03
「……あぁ、シズちゃん!」
土曜の夕方。
もう少しで仕事も終わるという時間に、親方が声をかけてきた。
「はい?」
窯はまだ動いているので聞こえるように大声で返事をする。
親方は街一番おいしいパン屋を自負する、『カール・バクスター』の創始者だ。
子供達の館の財政を少しでも助けるため、私は昼間ここで売り子のアルバイトをしていた。
「マーティンの奴が、昼間パンを予約してったんだ。家まで届けてほしいってよ」
……予約?
不審に思ったが、
「はい、わかりましたー」
私は親方にひとまず了解の返事をする。
変だな……いつもだったら絶対「顔を見にきたー」とか言いながら、自分で買いにくるくせに。
そういえばしばらくマーティンの顔をみてなかった。
一日おきになったりするときはあったけど、三日も四日も顔をみせないって事はなかったのに。
「シズ。持ってく分はここにまとめてあるよ。お代はもらってあるから、渡したらもうあがっていいからね」
おかみさんがパンの包みと控えの住所をくれる。
「はい。……いってきますー」
私は焼きたてのパンを両手に抱え、親方とおかみさんに挨拶をして店を出た。
「カエデ通り……三丁目……」
控えの住所と標識の地図を見比べながら、何とか私はマーティンの家の近くまで辿り着いた。
それにしても。
……こんな遠い処から来てたのか。親方の店はこの街でも名が知られてるからともかく、ここから歩いて来るにはかなりある。
マーティンはリハビリの為って言ってたけど……それにしたって。
「二五の三……あ、ここだ」
こじんまりしたアパートメント。ちょっと日当たりはあまりよくなさそうで……
私はドアをあけ、正面の階段を登った。
「二〇五号……」
表札の名義を確認し、扉をノックする。
「……誰?」
扉の向こうから声がする。
「シズ……カール・バクスターのシズです」
いきなり扉が開いた。
マーティンが驚いたように、でも嬉しそうに立っていた。
「うわ……来てくれたんだ。よかった……」
「来てくれたって……予約したんでしょ?」
「だけど……もしかしたら、シズじゃない人がくるかもって……」
「……変な人ね」
親方の店には親方とパン職人、そして店を切り盛りしているおかみさんだけで、売り子は私しかいない。
「あの……これ」
ひとまずパンの包みをマーティンに渡す。
「有難う。ここのパン、お袋が大好きでさ」
照れくさそうに笑うマーティン。
「……それじゃぁ……」
「あああっ! 待って!」
私はマーティンの勢い込んだ声に引き止められた。
「お袋が、シズの話したら、会ってみたいって……頼む、上がってくれないかなぁ」
「会ってみたい、って……」
あの。話が何だか……見えないんだけれども。
「頼むよ……」
「……」
それでも。マーティンのちょっと困った感じの顔と必死な口調に私はつい頷いてしまった。
「……うん」
ぱーっと、笑顔に変わるマーティン。
「うん! そしたら上がって上がって! ダイニングにお袋いるから!」
左手にパン、右手で私の腕を引っ張って、マーティンは私を中に引っ張っていった。
「……ま、マーティン……」
ダイニングの扉が開くと同時に、車椅子に座る影が振り返った。
「……いらっしゃい」
「……」
柔らかく微笑む年配の婦人。目のあたりがマーティンによく似ていた。
「は、はじめまして……シズ・ファラです」
「まぁまぁ」
婦人の笑顔がより深くなる。
「ジェシカ・フォードよ。ジェシーと呼んでね……それにしても」
車椅子の車輪を回して、身体を向け直すジェシー。
「……随分若いお嬢さんなのねぇ……お幾つ?」
「……十七です……」
「あら。まぁ……私、十四、五歳かと思っちゃったわ」
「いえ……よくある事なので……」
そう。二年前に親方の店へ挨拶しに行った時も「エレメンタリースクールの子供は困る」って言われたし、誰かの通報でお巡りさんを呼ばれた事もあり……
その為いつも身分証明書を持ち歩いていたりする。
ジェシカは、くすくす笑いながら言った。
「すっかり、うちの子がそういう好みなのかと……」
