――九月九日、金曜日。

 

 咲良が言った通り、昨日も、そして今日も、あの男の子は下り線のホームで、ベンチに座っていた。

「今日もいるいる。健気だねえ」なんて気軽に、咲良は茶化すように言うけれど、私としてはまだ、どう考えればいいのよくわかっていない。頭でも、気持ちでも。

 咲良が言うには、彼がああして、この時間帯に電車待ちをするようになったのは、二学期になってからだという。初めて彼に気付いた日に教えてもらった。

『怪しい奴じゃあないよ、あたしたちと同じ中学だったし。田辺 翔也しょうや、知らない? C組だったんだけど』

『わかんない……私A組だから遠かったし』

『教室からもあんまり出なかったしねー。まぁアイツもそんなに目立つようなヤツじゃなかったし。背は高いけどね』

 彼が何者なのかということよりも、そう言った咲良の表情が、なにか懐かしそうな風だったのが印象に残っている。その時、私はうらやましかったのだ。私にとって中学時代は、そんな懐かしさの対象ではなかったから。

 懐かしさは楽しさの記憶だ。その断片はきっときらきらと美しいんだろう。私は違った。日々、なにをどうすればいいのかに迷って、わからなくて逃避して、勉強しているか本を読むばかりだったから。それをしていれば、誰からも文句は言われなかったし、他のことをしない理由になったから。

 今だってそれは、根本的には変わっていない。咲良がリードしてくれるおかげで、少しずつ、日々の過ごし方楽しみ方というものが、ぼんやりわかってきたばかりなのだ。

 そんな私に、いきなり、どこかの誰かが――は、正確じゃないのか。

 あそこの、彼が――私のことを好きらしいよ、なんて言われましても。

 咲良はあの日、こう教えてくれたのだ。

『夏休みにあたし、一回だけ街中でアイツと会ってんだよね。偶然だったんだけど、向こうから声かけられて。久しぶりって。まぁ同じ地域に住んでるんだからそういうこともあるよね』

 私は夏休みでも、時間をもてあまして家でじっとしていることが多かったから、誰かと街で偶然出会うなんて経験は、まったくなかった。これまでの人生でも。こんなところでも、咲良がうらやましい。

『あたしたち、夏休み中にバドミントン部の応援しに、学校へ行ったことがあったじゃない? アイツたまたま、そのあたしたちを駅で見かけたんだって。でさ、“あの時いっしょにいた女の子、誰?”とか聞かれちゃったわけよ』

『ふうん』と私が生返事をしたのを、咲良は呆れたような感じで口を開けてたっけ。

『えっ、私なにか悪いことした?』

『そういう清純ってーか鈍感さが男にモテる秘訣なんかね……いや特にそうだと言われたわけじゃないけどさ、わかりやすいくらい、それって美月が気になってるってことでしょ』

『ふうん。……え、私?』

『そう、アンタ。でさ、その後、お互いの学校どこにあるんだっけとか、通学時間けっこうかかって大変だとかの話になって。ちょっと変ではあったのよね。何時何分の電車に乗るんだとか、細かく訊いてきたしさ。そしたら九月になって、アイツがホームにいるわけよ。あたしはすぐに気付いたね』

『はあ』私はその時、本当になにもピンと来ずに咲良の話を聞いていたのだった。

『もー、まだわかんない? アイツ、美月を一目見たくて、通学時間を変えてあそこに来てるんだよ? 絶対、間違いないって。アイツ、アンタに一目惚れしたんだよ。気付くのが遅かったねー、同じ中学にいたってのにさ。そのせいで今じゃあんな、ストーカーもどき。馬ッ鹿でー。周りのことなんか気にしない、恋愛とか興味ないって、マイペースキャラだったのに、高校に入ってから変わったんだねー』

