――九月十五日、金曜日。

 美月が翔也に気付いてから、もう一週間以上経ってるのに、何一つ状況が変わらないなんて、思わなかったよ。アイツも思いの外、ウジウジ考え込むヤツだったんだね。

 あたしが少し背中を押してあげないと、どっちもダメなんだろうか。美月にはいろいろと自信を持ってもらいたいから、個人的に美月改造計画を立ち上げることにした。

「今日はあたしのヘアメイク用具持ってきたから、あとで美月の髪をカワいくしたげるからね」

「ええぇ、ど、どうするつもりなの」

「髪用のハサミに梳きハサミでしょー、カーラーもあるしお姉ちゃんのマイナスイオンが出るドライヤーも借りてきたしー」

 いつかやりたいと思っていたことを、今日実行するつもりであれこれと道具を持ってきたのだ。

「今日のバッグが重たそうなのってそれッ?」

「そうそう、まとめちゃうと、結構かさばるよね。苦労して持ってきたんだから、逃がさないからねー」

 美月は嫌そうな顔をして見せてるけど、そのくせ、チラチラとあたしの鞄の中の方へ視線を向けている。興味のあるお年頃なんだから、ここはあたしが、美月が未知への扉を開くのを後押ししてあげないとね。

 ごまかしているのか照れているのか、美月は文庫本を読む振りをして顔をページに埋めてしまった。

「美月ぃー、もうちょっと顔見せてやんなよーストーカー小僧にさー」

「や、やだもん」

「近眼じゃないんだから、そんなに顔近づけなくたって本読めるでしょー?」

「よ、読んでないもん」

「読んでないのかよッ」

 そう言いながら、ここ二、三日は美月が翔也の方をチラ見することが増えてきているのを、あたしはちゃんと気付いてる。今だって、顔を伏せながら、たまに視線を上に上げているのがわかる。あたしはなんでもわかるんだよ、美月。

「しょうがないなー。一週間たってなーんにも進展ないなんて、見守ってるこっちがもうガマンの限界だよ」

「なにを見守るのよう」

「ここは一つあたしが、背中をぶったたいてやるとするか」

 あたしはそう言うと、荷物で膨らんだスクールバッグを、頭上でぶーんぶーんと左右に振り回した。翔也に見せつけるように。――ちょ、ちょっと重たいけど。

「きゃああああ何してんの何してんの咲良!」

 美月がそう言いながら、まるでドンビキしたみたいに、あたしから一歩離れた。あっ。それは――傷付くな。アンタのためにしてあげてんだけどな。

「いやメッセージをね。こっちはもう気付いてるぞーって。堂々としやがれーっ」

 今は美月の方を見ていたくなくて、翔也をまっすぐ見つめながらあたしは言った。

「やめようやめよう、そういうのやめようよホラ周りから注目されちゃうから」

「なーに、照れてんの? 恥ずかしがっちゃって」

「これはそういう意味の恥ずかしさじゃないからッ」

「あっ」翔也に動きがあった。ぎこちなくだけど、小さく、こちらに向けて手を振ったのだった。「ホラ翔也が手を上げた」

「えっ」

 と言った美月の動きは素早かった。髪が浮き上がり、スカートの輪が広がるくらいの勢いで、身体を捻って顔を翔也の方へ向けたのだ。なんだ、そんなに気になるくらいに、なってるじゃん、美月。

 あーあ。

 え?

 今、あたし、なに考えた?

 一瞬、そんな戸惑い。美月はまだ翔也の方を向いていて、今のあたしは見られてない。よかった。翔也は――上げた手を慌てて引っ込めていた。

 あたしは自分の気持ちをごまかすために、とにかく口を開いた。

「なにあれ、初々しいつもりかね。照れ屋vs.照れ屋ってのは、先行き大変だなー」

「やめてよぅ馬に蹴られちゃうんだからね」

「はっ? 何それ」

 突然、馬が出てきた。あれ、なんだか聞いたことあるような? なんだったっけ。

「人の恋路を邪魔するやつは、馬に蹴られて死んじゃうのよぅ」

 美月の言葉に、なにかが胸に刺さった。いや違う。刺さったのはその言葉そのもの。

 恋路。

 そう、これは美月の恋。翔也の恋。そこに、あたしはいない。

 ……くやしいけれど。

 あたしの恋ではなかったことが、心底からくやしいけれど。

 いけない。完全に、気持ちが表情に出てる。どうにかごまかさないと。

「……あ、そっかコトワザか。なんのことか一瞬わかんなかった。でもそんなこと言うってことは、美月、白状したね」

「なにがよぅ」

 抵抗する美月を逃がさないように、でも決してあたしの気持ちがこもらないようにして、わざとらしくあたしは言った。

「だんだん、好きに、なってきた、でしょ?」

 わかるよ。

 美月が好きになるのも当然だよ。あたしだってそうだった。

 そうでしょう?

