし」

「そうね…………」

 もしかしたら、ちゃんとレールの上に乗っていないのかもしれない。

ともあれ、取り敢えずは実習室の大きな机を拭いていく作業からだ。教室の端と端に分かれて、半分ずつ拭いて行く事にした。ともあれ、その机には丸椅子が乗っかっているため、机の全てを拭くわけでは、実は無いのだが。床を掃く時に邪魔だろうからと、実習後は椅子を机の上に乗せるルールが有った。

流石に何度も掃除しているだけあって、やはりそこまで汚れているわけでは無い。時間にして30分程で終了した。机を拭き、床を掃く。机を拭く際に、わざわざイスを下ろしたりはしなかった。むしろそれだけの作業でそこまで時間が掛かったのはだらだらと雑談しながら作業をしていたからだろう。

「ねえ、桃百。どうする? これから部活なんだっけ」

「うん、部活だよ。まあ、でも後三十分は大丈夫だから…………」

 桃百は少し顔を背けて言った。

「少し、話でもしないか? さ、最近、ゆっくり耀華と話も出来てなかったし、その…………今日は美夜も部活だから、待ち合わせをしてる訳でも無いんだろう?」

「ん? もちろん良いけど…………」

何時でも話せるのに、どうしたのだろうかと、耀華は思った。同時に、新鮮だな、とも。平日のこの時間帯に桃百と話をする機会はあまり無かった。美夜は文芸部に所属しているが、出席率は決して高くない。なので、帰宅時に一緒だったり、学校帰りに寄り道したり、というのは良く有る事だった。それに比べ、陸上部所属の桃百とは平日にゆっくりする機会が少なかった。中学時代からそうなのだが、たまにはサボれば良いのにと考えてしまうのは、耀華が帰宅部だからなのだろう。

「場所はどうする? 食堂ってまだ開いてるのかな?」

「…………ここで良いんじゃないか? 邪魔も入らないだろうし」

「邪魔って…………何を大げさな」

 恐らくは他のグループの話し声の事を言っているのだろうが、些か大仰な物言いだった。

しかし、考えてみれば、桃百と二人切りで話が出来るというのは願ったりだった。相談したい事が有ったのだ。とても相談し辛い事でも有ったのだが。

耀華が相談したい事。それは美夜の事だった。美夜の誕生日は十一月の一日。これから十一日後の事なのだが、そこで美夜には何か特別なプレゼントをしたいと考えていたのだった。桃百へプレゼントしたブレスレットのように。あのブレスレットはそもそも貰い物で、アルバイトもしていない高校生には手に余る値段設定のものだった。そこまで高価な物で無くとも良いが、それなりの物をプレゼントしたかった。…………一月の小遣いが五千円なので、それで何とか出来るくらいの物を。

(まあ、値段じゃ無いんだけどね、プレゼントってのは。でも…………ああ、どうせならアルバイトしておくんだったなあ)

 今更悔やんでも仕方の無い事なので、頭を振って忘れる事にした。

「どうした?」

「う、ううん、何でもない!」

 耀華の様子を不審に思ったのか桃百が顔を覗き込んできた。慌てて否定する耀華だったが、何か有る事が確実なリアクションになってしまった。桃百は不思議そうな顔をしていたが、深くは追求してこなかった。

それから少しの間、言葉を交わした。

 桃百は普段無口な方だが、耀華と美夜の前では良く喋った。部活内でも基本的に無口らしいので、これは特別な友情の証だと思っている。それが何と無く誇らしくて、嬉しい。桃百はその容姿とスタイルから学内での評判も結構高かったりするのだが、本人にその気が無いために浮ついた話の一つも持ってこない。

桃百は最近の部活での事などを中心に話をしていた。部活に所属した事が無い耀華にとって、そうした話は単純に面白い。

だが、どうやって美夜へのプレゼントの件を切り出そうかという意識が大きくて、少しぼ~っとしている部分も有ったので、聞いていない部分が有ったのも確かだった。

案の定、

「もしかして、何か別の事考えてる?」

 と、指摘されてしまう。

指摘されて、大いに動揺した。

「……………………」

単純に美夜へのプレゼントを何にしようかという相談ならば、当然躊躇する筈も無い。

だが、特別なプレゼントなのだという理解を求めるためには、どうしても耀華の性癖を暴露する必要が有った。

それは恐ろしい事だ。下手をすれば桃百との関係すら破綻してしまう可能性も有ったからだ。耀華自身、自分は人間として何かおかしいのではないかと、悩んだ事も有ったからだ。

