白夜行・明
幻想は現に消え、現霞は幻に散った。
「彼は……?」
その小さな言葉が。その紅い瞳が。その禍々しい存在が。
その全てに、今までにない圧を感じる。
闇はより
『戻ったわ……本来在るべき場所に』
心に起きた漣を隠し、あくまでも平静を取り繕う。
彼に知られてはいけない。彼に悟られてはいけない。
彼を畏れているなどと――悟られてはいけない。
「……そう。僕は、てっきり……――」
言い澱む。そうして、現実を直視する。
闇は影となり、死は原初の落ち着きを取り戻し、狂気は虚に去っていく。
「――……あれ、僕は……ウィッチ・クイーン?」
瞬いた刹那、彼はタナトスに戻っていた。
兇暴な衝動と何処とも知れぬ焦燥に駆られ、失っていた正気が戻ってくる。
『おはよう、タナトス。よく眠れた?』
それは。タナトスが知る彼女を象徴する莞爾とした笑みだった。
タナトスは――何故かその笑みに安堵を覚える。
悪夢は薄れ、今が戻る。
「ウィッチ・クイーン……
『……そう』
それだけ。
それ以上の言葉は要らない。
理解している。何が起きたのか。何かが起きて、また元に戻ったことを。
『お帰りなさい、
ゆっくりと両腕を広げ、彼女は優雅に笑う。
「……ただいま、ウィッチ・クイーン」
彼はゆっくりと、彼女の腕の中に倒れこんだ。
†
ゼロの領域――黄桜亭。
本来、複数個の存在を拒絶するこの世界が、今複数個の存在を受け入れていた。
「一件落着、ですかねぇ……」
亭主・黄桜は手を休めて暢気に言う。
「どうやらそのようだ。……おい亭主、酒がないぞ」
「はいはい只今」
冥府の王・ハーデスの傲慢な物言いに厭な顔もせず従う。
その隣には、
「しかし、こうして貴方と酒を酌み交わすことになるとは、思っていませんでしたよ」
魔界の王が手酌でワインを注いでいる。
「フン……吾もこんなことになるとは思ってなかったさ」
その隣、紅き竜の王が後を次ぐ。
黄桜はカウンター越しに三人の顔を見やり、おかしそうに笑う。
「……何がおかしい」
「いえ、“王”の名を持つ者が三人揃って同じことを考えていたのかと思いまして」
「お前だってそう思っていたんだろうが」
「えぇ、まぁ……そうですねぇ」
「それに……誰でしたっけ、私を此処に呼びつけたのは?」
「えぇ、まぁ……私ですねぇ」
「それに……誰だったかな、吾に眠り薬を飲ませたのは?」
「えぇ、まぁ……その節はどうも」
三人の前に新しい酒をそれぞれ振舞い、黄桜は手に持った包丁の背をゆっくりと撫でる。
「それはともかく……例の件、お忘れなきよう」
「フン……言われなくとも解っているさ」
「百害あって一利なし。または……死人に口なしってところでしょうか」
「吾は無関係だ、巻き込まれるのは御免だね」
それぞれが器を掲げ、黄桜に向ける。
「我ら王の名において誓おう。決して口外せぬことを」
「我ら王の名において誓おう。決して放棄せぬことを」
「我ら王の名において誓おう。決して相見えぬことを」
「その誓い、守られて然るべき禁忌。決して破られぬことがないよう願っていますよ」
夫々の王は夫々の杯を交わし夫々の居場所へと帰っていく。
ただ一人残ったハーデスは、まだ酒の残るグラスを手にしばし虚ろを見つめた。
黄桜はふと疑問を抱き、訊ねるべき相手が目の前にいることを良いことに、直接訊ねることにした。
「ところで、冥王様は彼に殺られてしまったのでは?」
「嗚呼、そのことか……フン。王たる私を、たとえ鏡とはいえ偽りの死で殺せると思うか?」
「ご尤も」
普段ならそれで終わる話。だが酒で饒舌になったか、ハーデスは続きを漏らした。
「尤も、私が言ったことは本当だ」
「……というと?」
「たとえ殺されるとしても、それが奴の意志であれば甘んじて受け入れる。
私にはそれをするだけの義理があるし、それを拒絶する権利はない」
「なるほど……」
残った酒を一気に飲み干し、彼もまた席を立つ。
「本当なら、あの椅子に座っているべきは私ではなかった」
そうして、彼も去っていく。
黄桜は問わない。では誰だったのか、と。
「またのお越しを、お待ちしておりますよ」
ただそれだけを言い、黄桜は去っていく背を見つめる。
――りぃん――
小さな鐘は、今も何処かで鳴り響いている。
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