喪われた記憶の欠片

 夢は眠りの眷属だと思われているようだが、本当は、夢は死の幻想である。




 冥闇くらやみの支配者、死神としては名を与えられた死神――タナトス。

 彼は目の前に鏡像を置いて、に思いを馳せる。

 もう一人の自分は、彼女が夜に似ていると言った。

 タナトスは母の面影を覚えてはいない。、自分はタナトスとして、日々を奔走していたに過ぎない存在だ。

 誰が自分を生み出したのか――そんなことは最早、疑問にも思わなくなっていた。彼にとっての疑問は、自分という存在はいつ消え逝くのかというものだけだった。

 人間たちが消え逝く先にいる自分は、一体何処に消え逝くのかと。


 彼女はどう思うだろう。自分がこんな疑問を抱えていると打ち明けたら。

 彼が知っている彼女なら、莞爾と笑みながらその答えを説いてくれると思った。

 果たしてそうなるかどうかは、実際に訊ねてみなければ分からないが。


「タナトス……我が愛しき兄弟よ。思い出してごらん。彼女と初めて出逢った日のことを……」


 白い鏡像が口を開き、彼の思考を誘導する。

 言われるままに、彼は彼女と初めて出逢った日の記憶を探る。

 そして気付く。


 そんな記憶はことに。


 そんな彼の様子に、鏡像の彼はやはり悟っていたかのように微笑する。


「やっぱり覚えていないよね……嗚呼、そうか。君と彼女との記憶は、一度として失われているんだったね。それじゃあ覚えていないわけだ……」


 くすくすと笑う鏡像を前に、彼は無表情の上に疑問符を浮かべる。


「……なんのこと?」


「いいや……君は、おそらく初めて、他人に頼ったというだけさ。

 そうか……君は覚えていないんだね。じゃあ、僕が話してあげよう。

 僕らが二人でひとつの存在ということが、どういうことか」


 “死”も“眠り”も、終焉に辿り着くための一つの手段。

 彼らは明確には違っていても、本質は同じ。

 人々にとって“死”こそが恐怖であり、それを紛らわすため、或いはそれを疑似体験するため、或いは忌避するために“眠り”を欲する。

 タナトスという存在は、“死”を求めるものの前に現れる。

 ヒュプノスという存在は、“眠り”を求めるものの前に現れる。

 “眠り”を欲しないものの前に、ヒュプノスは現れない。

 “死”を欲しないものの前に、タナトスは現れない。


 彼らにとってはそれこそが原理。

 “死を求めるものに死を与えるもの” “眠りを求めるものに眠りを与えるもの”

 それこそが、彼らが存在する理由。


「だからね、タナトス。彼女が出逢うのが、いつも僕ではなく君なのは、彼女が“眠り”ではなく“死”を求めているということなのさ。

 君は知っている。やみでもなくおそれでもなく、ましてひかりでもないその存在を、“人間”と呼ぶのだと。

 ねぇ、タナトス。我が愛しき兄弟。

 彼女は“人間”なんだよ。この世にふたりといない、たったひとりの“人間”なんだ。

 タナトス、君は戸惑うかもしれないね。君は今までの一度も、“人間”にその存在を求められたことなんてなかったのだから。

 けれどね、タナトス。それは、とても素晴らしいことなのさ。。求められるということが、どれほど素晴らしいことかをね。

 タナトス、君は気付いているのかな。彼女が君を見つめる視線の中には、いつも憂いが混じっていることに。


 ねぇ、タナトス。君は“彼女にオワリを与えるもの”になってしまったのかい?

 それとも、“彼女を眠りオワリから護るもの”にでもなったつもりなのかい?」




 ――鏡像は砕け散る。




 彼は――自分が誰なのかを忘却した。






「――覚えているかい、タナトス。我が愛しき兄弟……彼女と出逢った、あの日のことを――」





――君が“タナトス”になった、あの日のことを――

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