白夜行・冥
鏡の中に映り込む自分を“他人”と否定し続けることで、“己”というものは容易く崩壊する。
紅の瞳をした死神――タナトスは、口元に楽しげな笑みを浮かべて、その歩みを冥府の中枢に向けていた。
左手には無造作に鎌を握ったまま、彼はノックもなく目の前の豪奢な扉を押し開けた。
「――――」
突如目の前に迫った鋼の塊を、彼は柄尻で受ける。
「む……? なんだ、タナトスか。脅かすな、危うくお煎餅にしてしまうところだったじゃないか」
鋼の塊を振り抜いた張本人――冥府の王にしてこの部屋の主ハーデスは、特に悪びれる様子もなく言った。
彼の右手にあった鋼の塊は、ぐにゃりと形を歪め小槌として彼の右手に納まる。
タナトスもまた鎌を引き、けれど笑みは浮かべたままに問うた。
「危ないなぁ。何をするの?」
「厭な予感がしたものでな。ここに在ってはならぬものが入り込んだような……異様な心地だ」
ハーデスは珍しく眉根を寄せて腕を組み、何事かを深刻に考えている様子だ。普段の彼からは想像し難い光景である。
「ところでタナトス。お前今まで何処に行っていたんだ? 探していたんだぞ」
「うん、ちょっと自室にね……」
「ほう……珍しいな、お前があそこに帰るなど」
ハーデスは軽く目を見開き、驚きを顕にする。
その様子に、タナトスは笑みを深くした。
「そうかな? 自分の部屋に戻ることがそんなに珍しいことかい?」
「いや……そういえば、あそこにはお前の弟がいるんだったな。弟は元気か?」
「うん、元気だよ」
答えてから、タナトスは自分の過ちに気付く。
「……やはりな」
ハーデスが腕を解き、そう呟いたときには、彼の笑みは苦笑に変わっていた。
「……いつから気付いてた?」
「最初から。お前が此処に入り込んでからだ――ヒュプノス。
何をしにきた? わざわざタナトスに成りすまして、私に何事か用でもあるのか?」
自分の正体が既にバレていることは承知していた。
相手が本当にタナトスであったなら、ハーデスはあんな軽率な行動は取らない。
それに、彼には正体がバレていようといまいと、しようとしていることに変わりはないのだ。
「用か……うん、確かに用はあるよ」
「何だ。わざわざお前自身が出てこなくてはならない用か?」
彼の手の中で、鋼が再びぐにゃりと形を歪める。
「君を殺しに来たんだ――ハーデス」
その変化が収まる前に、ヒュプノスは動いた。
両手で握っていた鎌の柄を中央から分離させ、全身のばねを駆使して、左手に持った鎌の先端を下方から振り上げるようにして放つ。
重苦しい風切り音を発しながら、鋭く弧を描いて鎌はハーデスの頸元に迫る。
「ふん――その程度でこの私を殺せると思うな」
形を歪めた鋼は、細身の剣として彼の手の中に顕現し、迫る鎌を容易く弾き返す。
「……だと思った」
右手を引き、鎖で繋がった鎌を引き戻す。
「ひとつ訊こう。これはお前の独断か? それとも、こうなることはタナトスの意思か?」
右手に握る剣の切っ先を真っ直ぐヒュプノスに向け、ハーデスは問う。
対し、ヒュプノスはくつくつと笑みを漏らし、答えた。
「忘れたのかい? 僕らはふたりでひとつの存在だよ……僕の意思は彼の意思、彼の意思は僕の意思。
僕らの意思は僕らの総意だよ」
そうして、再び鎌を投擲する。先ほどよりも鋭く、より正確に。より柔軟に。
「そうか、ならば――」
ハーデスはそれを――敢えて受けた。
「お前に殺されるのは癪だが、それがタナトスの意思であるなら私は甘んじて受けよう」
「――そうかい」
――そうして、冥府の王は倒れた。
「……呆気ないな。所詮はこんなものか……」
鎌に付いた血を振るうことで払い、再び柄と一体として、たった今自らが殺したものを無表情に見下ろす。
「忘れてもらっては困る。僕らは君らのような王ではなく、神であるということを……」
その視線は、遥か彼方に居るであろう、ある世界の王に向けられていた――。
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