死神の見る夢

黎夜

夜の面影

 その一瞬から、彼は自分が何故此処に立っているのかを忘却した。

 黒いシャツに黒いズボン、黒い外套を羽織ったまさしく全身黒ずくめの彼――タナトスは、ゆっくりと周囲を見回した。

 そこは暗かった。もともと光など時折走る稲光以外降り注がないここ冥府において猶冥い。

 全身に闇を纏うタナトスは、その冥闇にぼんやりと浮かぶようにして存在していた。

 ここは冥府の最も深い場所。あの冥府の王、ハーデスですらも自由に出入りすることは赦されない、タナトスがための空間だった。

 所謂私室である。家と言ってもいい。といっても、タナトスにとっては冥府自体が家のようなものだ。ということは、魔女王のいるあの空間は胎内に近いのかもしれない。


 私室とは言っても、彼がこの部屋に戻ることは稀である。

 死神という役職にある彼にとって、休息というものはあまり取れたものではない。人界では常に死人が絶えないからだ。

 彼以外にも死神という存在は数多いる。効率のいい循環を得るために、冥府という機関も時折休息は取る。

 けれど、彼は今までの一度も、眠りというものに落ちたことはなかった。



 タナトスはようやく自分が何故ここへ来たのかを思い出す。呼ばれたのだ。

 いや、正確に言えば呼ばれたような気がした。

 だから、タナトスはその部屋に入ろうと扉に近づいた。

 その行く手を阻むように、扉と彼との間に霞のようなものが立ち込める。


「……なに? 呼ばれたから来たんだけど」


 彼が軽く首を傾げてそう告げると、霞はしばらくの間を置いて立ち退いた。

 タナトスはノックもなく扉に手を掛け、引き開ける。鍵は掛かっていなかった。先ほどの霞が鍵代わりということか。

 部屋の中も、外と同じく冥闇が立ち込めていた。彼が冥闇に目が慣れるのを待っていると、先ほどの霞がするりと脇をすり抜け、前方に漂った。そこでタナトスは初めて、その霞が僅かながら自ら発光していることに気付く。


