19

 廊下を、静かに歩いてゆく。──決着をつける為に。

 初老の男性は、窓から外を見やる。どこよりも高い位置にあるここからは星しか見えない。

 かつて彼女とここを歩いた。ただ希望に満ちて理想を追い求めて……

 ──あの人のようになりたかった。


 研修が終わって初めて職場に足を踏み入れた日。

 厳しいという事で定評のある人だと聞いた。

 配属先が決まった時、同期にも研修中面倒を見てくれた先輩も同情の視線を隠さなかった。

 だから、初めて彼女を見たときには拍子抜けしたものだ。

 髪を隙なく結ったその人は、正面に並んでいた私達の誰よりも小柄で、穏やかな笑顔を湛えていた。

「エミリア=コーンウェルです。よろしく」

 笑顔のまま会釈して、その人はボードに目を落とした。

「それでは早速ですが、氏名と正式な配属をこれから伝えます。確認したら、直属の上司の許へ赴き指示を仰ぐように。……では」

 柔らかい声が同期の名前と配属を読み上げる。

「……パウエル君。いないの?」

 自分の名前を呼ばれている事に気付き、慌てる。

「は、はい!」

 ……気まずい。

 周りからは失笑が聞こえている。

「一体どうしたの」

「──いや、その……すいません」

 目の前の相手を観察していたとは、とてもじゃないけど言えず。

「……まぁ、今日はいいわ。明日からはぼーっとしないでね」

「はい」

「交渉班付きよ。……よろしく」

 ──その『よろしく』の意味を考え込み……目の前の相手の直属になるのだと気付くのに数秒かかった。

 周りの失笑が吐息にかわり、囁きに変わる。それは他人事な同情なのか、自分がその配属になるのを逃れた安堵なのか定かではなかった。

「……以上。じゃ、解散」

 彼女のその言葉と共に同期達はそれぞれの部署に散ってゆき……最後に私と彼女だけがその場に残った。

「じゃ、パウエル君」

「はいっ」

「案内しようと思ったけど……その前に。ネクタイ直して」

 ……へ。

「はい」

「……すいません」

 差し出されたミラーで襟元を映す。……そういえば、朝ちょっと苦しいなと思って緩めて、そのままだった。

 簡単にネクタイを直す。その様子を見て、彼女は言った。

「いい? どの部署でもそうだけど、研修が終わったら新人気分は終わり。質問は構わないけど同じ事は二回まで。三回目を聞いたらげんなりする人が多いわよ。メモはOKだから、書きとめられる事は控えておきなさい」

「はい」

「よろしい。……返事は悪くないわね」

 それだけを言うと、彼女はヒールを鳴らして背中を向けた。

「じゃ、いくわよ」

「はい!」

 彼女の背を追って、歩き出した。

 ──そう、それが始まり。


 仕事に入ってみれば、「火がない処から煙は立たない」という事は理解できた。

 書類の打ち間違いに始まり納期から手配まで仕事についてのチェックは厳しく、最初の数年はついていくだけで必死だった。

 交渉人として前面に立つ彼女もまた厳しく……交渉相手からは罵られようが何だろうがきりっと退く事はなかった。

 それでも。

「ねぇ、パウエル君。今そこにあるのはただの紙にすぎない……でも、この紙の向こうには人がいるの」

 夜遅く残務処理に追われながら語られる言葉。

「……私達が行っている事は、一種の迫害だわ。ただ、それでも──あの人達が生き延びてくれるなら」

 それは、ただ一度語られた彼女の本音。

「いつかその怒りを元に、本来自分達が持つ権利を主張してくれればいい」

「……それは、彼らが貴方に武器を向けても……ですか」

「ええ。……それこそが、私の望む未来」

 小さく呟やかれる、でも力強い言葉。

 ──私はのち彼女が交渉を期日までに終わらせる事が出来なかったが故に、大量の命を失わせる事になった過去の話をまったく別のルートから聞いた。

 私は、彼女の考えを理解するまでには至らなかったが……それでも、信念を以って仕事をする彼女を尊敬し、出来うる限りついていこうと思っていた。


 彼女が処断される事になったとき。

 監視の為に閉じ込められた部屋の扉越しに、彼女は言った。

「貴方の身柄は、後任に託したわ。──貴方まで、私にまきこまれる事はない」

 それは、いつか自分がこうなると予測していたのか。

「いい? 貴方の信じる道を行きなさい。正しいと思う道を……」

 彼女は、最後まで私の前では弱音を吐かなかった。

 前を見据えて、凛と立つ姿に憧れた。

 ……彼女を、こんな形で負けたままになどさせておきたくなかった。


 だから。

 彼女を裏切る言葉を吐き、ギルドに残る道を選んだ。

 彼女が私を巻き込まないよう配慮してくれた、その心に応える為に。

 ──彼女と、迎えに来た長身の姿を影から見送った。

 ……私は今更のように自分が彼女に憧れてた事を知った。


 あの人のようになりたかった。

 ……そして。あの人の隣に立ちたかったた。


 私はその想いを心に秘めたまま……確実にギルドの中での地位を築いていった。

 それでも、彼女を迎えられる状態にできないまま……身体は老化しないように処置を行ってはいるものの、年齢は老人といっても差し支えない者となってしまった。


 ……だから。もう、決着をつけなければならない。

 彼と。……そして、自分の心と。


 廊下を歩きつづけ……初老の男性は、ある扉の前で止まった。

 深呼吸をして、扉の取っ手を握る。


 開いた扉の向こうには、書生のような青年の姿があった。

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