白夜行・魔
死の象徴である鎌は、死の具現である死神にとってなくてはならない相棒である。
タナトスは――ヒュプノスはだからこそ、その鎌を手放さなかった。
そこがたとえ、人界の雑踏の只中であるとしても。
行き交う人々は皆、長大な鎌とそれを持つヒュプノスに対し好奇の視線を向けてくる。
だが、それだけだ。恐怖も畏怖もまるで顕にしない。
以前はこうではなかったと、ヒュプノスは笑みを浮かべる。
「我ら神々の存在が変化したことで、彼ら王の存在も変わり、また人々の心も変わった、というところかな……」
尤も、世界は常に変化を続けている。それは喜ぶべきことであり、忌むべきことではないはずだ。
死の具現が街中を歩いているというのに、人々がそれに恐れ戦かなくなったのもまた、嬉しい変化だと言えよう。
「死を受け入れるだけの度量が備わってきた……そう受け取ることもできるからね」
彼はしばらく雑踏の中に身を沈めていたが、やがて一本の小道の中へと身を滑り込ませる。
急速に雑踏から離れ、人の気配を感じなくなる。
小道を抜けた先は、やや広大な広場。元は神社仏閣の類があったのであろう名残が、そこかしこに見られる。
見上げれば、空には真円に程近い月が顔を覗かせていた。
「……来たね」
しばらくそうして月を見上げていた彼だが、呟き視線を戻す。
視線の先には、一人の男が立っている。
優美な挙措も艶やかに、魔界の王は立っていた。
その表情は険しく、普段の柔和な印象はまるでない。魔界の王たる者の真の顔である。
「何者だ、貴様……彼ではないな」
「ご明察。僕はヒュプノス。彼と同じ、終りを司る神の一人だよ」
彼の指摘に、ヒュプノスはあっさりと差異を認める。
「……その神とやらが、私に何の用か。わざわざ人界を介し、彼との約を用いて接触を謀ることの意義は」
「君は彼が彼になった後、いち早く目を付けた者の一人だよ。だから訊いてみたいことがあったんだ。
ここに居れば来てくれると思ったよ。ここは、君と彼とが初めて出遭った場所だからね」
彼の質問を無視し、ヒュプノスは告げる。
彼は訝しげに眉を寄せたが、それを指摘することはなかった。
「……いいだろう。訊きたいこととは?」
「簡単なことだよ。僕が訊きたいのは……そう。
――何故、彼でなくてはならなかったのか」
風が吹く。針のような傷みを伴う風が。
その風の只中にあって尚、ヒュプノスは笑みを崩さない。
「これはあとで彼女にも訊いてみようと思ってるんだけどね。せっかくだから先に君から。
死神という存在は、彼だけではないよね。死神という存在は、形や名はどうあれ、純真で無垢で愚かなものだ。
その中で唯一、彼だけが違う――異質、異彩、異形、異名。ありとあらゆるものが、他の死神たちとは一線を画している。
彼女の寵愛と、彼の分譲と、彼の代替と、そして……君の好意が、彼という存在を歪めてしまった。
いや――正確には昇華させたのかな。
ともかく、彼という存在は他の存在よりもひとつ高みへと昇らされた。と同時に、僕もひとつ高いところに手が届くようになったんだけどね。こうしていられるのもそのお陰かな……。
僕が訊きたいことはひとつだよ。
何故、彼だったのか。彼でなくてはならなかったのか」
それだけを言い切り、ヒュプノスは答えを待つように口を閉ざす。笑みも消え、紅の瞳がただ真っ直ぐに彼を見抜く。
一瞬だけ吹いた風は鳴りを潜め、天上輝く月光だけが、静かにこの二人の邂逅を見守っている。
しばし思案するように沈黙を保ち、彼は不意に顔を綻ばせた。
「成る程……貴方が私の前に現れたのはそういうことですか」
「……どういうことかな? 詳しく聞かせて貰えるかい?」
笑みと共に訊ねるヒュプノスに、彼はゆっくりと頭を振る。
「残念ですが、これは貴方に聞かせるべきことではない……。
質問に答えましょう。何故、彼でなくてはならなかったのか。
――簡単なことです。彼だからですよ」
「……というと?」
「彼が彼で在ったからこそ、私は彼と出逢うことが出来、彼に興味を抱き、彼に好意を持った。それだけのことです。
貴方は逆意という言葉を知っていますか?
彼でなければならない理由はありません。しかし、彼以外でなければならない理由もまたない。
彼が選ばれたのは、数多ある可能性のひとつに過ぎません。
彼という存在が元々特殊なものだったのか、存在していくうちに特異性が備わっていったのかは別として。
私が彼を選んだのは、彼が彼であったからこそです。それ以外の理由は在り得ません」
彼は本来の柔和な笑みを――愛すべき死神を見つめるときの表情を浮かべ、淡々と語る。
ヒュプノスは笑みを深くし、くすくすと嗤いを漏らす。
「これで満足ですか?」
「ええ、十分。
よく考えてみれば、君は彼が彼になった後に出遭ったんだった。それじゃあ分からないはずだ。
訊く相手を間違えていたみたいだね」
ヒュプノスは一度肩を竦めて見せ、くるりと彼に背を向ける。
「次を当たることにするよ。
嗚呼、僕がここに来たのは彼との約束を護るためではないよ。
僕が来たことで約束が反故になるわけじゃないから、安心して」
背中越しに告げながら、ヒュプノスは再び昏い小道へと姿を消した。
その背を見送りながら、彼は誰にでもなく呟く。
「成る程……ヒュプノス。彼もまた、彼と同じく、愛されるべき存在なのでしょうね。
けれど残念だ。私が求めるものは、安息を約束された“眠り”などではない……。
もっと明確な、鮮烈なまでの“死”を、私は欲するのだから――」
邂逅の後に残ったものは、静かな風と、月明かりだけだった。
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