その事について調べても、社会的に少数派で在る事は歴然としており、社会が寛容で無い事も簡単に推測出来たのだった。

しかし、ここでもう一人の大切な親友である桃百に、意見を求めておくのは良い事なのかもしれない。自分の性癖を親友に暴露するのはかなり抵抗があったが、桃百には美夜に相談出来ない事も、これまで相談してきたりしていた。

同性愛を暴露したとしても、あるいは桃百ならば耀華には寛容で居てくれるかもしれないと、そう信じる部分も大きかったのだった。

だから、思い切って言葉にしてみた。最初の一言はかなり勇気が必要だったが、それでも何とか言葉にはなった。親友にすら言えない事を、どうして本人に伝える事が出来るだろうか。

「あ、あのさ。少し相談が有る…………んだけど」

「相談? 良いよ」

「ね、ねえ、桃百。そ、その…………女の子同士の恋愛って、ど、どう思う?」

 その言葉は緊張に塗れ、どもり気味になってしまい、

「…………!」

 その言葉を受けた桃百は驚いたように耀華を見つめた。

「ど、ど、どうって…………?」

 問われて、耀華は更に気恥ずかしくなった。

「そ、そのままの意味だけど…………やっぱり、おかしいの、かな」

 緊張で吐き出しそうになりつつ、それでも何とか言葉に出来た。動悸が激しくて、顔が熱い。

「よ、耀華…………その、私は…………」

 桃百はどうしてだか言葉に詰まり、視線を逸らした。桃百は美人だったが、浮いた話は聞かないし(そんな話が有れば、耀華の耳に入っていないはずが無いという自信も有った)、恋愛関係の話に疎いのは分かっていたが、ここまで免疫が無いとは思っていなかった。もちろん、疎いのは耀華も同様だったし、浮いた話が無いという点で言えば、確実に桃百以上だという自負も有った。

「べ、別に良…………」

「私ね、実は…………美夜が好きなの」

 桃百の反応に、耀華もまた気恥ずかしくなって、被せ気味にそう言ってしまった。プレゼントの相談をする筈だったのだが、一足飛びにそこへ着地してしまった。まあ元々それを相談しなければ特別なプレゼントの話も出来ないので、別に構わないと言えば構わないのだが。

「……………………え?」

 その言葉を受けて、桃百は、眼を丸くしていた。そういうリアクションになるのは仕方が無いと、耀華は思った。何時も一緒に過ごしている親友が好きなのだとカミングアウトされれば、誰だってこういう反応をするに違いないと。

「意識したのは高校に入ってからなんだけど…………もしかしたら、ずっとそういう眼でみてたのかも。何だか、最近胸の辺りが苦しいのよ。だから…………」

 耀華は一度言葉を切った。

「本当なら直ぐに告白するべきなんだろうけど、ちょっと、勇気が無くて。だから、今度の誕生日に、何か特別なプレゼントとか渡して、その…………弾みに出来ればって、想うんだ」

 結果的に、美夜への想いを語った事が、耀華の口を軽くしていた。耀華は上手い具合に目的を相談出来ている事に、少し満足していたが、

「………………………………」

 桃百は絶句していた。

何かが抜け落ちたような、そんな表情をしていた。

しばらく沈黙していた桃百の態度に気まずくなって、耀華は何とか理解を得ようとする。

「だから…………その、自分でも変な事言ってるのは分かるけどさ、でも、好きになっちゃったのよ。おかしいのは分かるけど、おかしいなりにどうにかしないとって、そういうのも有って…………」

「……………………」

桃百は答えない。

「だから、取り合えず今度の誕生日に、何か特別なものでもプレゼントしたいなって…………」

 やはり何も言わない桃百は、表情を無くしたかのように耀華を見ていた。

そして、顔色を窺うかのように、耀華は決定的な事を言ってしまったのだった。

「…………桃百に上げた、ブレスレットみたいに」

 その言葉を言った瞬間、桃百の表情はとても苦しそうなものに変わった。

「…………渡せば良い」

「え?」

「プレゼントでも何でも、渡せば良い! このブレスレットでも何でも!」

 突然の激高に、耀華の血の気が引いた。

親友ならばきっと理解してくれるに違いない。そんな風に考えていたが、

(やっぱり、嫌われる…………?)

