――九月十二日、月曜日。

 

 週が変わっても、私が通学で持ち歩く文庫は、先週と同じままだった。電車通学が始まってから、そんなことは初めてだ。文章を読んでもちっとも頭に残ってくれず、同じページを行ったり来たり。普段なら、空いた時間に読む分も含めて、週に二冊は読み切ってしまうのに。

 今日は珍しく、咲良が並んででもエスカレーターに乗って駅に入ると言い張った。普段、この時間帯は列をなすスーツ姿のおじさんたちがあまりにも多くて、ちょっと怖い感じがするため階段を選んでいるのだけれども。

 そのエスカレーターの道中で、咲良は何故か、駅の外に何かを探すように、きょろきょろしていた。

「うーん。こうしてたらアイツを先に見つけられるかなーと思ったけど、いないみたい。早く来すぎたかな。それとももう、ホームで待ってるかな」

「ちょ……そんなことするためにエスカレーターにしたの?」

「そうだよー。アイツの連絡先わかんなかったから、美月へのせめてものお詫びにさ」

「なによお詫びって意味わかんない。お願いやめてホンっトに。私、あの子の顔もよくわからないくらいなんだよ?」

「えー、なにそれ。卒アル見なよって言ったじゃん」

「だ、だってそんな……別に、私関係ないもん」

「あるってー。絶対にあるってー」

 私より先に高い段に立つ咲良が、肘を私の頭に軽く乗せながら言った。

「なんやこの美少女ちゃんはあいかわらず自信ないとかふざけたこと言っとんのかコラ。そろそろ自分を理解しとかんとわしら凡人にゃ嫌味やでコラ」

「ニセ関西人怖いよやめてよ。なによ、私なんかよりよっぽど、咲良の方が美人で可愛いじゃない……背も高いし痩せてるしショート似合うし目だって大きくて」あ、言っててどんどん自信が失われていく。

 最後に一つ、脳天をグリっとやられて肘はどかしてもらえた。

「あたしの古いスマホ、やっぱデータ全消ししちゃってたからなー。アイツの番号、使ったことはないけど、何かの時に入れてたはずなんだ、惜しかった。心機一転とかいって、古い連絡先、整理しちゃわなきゃよかったよ」

 咲良はそんなことを言っておどける。

「私、別にSNSもグループメッセもやってないし電話もしないし」

「あたしのメッセも既読スルー多いしなー。たまには即レスしてよー」

「うう……私トロいから入力遅くて、あと、返事これでいいのかどうかすごく悩んじゃって、……書いてはいるのよ? でも時間がたっちゃって、なんかもう今更かなってなって」

 エスカレーターを降りる時にも、たまに、ものすごくたまにだけど、タイミングが合わなくてずっこけそうになる私に、すばやく即レスなんて無理だ。

 と考えていたら本当に足がエスカレーターの最後で床で突っかかりそうになって、咲良に支えられることになってしまった。みっともない。

「はい美月ちゃん、あんよーはじょーず」

「やーめーて」咲良に手を引かれながらエスカレーターを降りて、ホームへ。いつもの場所に立つが、今日は向かいのホームのベンチに、彼の姿はまだ見えなかった。その周りにもいなさそうだ。

 それで私は、ふぅ、とため息を一つついた。安堵のため息――と、思ったけれど、ちょっと違った。そんな感じじゃない。なんだろう、この感覚。落ち着かないような、胸がざわつくこの感じ。