「……案内してくれるの?」


 疑問符で投げかけたタナトスだったが、答えは聞かず歩を進める。元々は自分の家なのだ。多少の明かりさえあれば問題はない。

 案内するつもりだったのだろう、霞もまたタナトスの歩行に合わせ、ゆっくりと進んでいく。

 そこは、まさに家だった。本来あるべきはずの窓がないことを除いては、だが。

 長い間放置され続けていたというのに、床にも家具にも一片の埃も落ちてはいない。いつか主が帰ってくるときのため、部屋を管理しているものがいるのだ。

 冥府には、魔界ほどではないにしろ変わり種な存在がいくつか存在する。この家の管理を任せた―というより勝手に引き受けた―のも、そういった存在のひとつである。

 冥府という場所にとって、彼は――否。


 ――彼らは、特別な存在なのだ。


 そう。この家にいるのは、彼だけではない。


「やぁ……やっと来たね。待っていたよ、タナトス……我が愛しき兄弟」


 彼は今まさに目覚めたという風情で寝台から起き上がった。だが、その表情には眠りから醒めたものの虚ろさは欠片も映っていなかった。

 掛け布からするりと這い出し、裸足のままタナトスの正面に立ちあがる。

 白い髪、白い寝間着、唯一肌の白さだけが共通項。残りは、まるで鏡像のように正対称のふたり。しかしだからこそ似通っているふたり。もう一人の彼。


「君が起きているなんて、珍しいね……ヒュプノス」


 無表情に言う彼に対し、彼は苦笑で答える。


「何処かの誰かが、僕の眠りを邪魔したからね」


「……それ、僕のこと?」


「とんでもない。君が起きていてくれるから、僕は安心して眠れるんだよ」


 彼は一気に元々薄い彼への興味が完全に失せたことを感じ、本題を口にする。


「僕を呼んだね」


「君は応じてくれた」


「用件はなに?」


「話がしたかったんだ……君と」


 彼が指を鳴らすと、世界は一変した。

 暖炉には暖かな炎が燃え、食卓には豪勢な食事が並んだ。彼は向かい合うように置かれた椅子の向こう側に座り、彼にも座るように促す。

 彼は促されるままに椅子に座るが、食事には一瞥をくれただけで手をつけようとはしなかった。


「君の霞遊びに付き合っていられるほど、僕は暇ではないんだよ」


 その一言が、再び世界を変える。

 暖炉の火も、豪勢な食事も、霞となって消え失せる。今まさに肉の一切れを口に運ぼうとしていた彼の手からもナイフとフォークが失われ、彼は少し残念そうに肩を竦めた。


「知ってるかいタナトス。人の世界には霞を食べて生きている仙人と呼ばれるものがいるそうだよ」


「僕は仙人じゃないし、そもそも僕らは人ですらない」


 彼の遠慮ない言葉に、彼は苦笑を深くする。


「その通り。僕らは人じゃない……。突然だけどタナトス。君は母さんのことを覚えているかな」


「かあさん……?」


 彼の疑問符を予想していたのか、彼は苦笑の色を変えて頷いた。


「その様子だと、君は覚えていないようだね……タナトス。僕らは人ではない。けれど、僕らを生み出した存在というものは必ず存在するんだ。僕らが存在する以上はね……」


「それが、かあさんだと……?」


「そうだよ。僕らは、夜という存在から生まれたんだ」


「夜……よく分からないな」


 こと冥府において、昼夜の識はない。冥府は常に暗く、太陽も月もないため、空というものに変化があまりないのである。


「僕が目を覚ましたのはね、タナトス……母さんの夢を見たからなんだ」


「……それで?」


「僕は母さんの姿を見て、まるで彼女のようだ、と思ってしまったんだ。そう……僕ではなく君を選んだ、彼女のようだと」


「……何のことだかさっぱり分からないな。君ではなく僕を選んだって? 一体誰が」


「分からないのかい、タナトス。……嗚呼、分からないだろうね。君にはきっと、ずっと分からない」


「……どういうこと?」


「タナトス。僕らは“終わりを与える者”だ。君にとっての“死”がそれに当たり、僕にとっての“眠り”がそれに当たる。

 人間たちが欲していたのは、最後の最後に欲したものは、いつも僕の“眠り”だった……以前はね。

 タナトス。君は、本当は気付いていたんじゃないのかな?


 人間たちが君を求め始めていることを。僕ではなく、君を」


 その言葉を、彼は笑い飛ばそうとして、できなかった。

 確かに、以前の彼らなら――彼女と出逢う前の彼らなら、それは冗句であり、笑い話になったはずだった。

 人間たちが最後に求めるものは、決まって“安息の眠り”であった。その求めに応えるには、“死”ではなく“眠り”が必要であり、それはヒュプノスが支配するところであった。


 だから、以前までは、ヒュプノスとタナトスの立場は逆だったのだ。


 ヒュプノスが人界に出向いては魂を持ち帰り、タナトスはこの部屋で悠々自適な時間を過ごしていたはずだったのだ。

 それが、いつの間にか逆転してしまっている。


「いいかい、タナトス。僕らは二人でひとつの存在なんだよ。“死”も“眠り”も、結局は終焉へ辿り着くひとつの手段に過ぎないんだ。

 僕らの存在はね、タナトス。“夜”という底知れぬ冥闇に人々が夢見た幻想なんだよ」


 彼はそこで、或る事実に気が付く。気が付いてしまう。それを無視しようとすればするほど、その事実は迫り来る。

 彼の言葉は止まらない。


「僕らがこうしてここにいられるのは、誰のおかげだと思う? 人間たちだよ。

 人間たちが今も変わらず終りに怯えてくれているからこそ、僕たちはまだここに僕たちとして存在できるんだ。


 ねぇ、タナトス。我が愛しき兄弟。


 彼女はどうして君を求めたんだろうね?

 人間たちはどうして君を求めるんだろうね?


 終りを求めるなら、僕のほうが安楽なのにね?」




 ――幻想は、何れ終わる。




「……タナトス。我が愛しき兄弟。僕が君を呼んだのは、もうひとつ理由があるんだ」


 沈黙を保つ彼に、彼は告げる。


「君と僕は、顔つきも体つきも何から何まで同じだけれど、ひとつだけ違う部分がある。


 それはね、タナトス。瞳だよ。


 今日、母さんの夢を見たと言っただろう。そして彼女に似ていると思ったとも。けれど同時に、君にも似ていると思ったのさ。

 君のその瞳が、母さんそっくりなんだよ」


「……僕が似ているというのなら、君も」


 掠れたような彼の声を、彼は制する。


「言ったろう。僕と君とは、ひとつだけ違う部分があるって。

 僕と君はひとつの存在だけど、同じ存在というわけじゃない。

 ……君はまだ気付いていないのかもしれないけど、この際だから言っておくよ、タナトス。


 僕は君だけど、君は僕じゃない。

 君は僕だけど、僕は君じゃない。


 “死”を求めるものには“死”を、

 “眠り”を求めるものには“眠り”を。


 僕らはそうやって入れ違いすれ違い、終りを迎えたものをここへ迎える役目を仰せつかっているんだよ。

 タナトス。“死神”はひとりではないよ。けれどね、タナトス。

 “タナトス”という名を持つ終りを司る神は、この世にたった君だけなんだよ。

 同じように、“ヒュプノス”という名を持つ終りを司る神も、この世にたった僕だけなんだけど。

 これは君という存在に付いて回る鏡面のようなものだね。


 だからね、タナトス」


 彼はそこで一度、言葉を切り、そして


「僕らは、互いが互いの“終り”を抱えているんだよ」




 ――ガラスの割れる音がして。




 ――彼の鏡像は砕け散った。






「――けど変だよね。僕は彼女に会った事なんて一度もないのに、それでも“似ている”と思ったんだ――」

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