「母さん……」
……マーティンは、十九の筈だ……
「御免なさいね。許して頂戴」
「いえ、気にしてないです」
私は答えた。
ジェシーはエミリアに似て、とても心地良い人だった。
「もしよかったらご飯を食べてって頂戴。この子が作ったものだからお口に合うかわからないけど」
ジェシーの言葉にちょっと驚く。……マーティンが? でもジェシーは車椅子だから、キッチンには立てないか……
「はい……あの、母が心配しますので連絡させていただけませんか?」
「えぇいいですとも。マーティン、電話の位置を教えてあげて」
「うん。シズ、こっち」
案内された部屋で、マーティンがキッチンに戻るのを確認してから私は受話器をとり番号を押した。
エミリアに帰りが遅くなる旨を伝える。
「ゆっくりしていらっしゃい。でも、あまり遅くならないようにね?」
「うん、わかった」
「お母様によろしく」
「はい」
電話を切り、私は晩御飯をご一緒した。
ジェシーは普段は家で寝てばかりとのことで、喋り相手がいなくて退屈なのだと言っていた。
そのせいか晩御飯はかなり会話が弾んだ。とはいっても私は喋るのが苦手なためジェシーの問いに答えるという形が多かったけれども……
「じゃ、母さん、俺シズ送ってくる」
食事を終え、しばしジェシーのお喋りにお付き合いしたあと、マーティンが上着を着込みながら言った。
そのタイミングで立ち上がり、感謝の言葉を伝える。
「えぇ。……お名残惜しいわ。また、よかったら来てちょうだい」
「はい」
私は、心をこめて答えた。
「……送ってくれて、有難う」
「うん」
館の前で。私はマーティンにお礼を言った。
「こっちこそ御免な。急に呼びつける形になっちゃって」
「ううん。仕事だし……それに」
「それに?」
「……」
気になったから、という言葉を私は飲み込んだ。
彼はそんな私を見て苦笑して……不意に言った。
「明日、基地に戻る」
私ははっと顔をあげた。
「そんなに……急に?」
「先週職場から連絡があって……そろそろ傷病手当も打ち切りだし、お袋の医療費の事もあるし」
「……」
「……あの、さ」
頭を掻きながらマーティンは言った。
「俺、本当はもうちょっと早く基地に戻るつもりだったんだ」
彼の語る言葉を、私は黙って聞いていた。
「けど、たまたま遠出した時にシズを見かけて……毎日頑張ってるの見てたら、だんだん戻りたくなくなってきちゃって」
「……」
照れたように笑うマーティン。
「俺、シズのこと本当にお嫁さんにもらいたいって思ったんだ。……でも、俺戻んなきゃいけないから……下手したら、シズの事、あっという間に未亡人にしちゃうかもしれない」
それで悩んで四日も顔をみせられなかったのだと彼は言った。
「……ずるい」
「……へ?」
そんな事いわれたら。
「……あのね」
私は今まで話さずにいた、この館へ来た経緯などをぽつりぽつりとマーティンに話した。
彼は、黙って私の言葉を聞いていた。
「……そりゃ、しょうがないなぁ……」
全部話を聞き終えたマーティンは、頭をかきながらそう言った。
「しらないで、しつこくして御免な」
「……しつこくなんて……」
「でもこれでさっぱりした。……シズの事、諦めつくわ」
その言葉を聞いた途端、私は思いっきりマーティンの頬をひっぱたいていた。
「いったぁ……」
「ばかっ!」
ぼろぼろ涙を流しながら叫んだ私を、マーティンは頬を抑えながら見下ろしていた。
「シズ……」
「私は、また帰って来いって言ってるの!」
「シズ……それって……」
「いーい? 怪我しようがなにしよーが、絶対帰ってきなさい! 死んだって、這ってでも帰ってくるの!」
マーティンは目を丸くして……それから大声で笑い出した。
「何それー、シズ……言ってる事、めちゃくちゃだよ……」
「だって……」
大きな腕が、そっと私を包み込んだ。
「……有難う」
囁かれた声が、私の心に優しく溶けた。
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