 自分の考えは甘かったのだろうかと、耀華は想った。

そして、次の瞬間、桃百が取った行動は予想外のものだった。恐らくは本人にとっても。

「こんなもの!」

 桃百は右手首に付けていたブレスレットを力任せに外して、耀華に投げつけたのだった。

その瞬間、桃百は自分の取った行動を後悔するかのような苦痛を表情に滲ませた。

 ともあれ、運動神経に優れているとはいえ、ブレスレットはボールでは無いのだ。紐状のそれでまともなコントロールなど付けられる筈も無く、また、余計な力が多分に篭っていたようで、投げる動作の途中ですっぽ抜けて、窓の方へと飛んでいった。

たまたま半開きになっていた窓の方へと。

そのまま外へ飛んでいく事は無かったが、窓の桟に引っかかって、外側へとズルズル落ちていった。間も無くチリン、という金属音がしたので、恐らくは外の出っぱりに引っかかったのだろう。

「…………あ…………」

呟く桃百に、耀華は驚きの視線しか返す事が出来なかった。

 桃百はブレスレットの飛んでいった方向に視線を留めていたが、やがてゆっくりと耀華の方へと眼を向けた。彼女はとても気まずそうな感じにしていたが、やがて泣きそうな顔をした。桃百のそんな顔を見るのは初めてだったので、耀華は胸が痛くなった。

「…………!」

 何も言わずに、桃百は実習室から飛び出していった。

それを追うことなど、耀華には出来なかった。

親友にハッキリと拒絶されたショックと、桃百の苦しそうな表情で頭が混乱していた耀華だったが、

「…………拾おう」

拒絶された事は置いておくとして、ブレスレットを投げ捨てた瞬間の顔を思い出すと、あれをそのままにはしておけないと思った。一時的に癇癪を起こしただけで、直ぐに仲直り出来る筈だ。その時にあのブレスレットの事を、桃百はきっと後悔するだろうから。

ブレスレットが落ちた時、直ぐに音がしたので、外の出っ張りに引っかかっているに違いないと想っていたが、果たして予想は当たっていた。

ほんの二十センチ程度の出っ張りに、上手い具合に乗っかっていたのだ。

(手は…………頑張れば届く、かな?)

姿勢的に、桟で身体を支えていてはブレスレットへは届きそうに無い。しかし、窓枠で体重を支えれば、何とか届くかもしれない。

「まあ、大丈夫、よね」

 立て付けの悪い窓。…………しかし、自分程度の体重なら問題無く支えられるだろうと考えた。

耀華は恐る恐る窓枠に手を置いて、少しずつ体重を掛けながら、出っ張りに落ちたブレスレットへ手を伸ばした。桟に体重がかかり、お腹に鈍い痛みを与える。

しかし、やはり届かない。

窓枠に少しずつ体重を乗せて、これは大丈夫なのではないかという考えが出始めた時に、慣れのせいも有ってか、段々と躊躇が無くなっていった。

余裕が生まれたのかどうかは分からないが、耀華は半泣きになっていた。怒鳴られたショックと、拒絶されたショック。親友に嫌われたかもしれないという想いは、耀華にとって大きなダメージだった。

(謝らないと…………でも、謝ってどうにかなる事でも無いし。明日から、一緒に居れないのかな…………美夜には何て言おう)

外へと乗り出す身体の面積が、少しずつ大きくなっていく。

(気持ち悪いって、想われたのかな。ブレスレットも、もう受け取ってもらえないかな。でも、まだ友達で居てくれるなら…………)