 そんなことを言われましても。

 一目惚れ? えっ。好き? えっ。

「アイツ、諦めて来なくなるのが早いか、どうしようもなくなって直接こっちまで来るのが早いか、どっちだろうねー」

 なんて、咲良に茶化されると胸が騒ぐけど、でもこれは、きっと好きとか恋とかの胸の高鳴りとは、違ったものなのだと思う。少なくとも、今は、まだ。

 好き。言葉としては知ってる。私の手の届かないところに飾られた、憧れの対象みたいな存在としては。でも実感としては……なにもない。

 だいたい、単にホームのこちらとあちらで、顔を合わせているだけじゃないか。それで好きだの恋だの、いくらなんでも先走り過ぎじゃないのだろうか。

 仮にそういうことがあるとしても、それは私に向けたものではなくて、もう知った仲の咲良に向けたものかもしれないじゃないか。

 そんなことを、反論のように咲良に言うと、咲良は『ないない』とでも言うように手をひらひらと振った。

「思い出したんだけどさ、中学の時にあたしとアイツと、何人かのグループで、恋バナやったことあったのよね。その時に、『このグループ内に気になってたりする相手はいるか?』って話題があったけど、アイツは『いない。っつーか恋とか興味ない』なんて言ってたわ。じゃあなんでこんな話に乗ってきたって総ツッコミだったけど」

「咲良は中学時代から、仲が良かったの? そのぅ……あ、あの人と」

「翔也ね、憶えてやってよ。あたしはちょっとだけね。一年生の時に、バドミントン部で一学期だけ一緒で。あと二年の時、学習塾でも一学期だけ一緒だった」

「なぁにそれ」

「アイツ、いろいろ半端だったんだよね。さっき言ったマイペース過ぎて。どっちもすぐやめちゃった。ずぼらって感じもあったし」

「咲良、バドミントン部だったの? 私、今まで知らなかったよ?」

「一年で辞めちゃったからね。美月と初めて一緒になったのは二年のクラス替えだし」

「……あんまり人のこと笑えないんじゃない? あ、もしかして、それで夏休みに、バドミントン部の応援に?」

「そうそう、その時一緒だった先輩がさ、一人だけうちの高校に行ってて。バド部入れって言われてるんだけど、まぁ応援くらい行くからカンベンしてくださいって。付き合ってくれてありがとうね美月ぃー。あの時は助かったよぉー」

「へぇ……でももったいなくない? 一年だけでもやってたんなら、高校でもやればいいのに、身長高いからきっと有利なんでしょ?」

「あたしのことはいーいーの。でさ、話戻して、そのずぼらな翔也が、こっちの時間に合わせて駅のホームにたたずんでるわけよ。健気だねー青春だよねー」

 うう、話を戻されてしまった。

 そこへ渡りに船、私に電車。顔を打つ風の勢いも、今日は許せる気分だ。急いで乗り込む。今日は席が埋まっていたので、反対側のドア横ポジションを咲良と二人で占める。ふう。

 でも、この選択もよろしくなかったかもしれない。ドアの大きな窓からは、向かい側、下りホームが見える。電車が動き出せば――

「ホラホラ、美月見て」咲良が小さな仕草で指をさす。窓の外、下りホーム。

 窓に貼られた広告のシールが邪魔で上半身だけだけど、あの男の子――翔也くんの姿が見えた。その顔が、こちらを追って動いている。電車が通り過ぎる前の最接近の瞬間、私は初めて、彼の顔をはっきりと目で捉えた。

 あれ。

 なんだろう、少し、胸が。うずく。

「あいつの通ってる学校、二駅先の公立なんだよ」と咲良が、電車の中モードの遠慮した声で言った。「たった二駅。あたしが健気って言う理由、わかるでしょ?」

 私たちの女子高は、もっと遠い。電車に乗っている時間は二倍、三倍どころじゃない。だから始業時刻が同じなら、彼と私たちが同じ時間帯に電車待ちをするということは、普通に考えれば、あり得ないわけで。

 なんだろう、胸が。うずく。

 

 

 

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