――九月十五日、金曜日。

 

 正直、いまだにどうすればいいのかわからない。なので、今日も私は、ホームに来ても文庫本とにらめっこ。でもちっとも読めてない。咲良もひっきりなしにしゃべっているし。

「今日はあたしのヘアメイク用具持ってきたから、あとで美月の髪をカワいくしたげるからね」

「ええぇ、ど、どうするつもりなの」

「髪用のハサミに梳きバサミでしょー、カーラーもあるしお姉ちゃんのマイナスイオンが出るドライヤーも借りてきたしー」

「今日のバッグが重たそうなのってそれッ?」

「そうそう、まとめちゃうと、結構かさばるよね。苦労して持ってきたんだから、逃がさないからねー」

 今日は早退しようかなぁ……

「美月ぃー、もうちょっと顔見せてやんなよーストーカー小僧にさー」

「や、やだもん」

「近眼じゃないんだから、そんなに顔近づけなくたって本読めるでしょー?」

「よ、読んでないもん」

「読んでないのかよッ」

 だって、どういう顔していいかわかんないんだもん。

 それなのに、視線がちらちらと、彼――翔也くんの方を向いてしまう。今週はずっとこんなだ。わかんない。わかんないのに、ドキドキする。ベンチの彼が足を組み替えると、それでドキっと胸が痛む。スマホをシャツの胸ポケットに放り入れる仕草で、わぁ今のカッコイイ、と思ってしまう。

 たまに、彼の顔がこちらの方を向くと、すぐに本のページに顔を埋めずにはいられない。

 これってもしかして、私の方が。

 ……ってことですか。

「しょうがないなー。一週間たってなーんにも進展ないなんて、見守ってるこっちがもうガマンの限界だよ」

「なにを見守るのよう」

「ここは一つあたしが、背中をぶったたいてやるとするか」

 咲良はそう言うと、持っていたスクールバッグを、頭上でぶーんぶーんと左右に振り回し始めた。彼――翔也くんがいる方に向かって。

「きゃああああ何してんの何してんの咲良!」

 ヘアメイクの道具が入っているという重たげなバッグ。それだけに、動きまで大きくなって、目立つ以上に、すごく危ない。思わず一歩避けてしまう。

「いやメッセージをね。こっちはもう気付いてるぞーって。堂々としやがれーっ」

「やめようやめよう、そういうのやめようよホラ周りから注目されちゃうから」

「なーに、照れてんの? 恥ずかしがっちゃって」

「これはそういう意味の恥ずかしさじゃないからッ」

「あっホラ翔也が手を上げた」

「えっ」

 言われて、反射的に翔也くんの方へ顔を向ける。顔をこっちへ向けて、手を、挨拶みたいに軽くあげていた。でもそれは一瞬のことで、すぐに、慌てたように手を引っ込め、顔も背けられてしまった。

「なにあれ、初々しいつもりかね。照れ屋vs.照れ屋ってのは、先行き大変だなー」

「やめてよぅ馬に蹴られちゃうんだからね」

「はっ? 何それ」

「人の恋路を邪魔するやつは、馬に蹴られて死んじゃうのよぅ」

 咲良が眉をひそめた。きれいな顔立ちをしている咲良にはそんな表情も似合うけど、でも、ちょっと怖い感じもあった。

「……あ、そっかコトワザか。なんのことか一瞬わかんなかった。でもそんなこと言うってことは、美月、白状したね」

「なにがよぅ」

 私が抵抗すると、咲良は言葉をわざとぶつ切りに、感情を込めず、重々しくこう言った。

「だんだん、好きに、なってきた、でしょ?」

 ああ、しまった。

 咲良の言うとおり。まるで自分から白状したようなものだった。

 どうしよう。

「どど、どうしよう咲良」

「えー、知らなーい」

 今日は咲良が、ぷいと全身でそっぽを向いてしまった。

 そろそろ、電車が来る。私たちがいつも見送る、一本前の電車だ。

 向かいのホームの翔也くんは、その電車が行ってしまってから、ベンチを立ってホームに並ぶのだ。そういうパターンがあることを、私もいつの間にかすっかり覚えてしまった。

 そうしたら、距離が近くなってしまうじゃないか。

 ますます、どうしたらいいかわからないじゃないか。

 咲良の助けなしでは、今日はもう、とてもそんな状況を乗り切れそうにない。足、震えそう。

 もうちょっと耐えれば、乗る電車が来るんだけど。

 ちらと、翔也くんの方をうかがってみる。

 うわ。

 こっち見てる。どうしよう。今までは、お互いの顔と顔が正面で向き合うなんてなかったのに、どうして今日に限って、顔を逸らさないの? ずっとこっちを見ているの?

「咲良ぁ……」彼の方を見たまま、そう呼びかける。

「なーに、美月。背中ぶったたいて欲しくなった?」

 背中。それって、勇気を出せってことだよね。

 今までの私には縁のなかった世界のこと。

 ううん、たぶん、それじゃ不正確なんだ。縁がなかったんじゃない、私が、そちらを見ないようにしていたんだ。本当は、そんな世界に憧れていた。だから、咲良のようなまぶしい存在に近づけたことだって、嬉しかったんだ。

 少し、踏み出してみよう。

「私ね、咲良……翔也くんに、会ってみたい」

「へえ」と裏返ったみたいな咲良の声。

「とうとう、決心しちゃったんだ」

 改めて言われると、顔から火が出そうに恥ずかしい。思わず、うつむいてしまう。

「うん……翔也くんが私のことをどう思ってるか、まだわからないけど……」

「またそんなこと言って」

 言いながら咲良が、私の背中を押す。思いがけない強さだったけど、それだけに、言葉通りに私のことを後押ししてくれるんだなと思えた。

「でも、私は、翔也くんに会ってみたくなったよ。私が……お話、してみたくなったの……」

 我ながら、最後が消え入りそうになってしまった。

 でも、決心したら、なんだかスッキリした。顔を上げた先の翔也くんは、今はもうこちらへは顔を向けていない。

 たとえ彼のことがすべて誤解で、好かれてるなんて勘違いだったとしても、こんな気分になれたのだから、これは私にとって大事な体験だ。

 晴れやか――というんだろうか? この不思議な気分のことは。

「アイツ、肝心な時にこっち見てないな。よーし」

 また咲良が、重たげなバッグを頭上へ。

「咲良それ危ないってばぁ」

「あっ、でもホラ、アイツ気付いたよ。こっち見た」

 えっ、と振り返る。翔也くんがこちらに向かって、『よう』とでも言うみたいに、小さな仕草で手を挙げていた。

 くるっと身体ごとそちらへ向き直って、私は少し、痺れたみたいに呆然としてしまった。

 こういうの、初めてだけど。でも、やっぱり、これが好きってことなのかな。――なんだろうな。

「咲良」思わず、口に出た。「ありがとう」

 勇気。がんばる。一歩前へ踏み出してみる。

 本当に足を踏み出しながら、私は、翔也くんに向かって手を振ってみようとした。

 一歩。

 足を出したと同時に、ずん、と重たいものが背中に当たった。

「えっ」

 タイミングが悪くてよろけてしまった私は、そのまま前へ。

 二歩、三歩。

 金属がこすれあう途轍もなく大きな音が耳に突き刺さった。

「えっ」

 パァーン、というクラクションのような音に耳が痛む。太くて硬くて嫌いな髪の毛が、浮き上がって顔にかかる。

 次の瞬間、風の塊がすごい勢いで私の身体を打っ

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る