「どど、どうしよう咲良」

「えー、知らなーい」

 でもダメだ、もうごまかしも、とぼけることも出来ない。

 悲しくて、あたしは美月に背を向けた。翔也に背を向けた。

 どうしてなの?

 どうしてあたしじゃダメだったの?

 あたしと美月、どう違ったんだろう。あの頃、今の美月みたいにしていたら、翔也はあたしのことを、ちゃんと見てくれたんだろうか?

 そろそろ、電車が来る。あたしたちがいつも見送る、一本前の電車だ。

 向かいのホームの翔也は、その電車が行ってしまってから、ベンチを立ってホームに並ぶ。そういうパターンがあることを、美月だってもう気付いてる。

 そうしたら、距離が近くなってしまうじゃないか。

 ますます、どうしたらいいかわからないじゃないか。

 自分では予想もしてなかったよ、美月に対してこんな気分になるなんて。こんな風に、嫉妬しちゃうなんて。嫌だな、あたし。嫌な女だ。こんな女が翔也に好かれるはずなんてないじゃないか。泣きそうになってきた。足、震えそう。

 もうちょっと耐えれば、乗る電車が来るんだけど。

「咲良ぁ……」

 心細そうに、背中から美月が呼びかけてくる。

 泣きそうな気持ちを無理矢理に飲み下して、あたしは言った。

「なーに、美月。背中ぶったたいて欲しくなった?」

 これだって、あたしの本心だ。大好きな美月に幸せになって欲しい。

 でももうあたしは、これ以上応援できそうもないや。ごめんね美月、翔也。

 だってあたし、やっぱり忘れられてなかったんだよ。

 全然、吹っ切れてなんてなかったよ。

 あたしには届かなかった世界のこと。

 ううん、たぶん、それじゃ不正確なんだ。届かなかったんじゃない、届けようと一歩踏み出すことが、あたしには出来なかったんだ。好きだって、言うことは出来たもの。呆れられても、馬鹿にされても、翔也に好きだって言うことは出来た。でもあたしは、その場所に立つ前に、諦めてしまったんだ。最後に必要な一歩を、あたしは踏み出せていなかったんだ。

 逃げちゃったんだ、あたしは。

「私ね、咲良……翔也くんに、会ってみたい」

「へえ」と言った自分の声が裏返っていた。

 踏み出すんだ、美月。

「とうとう、決心しちゃったんだ」

 声にならないなにかを飲み込んで、あたしは振り返った。美月の背中が、まっすぐ翔也の方を向いている。

「うん……翔也くんが私のことをどう思ってるか、まだわからないけど……」

「またそんなこと言って」

 思わず、手が伸びて美月の背中を強く押していた。その自分の動きに驚いて、あたしはその手をすぐさま引っ込めた。

「でも、私は、翔也くんに会ってみたくなったよ。私が……お話、してみたくなったの……」

 すごいよ美月。あんなに、自信なさげで引っ込み思案な美月が、そんな風に言うなんて。言えるなんて。あたしなんかより、ずっと強いね、美月。

 嫌だよ。

 美月、嫌だよ。

 あたしと一緒にいようよ、美月と一緒にいるの、楽しいんだよ。向こうへ行っちゃうの? 美月まで向こうへ行ってしまうの?

 二人とも、あたしを置いて行ってしまうの?

 嫌だよ。

 ――ああ、あたし、今なんて酷いことを考えたんだろう。どうしたんだろう。

 自分が嫌いになってきた。

 何かをぶっ壊したくなってきた。こういうのが、破壊衝動っていうのか。

 チクショウ。

 翔也は――と目を向けると、うつむいてスマホを見ている。雰囲気からして、カモフラージュでそうしているのではなくて、本当にメッセージかなにか打っているみたいだった。

「アイツ、肝心な時にこっち見てないな。よーし」

 思いついて、重たいバッグを頭上へ。そして左右に振る。こうしてエネルギーを使わないと、今、あたしの中にあるエネルギーが、変な風に爆発しそうだ。

「咲良それ危ないってばぁ」

「あっ、でもホラ、アイツ気付いたよ。こっち見た」

 大きな動きが視界に入ったのか、翔也が顔を上げた。それから、ちょっとだけ周りを見回してから、『よう』とでも言うみたいに、小さな仕草で手を挙げた。

 あたしは両手で持ち上げたバッグを、小刻みなジャンプと合わせて全身で上下させた。これだけやれば、アンタが手を振ろうがホーム越しに話しかけてこようが、理由になるでしょ? ホラ、早くしなよ。チクショウ。