届け届けと、腕を伸ばしていく。

目標のブレスレットまではもう直ぐだ。

「もう…………少し」

 もう少しで指がブレスレットに触れる。触れれば取る事が出来る。その思いだけが強くて、落ちるなどと言う事は少しも考えなくて。

よせば良いのに。

窓に全体重を乗せていた。

ギギ…………と、間延びした音が耳元で聞こえた。それは破滅的な音だった。

窓枠ごと外れるという自体を全く想定していなかったと言われれば、そんな事は有り得ないだろうと耀華は思っていた。

だから、一瞬何が起こったのか分からなくて。

「あ…………」

という言葉が実際に発せられたのかどうか。

(やばい…………落ちる…………駄目)

背筋が凍りつき、内臓がせり上がる心地を覚えた。何とかしようとして、しかし何が出来るはずも無く。

右足が残った方の窓枠に辺り、姿勢が上下逆になった。

それでも良かった点が有るとすれば、だからブレスレットに手が届いてしまった事だ。

どうしようも無く悪い点を上げるとするならば、落下はもう避けようが無いという事で。

衝撃が全身を貫いて、ガラスの割れる音が耳に響いた。

何が起こったのかを全て理解したのは、実際の所、落下した後の事だった。




              ※    ※



「耀華! 耀華!」

 耳元で声が聴こえた。

それは桃百の声だった。懸命に耀華の名を呼んでいた。瞳から頬へと涙が伝い、耀華の頬へと雨の様に落ちる。その涙は血と混じりあい、地面へと溶け込んで行った。

人生最大最期の衝撃を背中に受けて、耀華の意識は崩壊寸前だった。茫洋とした意識の中、淡々と状況を把握する。

(三階から落ちて…………上に窓が落ちてきて)

粉々になったガラスが、耀華の身体を切り裂いていた。何処か重大な血管が傷を負ったのか、あるいは破裂したのか、耀華の身体は血溜まりの中に在った。

落下の衝撃が内臓に衝撃を与え、機能不全を起こしていた。衝撃による痺れもあるだろうが、身体が上手く動かない理由の第一はそれだった。

息が苦しく、血の味がして、身体の全身が熱く、しかし底冷えの冷気が奥から忍び寄ってきていた。意味も無く身体が震えて、カチカチとガラスが鳴っていた。

痛みは感じなかった。それは恐ろしいことだったが、朦朧とした頭では何がおかしくて何がおかしく無いのか、そんな事も分からなくなっていた。

身体の上に乗っかった窓枠の、散々に破裂したガラス。小さな砕片も大きな砕片も、薄暗い校舎裏の中に有って、僅かな光の反射が鈍く光っている。その鈍い光が自身の死を想起させて、一瞬だけ恐怖が立ち上った。

罅割れたガラスもあって、光の反射率を極端に喪失したそれは、氷砂糖のようにも見えた。

(甘く、無いけど…………)

もうどうしようも無いのだと悟って、そんな事を考えたら少し笑えて、笑みを作るが、それは決して上手くはいっていなかった。

「耀華、しっかりしろ! 救急車、すぐ来るから!」

 手のひらに温もりを覚え、桃百が握ってくれたのだと知った。血まみれの掌を躊躇無く握ってくれる親友に、そう言えば先ほど喧嘩をしたのではなかったかと、思い出す。

「…………ぃ…………」

「耀華? どうした? き、聞こえ…………聞こえ、ないよ」

桃百は咽び始めていた。その顔は苦悶に満ちていて、

(そんな顔しないで…………)

 耀華は安心させようと、再び笑みを作ろうとするが、やはり上手くいかない。

(謝らないと…………美夜のプレゼントも、相談…………)

やりたい事はたくさん有って、伝えたい想いもたくさん有った。

だが、耀華には既に、そのどれか一つでも出来る時間は無い。

その命が散ったのは救急車の到着よりも早く…………。

気が付いたら、死んでしまった耀華は、どうしてか校舎裏に佇んでいたのだった。



           5



気が付いたら、耀華は校舎裏に居た。D棟の校舎裏。耀華が死んだその場所に。

(ああ…………全部思い出した)

