白夜行・鬼

 死神とは“眠りを齎すもの”であり、“終焉を齎すもの”である。




 一本の小道がある。

 その道の傍らに、一本の古木が立っている。

 桜が咲く季節でもないのに、その古木は大輪の桜を咲かせ誇っている。


 その花弁は――仄かに黄色味を帯びていた。


「黄桜亭、か……見たままといった感じだね。分かりやすくていい」


 その古木の横、暖簾なき料亭を前に、冥闇を従えたヒュプノスが立っている。

 冥府でもなく、人界でもなく、魔界でもない。敢えて表現するなら異界というべき場所。

 限られたものにしか訪れることの出来ない、隠れた名店である。


「亭主が認めたものだけが訪れることが出来る……か。楽しみだね」


 ヒュプノスはくすくすと笑みを浮かべ、引き戸を開けた。


「いらっしゃいませ」


 亭主・黄桜は、普段と変わらぬ様子でヒュプノスを迎えた。

 店内に、先客はいなかった。


「カウンターにどうぞ、死神さん」


 亭主に勧められ、ヒュプノスはカウンター席に腰掛ける。奇しくもそこは、タナトスが指定席とする場所であった。

 果たしてこの亭主はこの差異に気付いているのか、いないのか。


「気付いていたとして、何が変わるとも思えないけどね」


「何か?」


「ううん、こっちの話」


「いつものやつで?」


「うん、お願いするよ」


「はい。少々お待ちを」


 亭主は一礼し、裏へと引っ込む。

 ヒュプノスがしばらく店内を眺め回していると、ほどなくしてその手に小皿を載せて戻ってきた。


「お待たせしました、プリン・ア・ラ・モード黄桜スペシャルです」


「ありがとう」


 言ったきり、ヒュプノスはそれを楽しげに眺めるだけで手を付けようとはしない。


「お食べにならないので?」


「うん。これはのものだからね。僕が食べちゃ、失礼でしょ」


 しかし亭主は食器棚から長柄のスプーンを取り出すと、彼の前に差し出した。


「いいえ、これはのものですよ。彼の分は、また別に用意してあります。

 これは、貴方のものです。ですから……さ、どうぞ」


「……そうかい? じゃ、遠慮なく」


 スプーンを手に取り、ふんわりと盛られた生クリームの山に突き立てる寸前、彼はもう一度亭主を見やった。


「……何か企みでも?」


「おや、そう見えますか? やはり神様の目は誤魔化せませんか。

 ……。別に何も企んではいませんよ。私はしがない小料理屋の亭主ですから」


「……そう」


 お互い、底が知れないのは同じなのだとヒュプノスは思う。

 底知れぬ者同士、これ以上馴れ合うのはよそうとも。

 ヒュプノスはにこにこと生クリームの山を崩しに掛かる。5分としないうちに、その山は綺麗にヒュプノスの胃に消えた。


「そうしていると、まるで本当にを目の前にしているようですね」


「うん。時々だけど、彼の代わりに訪れているからね」


「…………」


 何気なく言ったつもりだったが、亭主は若干笑みを引きつらせた。

 ヒュプノスはその様子をにこにこと見つめている。

 事実、黄桜亭に来たのはこれが初めて。誰も居ないときを見計らって、何度か訪れたことはあった。


「実を言うと、プリンが好きなのはのほうなんだ。けれど、彼が頑張っている間、僕はあの部屋から動けないでしょ?

 だから、彼は僕の代わりっていうか、僕のためっていうか……きっと、彼なりの思いやりなんだと思うよ。

 こうして僕本人が来れる機会っていうのは稀だけどね。彼は休むということを知らないから」


「それはそうでしょう。彼には休む暇などありませんから。

 それこそ、世界中の生在るものたちがいなくなりでもしない限り」


「それは……まぁ、そうなんだけどね」


 ヒュプノスは笑みを苦笑に変え、席を立った。


「ご馳走様、美味しかったよ。ありがとう」


「……私には訊かないんですね?」


「もう訊いたよ。そして答えも得た。君は……まだよく分からない、っていうのが本音かな。

 やみでもかげでもひかりでもなく、そして“人間”ですらない……全てにおいて規格外だ。

 そうだなぁ……ある人は、君を“均衡を保つもの”というだろうし、ある人は君を“均衡を崩し得るもの”というだろうね。

 と同じで、やろうという気さえ起きればいくらでも状況を覆せる力を、君は持っている。


 ……けど皮肉だね。君はその力をしたくてここに留まったのに、結局はそれが、その力を手に入れるためのだった。

 君は留まった。僕は留まらざるを得ない。けどは……まだ選択の余地が残されている。

 は……どうだろうね」


 そうして、“終りを司る者”は去った。


「貴方は、どうやらひとつ勘違いをしているらしい……。

 私は、私の意思で留まっているわけではない。や、私を取り巻く多くのものが、それを私に求めたからこそ、私は私としてここに在るのです。

 それはきっと……貴方にも適用されるひとつの理であるように思えますね」


 彼が座っていたカウンターを見据え、亭主は底知れぬ笑みで呟く。


「またのお越しを、お待ちしていますよ」




 ――りぃん――




 小さな鐘が鳴り響く。


 時はもう、それほど残されてはいない。

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