 あ、ヤバい。

 涙が。

 零れそう。

「咲良」と美月が呟くように言った。「ありがとう」

 涙が。

 流れ出ると同時に、あたしはもう、なにもかも嫌になってしまった。もう嫌だ。ごまかしきれない。三年、好きだったんだ。秘めていたんだ。それをなんにも知らないで、知らないままに、美月、アンタはあっちへ行っちゃうんだね。翔也、あたしじゃなかったんだね。

 あたしは一人のまんまなんだね。

 気が抜けて、あたしは頭の上のバッグを、重さのままに勢いよく振り下ろした。その手が動き出してから、頭では、このままじゃ美月に当たると考えた。でも手はもう止まらなかったし、頭でも、無理にそれを止めようとはしなかった。

 いいよ。これから美月は、幸せな世界へ行っちゃうんだ。最後に一発、あたしの気持ちくらい思い知れ。

 ずん、と重たい感触が手に伝わった。開けたままだったバッグの口から、中身が飛び出していくのを見た。

「えっ」

 美月がつんのめりながら、前によろけていくのが見えた。あたしが殴りつけた勢いが強かったのか、一歩だけでなく、二歩、三歩。

「えっ」とあたしは、口にした。

 電車が来る。――来てる。

 危険を知らせる大音響のホーンと、刺々しいブレーキの音、どちらが大きかったのか、先に鳴ったのか、もうわからない。

 美月。

 あたしはバランスを失っている美月に手を伸ばそうとした。

 手が上がった時、美月の身体が、弾かれたように横に飛んでいった。その次の瞬間、電車が起こした風があたしの全身を打ち付けた。

 あたしは、その風に負けたように、膝を折って座りこんだ。

 美月。

 悲鳴が聞こえる。美月、泣いてるの? 美月、どこ?

 そうだ美月は飛んでいった、どっち? あっちだ、左の方。美月を探してあたしは四つん這いになって動いた。

 いた。美月がいた。うつぶせになって、ホームの床に横たわっていた。

 喉が痛くなった。あたしは叫んでいる?

 美月、美月、美月。動いて、美月。

 近寄った。美月の頭の周りが赤くなっていた。髪の毛にも、赤いものが付いてしまっていた。ああ美月、髪の毛、そうだ綺麗にしてあげるつもりだったんだ。少し切ってあげるつもりだったんだよ? バッグに入れてあったはずのタオルがちょうどここに落ちてる。ホラ、内側なら汚れてないから。あたしはタオルを広げて美月の髪の汚れを拭いてあげた。美月は本当は髪を触られるのも嫌がるから、優しく、優しく、拭いてあげた。

 誰かがそんなあたしの邪魔をした。後ろから、横から、身体を掴まれて引き起こされそうになった。やめろ、あたしをどこに連れて行く気? ダメよ美月を置いていけない。置いていけないの。ねえ美月、あたしを置いていかないで。あたしを一人にしないで。

 誰だろう。誰だろう。誰かの声が聞こえる。ううん、声はさっきからいっぱい聞こえてる。うるさいだけ、突き刺さってくるような痛い声がいっぱいしてる。でもこれは違う。知ってる声だ。安心する声だ。大好きな声があたしの名前を呼んでいる。何度も、何度も、呼んでいる。

 ああ、そう、そうなんです。あたしです。咲良です。あたしがやったんです。

 あたしが美月を殴ったんです。あたしが咲良です。バッグで美月を。力一杯。あたしが悪いんです。

 美月、ごめんね美月、転んで汚れちゃったね、あたしが綺麗にしてあげるね、だってあたしが悪いんだから。

 ホラ、ハサミがあるのよ。落ちちゃってたけど、ちゃんと汚れは拭き取るからね。これで美月の髪の毛を整えてあげる。美月はカワイくなれる子なんだから、ちゃんとカワイくならなきゃいけないんだよ。

 ああ、でももうダメなのね、美月、あたし、もうあなたのところに行けない。あたしが悪いことをしたから。あたしが、自分で、なにもかも壊してしまったの。あなたも、あたしも、あの人も、なにもかも。

 あの人の声が聞こえる。

 あたしの名前を叫んでる。大きな声で、何度も、何度も。

 そうなんです。あたしです。

 あたしが、犯人なんです。

 あたしはハサミの先端を喉にあてがい、少しでも美月に近付くように、あたし自身への罰として身体を投げ出した。

 ごめんなさい。

 最後にそう言ったつもりだったけど、上手く言えたかどうかは、わからずじまいだった。




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