 そこには美夜と桃百も居た。時間帯は放課後だろうか。二人は神妙な面持ちで、耀華が死んだ場所に手を合わせていた。

 新しく容易したのか、花と…………透明な袋に入った氷砂糖。

(だから、手向けられるほど好きじゃ無いってのに)

 苦笑して、しかし、有り難く受け取っておくことにしようとも思う。食欲などという概念は、もう根こそぎ何処かへといってしまったのだが。

(美夜の誕生日…………もう過ぎちゃってるよね)

 プレゼントが出来ていたとしたら、自分は何を上げる事が出来たのだろうかと、耀華は考えた。そしてその結果、何時か告白する事が出来ていただろうか。

桃百は耀華を好きだと言った。もし実際に告白されていたら、何と答えたのだろうかとも、耀華は考えた。その結果、美夜への想いと、どうやって折り合いを付けたのだろうか。あるいは、桃百からの気持ちを受け入れる事は出来なかっただろうか。

美夜への想いは硬い意思に包まれていたが、桃百から告白されれば脆く崩れ去っていた可能性も、もしかしたら有った。あるいは、桃百から告白された結果、彼女の思いを硬く突っぱねて、脆く崩れさせていた可能性も有った。

(…………その前に、桃百には謝らないと。…………無神経に相談しちゃった)

思えば、耀華は何も出来ていなかった。桃百は何も出来なかったと言っていたが、それは耀華自信が強く思っていた。実夜を想っている間、ずっと甘い何かに浸っているような気がして…………それで満足出来ていたのかもしれない。特別なプレゼントなど、本当に出来ていたかも怪しい。

本当の気持ちを伝える事も無く、結果に伴う本当の所を知る事も無く。

愛していたのは、硬く、脆く、そして甘い、そんな気持ちの中に浸っている事だったのかもしれない。氷砂糖の中に閉じこもっていられれば、耀華はそれで良かったのかもしれない。

(結局私は告白も、プレゼントすら渡す事が出来ないまま…………桃百とも喧嘩したまま…………)

 生きている間に出来なかった事で、後悔といえば親友二人に対するそれでしかない。

不思議と涙は出なかった。自分が既に死んでいるという事実も、実感として受け入れる事が出来ていた。しかし、それに対して何を思う事も無かった。ただただ、親友二人に対する後悔が強く、耀華は自分が死人らしく在る事に苦笑した。

(死者が化けて出るのは…………未練が有るから、か)

 だとすれが、今の自分は美夜への想いを伝える事が出来なかった事、それのみに特化した一つの思念に過ぎないのかもしれない。あるいは桃百に謝る事が出来なかった、後悔の塊なのかもしれない。

(ああ、そうか…………あのメールが残された最期の手段だったのかな。また私、馬鹿な事した…………。美夜に想いも伝えられず、桃百に謝る事も出来ないまま…………)

気が付いていた。

自分の身体が薄くなってきている事に。意識も希薄になってきている。

このまま何も出来ずに消えてしまうのだろう。

(美夜、大好きだったよ。桃百、困らせてごめんね)

 その声は届かない。

最早、見えない膜で遮られているように、こちらとあちらで遮断されていた。

 その膜は決して破ることの出来ない、硬い膜だった。その膜は耀華を丸ごと包み込んで、幸せに至る甘い夢を、最期に見させてくれた。しかし、何も出来ないまま、その夢は脆く崩れ去っていく。

何も出来はしなかったが、

(さよなら)

決して届く事は無かったが…………二人に対して言葉を残せて、その点だけは満足していた。

…………耀華の意識が戻る事は、二度と無かった。



              ※    ※



耀華が消えた後で、二人の少女がふと顔を上げた。

「…………?」

 共に不思議そうな顔をしていたが、胸の辺りを押さえ、呆然としていた。

もう二度と戻らない筈だった何かが、流れ込んできたのか。

あるいは喪失した何かが一瞬でも満たされたのか。

十日前よりも確かに冷たくなった空気の中、しかし、今この瞬間だけは何よりも暖かい風が吹いたような、そんな気がしたのだった。

深まっていく秋の空気が、何処からか甘い香りを運んできた。

 氷砂糖のような気持ちを抱いたまま、二人の少女はこれからも生きていく。

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氷砂糖 @bagu

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