「あんにゃろ、いないと思ったらミルクスタンドでなんか飲んでるな」

 と、咲良。どきりとして、下りホームのミルクスタンドの方へと目を向ける。そこはいつもの彼の場所より、私たちからは遠いホーム端近くにあった。

 本当だ。まだ遠くてはっきりわからないけど、背の高さやバッグの雰囲気。彼――翔也くんみたいだ。スタンドの方からこちらの方へ、定位置のベンチに向かってきてるみたい。

「あっ、そーだ」と咲良がスマホをそちらの方へ向けて構えた。「アイツがこっちに気付かないうちに、ホラ美月、見て見て」

「えっ、なにしてるの」

「動画撮ってんの。このスマホ、カメラの性能いいんだよね。ズームしても結構しっかり映ると思うんだけど……」

 言いながらスマホの画面を指で拡大させて、まだ歩いてる途中の翔也くんを大写しにした。

「ホラ、これなら雰囲気わかるでしょ? どうよ」

「どうよって、なによ」

「だからさ、美月的にはどう? イケてる? 付き合えそう?」

 咲良が見せつけてくるズームの画像は粗くて、目鼻立ちがわかるほどではなかったけれど、雰囲気だけなら確かに伝わってきた。雰囲気。背が高くて、少しやせ気味? でも、肩幅とか決して頼りなさげではない。あ、ドリンクのパックを握ってる手が、大きいな。

 ふっと、先週見た彼の表情が思い浮かび、頭の中で、スマホの画面と合成された。

 あれ。やっぱり、なんでだろう。胸が。

 うずく。ドキンと。

「とと、盗撮だよこんなのストーカーだよ犯罪だよ」

 私は急に恥ずかしくなって、とにかく咲良に撮影をやめてもらった。

「ストーカーはあっちなんだから気にしなくていいのに。まぁもうやめとかないと、アイツにバレちゃうからやめとくよ」

「そうよ、盗撮してるんなんてわかったら、どう思われるか」

「あれー? どう思われるか気にしちゃう? 気になっちゃうの美月ぃー? 嫌な女だと思われたらどうしようとか、心配しちゃったー?」

「ちがっ、うっ、て」

 急に、かーっと頭の中が熱くなった気がして、私はそっぽを向いた。そうしたら、翔也くんの方を向いてしまったので、慌ててさらにそっぽを向いて、咲良に背中を向けた。

「なに美月、おかしな子になってるよウケる」

「知ーりーまーせん」

 そうだ、本。本を読もう。自分の世界に没入しよう。どこにしまったっけな。バッグから取り出してページを開く。めくる。ダメだ文字が読めない。

「美月ぃー、髪、アップにしなよー。今日はシュシュ持ってきたから、これで可愛くしたげるからさー」

 私に拒否権などないかのように、咲良はそれが当然のごとく、ヘアブラシで私の髪を梳き始めた。自然と私の顔の向きは、咲良にコントロールされてしまう。

「そ、そうやって髪いじるふりして、私にあっち向かせようとしてるでしょ、咲良!」

「あー、バレた? まぁいいじゃんいいじゃん」

「いいから髪はほっといてッ」

 軽く頭を振ったくらいでは、咲良は私を自由にしてくれなかった。痛い痛い。せめてもの抵抗でうつむいて、視覚障害者用の誘導ブロックを見つめることにする。君は今日もぼこぼこしているね。

「動かない動かない。ダメだよー。アンタ中学の時の自分のあだ名知らないでしょ、シャッター頭って」

「なな、なにそれ初めて聞いた」

「いつも机に向かって、うつむいて本を読んでるから、サイドヘアが前に流れて横顔がぜんぜん見えないの。シャッター降りたみたいに。そんで、シャッター頭」

 ものすごく酷いあだ名じゃないだろうか、それは。

「だからせめて、サイドの髪だけでもまとめてやらないとさー、アイツに」くいっ、と顔の向きを変えられて、また翔也くんの方を向かされてしまう。思わず本を抱きしめてしまった。「美月のこのカワイイお顔を見せてやれないでしょー」

「ヤダヤダやめて咲良」また頭を振ろうと思ったけれど、咲良の指先が左右から頭を押さえていて上手くいかなかった。「ほっぺたやアゴを出すの嫌なの、自信ないの」

「自信をつけるためにも、出してみなきゃ。何事も挑戦が大事だよ」

 そこで電車が到着した。ゴッと音のような風の塊。いつもと違ってむき出しの頬で受けたそれは、思いの外、怖い感じがした。

 

 

 

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